第3話 影の足音
霧の奥へ進むほど、樹海は深く、静かに、しかし確実に凛と花梨を試すようにざわめいていた。足元の苔はふかふかだが、踏み外せば蔓が絡みつき、森の中に落ちてしまいそうな不安が胸に忍び込む。
「……気を抜くな、凛」
花梨の声に凛は頷く。目は霧の先を凝らす。まだ敵の気配はない。しかし、どこからともなく足音が聞こえる。
──それは人のものではない。
低く、濁った音。まるで森の奥から、樹海そのものが歩いてくるかのようだった。
「……誰だ……?」
凛の声は小さくも力強く、拳を握る。樹海と心が共鳴している感覚は、戦いの余韻でまだ身体に残っていた。
霧の中から、微かに人影が浮かび上がる。
白影ではない。だが、動きは冷静で、戦闘の勘が研ぎ澄まされている。凛と花梨をじっと観察するその瞳は、敵か味方か判断できない。
「……新たな試練か……」
凛は胸の高鳴りを押さえ、花梨の手を握り返す。二人の心が一瞬だけ重なる。戦いの恐怖はまだ残るが、それ以上に互いの存在が勇気を与えていた。
突然、蔓が二人の周囲を一気に伸び、霧の中で蠢く。目では追えない速度。凛は反射的に飛び退き、花梨を守るように体を前に出す。
「凛……気をつけて!」
花梨の声が心に響く。微かな光が蔓に触れ、影の動きを鈍らせる。凛はその隙を逃さず、拳を振るった。
──拳が蔓を切り裂き、霧を裂く。
しかし、影の正体はただの蔓や樹海の意思ではなかった。黒い影が、樹海の霧に溶けるように姿を変え、二人を包み込む。
「……これは……!」
凛の心臓は限界まで鼓動する。恐怖と高揚が混ざり合い、拳に込める力が身体を突き抜ける。
花梨も勇気を振り絞り、手から放つ光を強める。二人の力が一瞬重なり、霧の奥で黒い影を押し返した。だが、影は逃げず、じっと二人を見つめる。
──まだ、試されている。
凛は拳を握り直す。心の奥で祖父の声が蘇る。
「恐れるな。力は、己を信じる心から生まれる」
その声に背中を押され、凛はもう一歩前へ進む。花梨もそっと頷き、手を握り返す。
霧深き樹海は、まだ試練を隠し続けている。しかし二人の心は、一歩ずつ、確実に進んでいた。
──影の足音は、ただ歩く音ではない。
それは樹海の試練の予告。
そして、凛たちの覚悟を試す鐘の音でもあった。
二人は互いの存在を確かめながら、霧の奥深くへ歩みを進める。樹海の影は、さらに濃く、深く、彼らを迎え入れる。
霧がさらに濃くなる。周囲の木々が黒く影を落とし、視界はほとんど効かない。足音ははっきり聞こえるが、その正体は見えない。森全体が生き物のように二人を包み込み、緊張が胸を締め付ける。
「……ここが、樹海の奥……」
凛は拳を握り直し、花梨の方を振り返る。少女は微かに震えていたが、瞳には決意の光が宿っていた。
「大丈夫、凛……私もいる」
花梨の声はかすかに震えるが、凛の心に力を与える。二人の心拍が互いに共鳴し、樹海の霧までもがその鼓動に応えるかのように揺れる。
──その時。
霧の中から黒い影が飛び出した。前回の白影とは違う、全身を漆黒の鎧のような霧で包んだ存在。目は赤く光り、冷たい殺意が辺りに染み渡る。
「……この者は……!」
凛は瞬時に体勢を整え、花梨を庇うように立つ。拳を振るう瞬間、蔓が森の奥から伸び、二人を捕らえようとする。
花梨が手をかざし、微かな光の盾を作る。蔓がその光に触れ、振動しながらも完全には消えない。凛は影の動きと樹海の気配を見極め、跳躍しながら拳を振るう。
──拳が蔓と霧の間を裂き、影に届く。
影は反応し、赤い瞳が凛を射抜く。全力で回避するが、森の中の蔓や霧が自由に動き、足元を奪う。凛は体をひねり、床に手をついて跳ね返り、拳を連打する。
「……行くぞ、花梨!」
花梨も手を強く掲げ、光を集中させる。二人の力が合わさり、霧を震わせ、影の動きを制御する。
その瞬間、影の鎧が光を反射し、赤い瞳に迷いが走った。凛は気づく――敵もまた恐怖と葛藤を抱えている。
「……もう、恐れに打たれない!」
凛は心の中で叫び、拳を強く振り抜く。蔓が裂け、影が後退する。花梨の光と拳の衝撃が重なり、影は霧に吸い込まれるように消えた。
森が静まり返り、霧がゆっくりと薄れる。凛は膝をつき、息を整える。花梨も微笑み、手を差し伸べた。二人は互いに微笑み返す。
「……やった……ね」
花梨の小さな声に、凛も微笑む。胸には戦いの高揚、恐怖、そして仲間と共に乗り越えた達成感が混ざり合う。
しかし、霧の奥深くで微かな囁きが聞こえる。言葉ではない。
──樹海はまだ試練を隠している。
──敵は、まだ完全には去っていない。
凛は拳を握り直し、花梨の手を取る。
「……行こう。まだ、終わってない」
二人は霧深き樹海の奥へ、一歩ずつ進む。恐怖も孤独も、すべて力に変えて。




