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最短の迷宮

 午後十一時四十五分。

 システムエンジニアの岸本博は、溜池山王駅の深い地下通路を、急ぎ足で歩いていた。

 終電まであとわずか。乗り換えの案内板に従って進んでいるはずだが、今夜に限って、いつも通っている道が妙に長く感じられた。

 岸本は論理的な男だった。無駄を嫌い、常に最短ルートを選択することを信条としている。スマートフォンの乗り換えアプリが示す「徒歩五分」という数字を信じ、彼は迷うことなく地下の迷宮へと足を踏み入れたのだ。

 だが、三つ目の角を曲がったとき、彼は足を止めた。

 そこには、真新しい黄色い案内板が掲げられていた。

『最短出口:この先、徒歩零分』

 徒歩零分。そんな表記はあり得ない。

 岸本は眉をひそめた。システムのバグか、あるいは誰かの悪ふざけか。

 しかし、その案内板が指し示す方向には、見たこともないほど細く、そして異常に天井の高い通路が伸びていた。

 壁のタイルは、規則正しい格子状に並んでいる。だが、その格子をじっと見つめていると、視覚が歪むような奇妙な幾何学的違和感に襲われた。

「……時間の節約だ。行ってみる価値はある」

 岸本は自分を納得させるように呟き、その細い通路へと足を踏み上げた。


 一歩、中へ入った瞬間、背後の喧騒が完全に遮断された。

 それまで聞こえていた遠くの列車の走行音や、他の乗客の微かな足音が、真空に吸い込まれたかのように消え去ったのだ。

 聞こえるのは、自分の革靴がタイルを叩く、乾いた音だけ。

 コツ、コツ、コツ。

 岸本は歩調を速めた。だが、どれだけ歩いても、通路の景色に変化がない。

 右側には白いタイル、左側にも白いタイル。前方には、果てしなく続く消失点。

 彼は腕時計を確認した。歩き始めてから既に五分が経過している。

 最短ルートのはずが、本来の乗り換え時間すらも超過しようとしていた。

 岸本は苛立ちを感じ、走り出した。

 しかし、走れば走るほど、通路の「長さ」が伸縮しているような錯覚に陥る。

 十メートル走ったはずなのに、振り返ると背後の壁は目と鼻の先にある。逆に前方を向くと、出口らしき光はさらに遠ざかっている。

「……おかしい。空間が歪んでいるのか?」

 彼は立ち止まり、壁のタイルに手を触れた。

 冷たい。だが、その感触は石や陶器のそれではなく、まるで凍りついた肉のように、微かな弾力を持っていた。

 ふと見ると、足元のタイルの隙間から、黒い液体がじわりと染み出している。

 液体は文字の形を成し、床一面に広がっていった。

『計算エラー:あなたの現在地は、定義されていません』

 岸本は戦慄した。

 彼はエンジニアとして、論理の届かない場所を最も恐れていた。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、現在地を確認しようとした。だが、画面に表示された地図は、グニャリと歪んだ円を描き、GPSのポインターは、地図上の存在しない海の上を狂ったように回転していた。

 その時、通路の前方から、一人の男が歩いてくるのが見えた。

 男は岸本と同じようなビジネススーツを着ており、同じようにスマートフォンを手に持っている。

 岸本は安堵し、声をかけようとした。

「すみません、この道の出口は……」

 だが、近づいてきた男の顔を見て、岸本は言葉を失った。

 その男の顔には、目も鼻も口もなかった。

 のっぺらぼうの顔面には、ただ一点、赤く光るエラーコードのような数字だけが点滅していた。

 男は岸本の横を通り過ぎる瞬間、機械的な声でこう囁いた。

「……無駄ですよ。ここは、最短を求めすぎて、時間を使い果たした者たちの終着駅だ」


 のっぺらぼうの男は、岸本の返答を待つことなく、背後の闇へと溶け込んでいった。

 後に残されたのは、心臓の鼓動を裏切るような、不気味な静寂だけだ。

 岸本は震える足で、さらに前へと進むしかなかった。戻ろうとしても、背後の通路は数歩歩くたびに壁がせり出し、退路を物理的に塗り潰していたからだ。

 進むにつれ、通路の構造はさらに異質さを増していった。

 天井の照明は、等間隔に配置されているはずなのに、ある地点では密集し、ある地点では数千メートルも先まで暗闇が続いていた。

 ふと、足元のタイルに違和感を覚えた。

 最初は単なる汚れかと思ったが、それは靴の裏にべったりと張り付く、人間の髪の毛のような繊維だった。

 隙間から溢れ出す黒い液体は、もはやインクではなく、腐敗した血液のような異臭を放ち始めている。

「……これは、何かの実験なのか? それとも……」

 岸本は壁を叩いた。

 ボフッ、と鈍い音がした。

 タイルだと思っていたものは、硬く乾燥した人間の皮膚のようであり、その下で巨大な血管が脈打っているのが手のひらを通じて伝わってきた。

 この通路自体が、生きている。

 地下鉄という巨大な生物が、効率という餌を求めて、この「最短迷宮」を胃袋として機能させているのだ。


 突然、前方の空間が大きく歪み、円形状に開けた場所に辿り着いた。

 そこは、無数の案内板が天井から吊り下げられた、巨大なドーム状の広間だった。

 掲げられた板には、どれも奇怪な行き先が記されている。

『後悔行き:所要時間、一生』

『絶望経由、忘却:徒歩零秒』

『岸本博の最期:ただいま到着』

 広間の中央には、一台の自動改札機がぽつんと置かれていた。

 電源が入っていないはずなのに、ゲートは青白く光り、何かの読み取りを待っている。

 岸本は、自分のポケットの中で、スマートフォンが異常な熱を帯びていることに気づいた。

 取り出すと、画面には一枚のデジタル切符が表示されていた。

 行き先は記されていない。ただ、そこには岸本がこれまでに人生で積み上げてきた「短縮した時間」の合計が、秒単位でカウントアップされていた。

 四百五万二千六百秒。

 彼が最短ルートを選び、無駄を削ぎ落とし、効率的に生きてきたことで「得をした」はずの時間。

 それが今、この迷宮を通り抜けるための通行料として請求されていた。

 改札機の液晶に、冷徹な文字が浮かぶ。

『不足しています。あなたの残りの寿命を、チャージしてください』

 岸本は背後を振り返ったが、そこには既に道はなかった。

 あるのは、自分と同じように効率を求め、この場所に辿り着いて「のっぺらぼう」になった、無数のサラリーマンたちの影だけだった。

 彼らは一様に、手にしたスマートフォンを改札機にかざし、自らの色彩を、表情を、そして時間を吸い取られていた。

 岸本は、震える手でスマートフォンを改札機の読み取り部に近づけた。

 ここで支払わなければ、永遠にこの幾何学的な胃袋の中で消化されるだけだ。

 ピッ。

 電子音が響き、ゲートが開いた。

 同時に、岸本の視界から、何かが決定的に欠落していく感覚がした。


 改札を抜けた瞬間、岸本の全身を凄まじい虚脱感が襲った。

 心臓の鼓動が一段階遅くなり、呼吸の深さが半分になったような、生命の燃焼率が強制的に引き下げられた感覚。

 チャージされたのは、彼が老後に楽しむはずだった時間か、あるいは愛する誰かと過ごすはずだった余白か。

 改札機の液晶には、無慈悲な一言だけが表示されていた。

『決済完了。最短ルートを構築します』

 目の前の空間が、まるで古い映画のフィルムが燃え落ちるように、中心から真っ黒な穴を開けて崩壊し始めた。

 岸本はその穴へと吸い込まれ、重力さえもがねじ曲がった管の中を、光速に近い速度で射出された。

 視神経が焼き切れるような白光。

 耳を劈く、地下鉄のブレーキ音。

 気がつくと、岸本は見慣れた地上出口の階段に立っていた。

 溜池山王駅、七番出口。

 肌を刺す夜風の冷たさと、遠くを走るタクシーの排気ガスの匂い。

 現実だ。彼は生還したのだ。

 岸本は激しく乱れた息を整えながら、震える手でスマートフォンを確認した。

 時刻は午後十一時五十分。

 迷宮に足を踏み入れた時から、わずか五分しか経過していない。

「……五分。本当に、最短ルートだったのか」

 彼は乾いた笑いを漏らした。

 だが、スマートフォンの画面に映った自分の顔を見て、その笑いは凍りついた。

 画面の中の自分は、五分前よりも明らかに「薄く」なっていた。

 髪には白いものが混じり、頬はこけ、眼窩の奥には数十年分の疲労が沈殿している。

 彼は、物理的な五分間と引き換えに、自らの人生の「密度」を数十パーセント分、あの改札機に支払ってしまったのだ。

 足元に違和感があり、視線を落とす。

 ビジネスシューズの紐が解けていた。

 いつもなら、彼は迷わず屈んで結び直す。一秒のロスも許さないのが彼の流儀だ。

 だが、指先を動かそうとした瞬間、猛烈な倦怠感が彼を支配した。

 結び直すことが、とてつもなく「無駄」に思える。

 歩くことも、働くことも、家に帰ることさえも。

 効率を極限まで突き詰めた結果、彼の中に残されたのは、目的を失った純粋な「移動」という機能だけだった。

 岸本は解けた紐を引きずりながら、ゾンビのような足取りで歩き出した。

 向かう先は、自宅ではない。

 彼は無意識のうちに、再び地下への階段を降り始めていた。

 もっと早く。もっと効率的に。

 最短を求め続けた彼の脳は、もはや「静止」という無駄に耐えられなくなっていた。


 地下通路の角を曲がると、そこにはまた、あの黄色い案内板が立っていた。

『最短出口:この先、徒歩零分』

 岸本は、のっぺらぼうになりかけた顔で、満足げに微笑んだ。

 彼は、今度こそ自分という存在の最後の一滴までを最短で使い切るために、迷わずその細い通路へと消えていった。

 地上では、誰もいない深夜の溜池山王駅に、ただ風の音だけが虚しく響いていた。


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