エピローグ 永遠の◼️
馬車の車輪が、湿った土を踏みしめていた。
森の奥へ進むほど、風は止み、鳥の声も消える。霧が徐々に深くなってきて、視界も悪くなってくる。聞こえるのは蹄の音と、車輪の軋みだけ。少年は荷台の窓から外を覗き込み、胸を高鳴らせていた。
初めて父の仕事に同行する日。
しかも、村で噂される”霧の屋敷”へ向かうのだ。少年の父親は商人で、数か月に一度この屋敷へ様々なものを届けに行っていた。少年の祖父、曾祖父の代からずっと。
そろそろ仕事を覚えさせようということで、商人の卵である少年は、最近は父親の仕事に連れて行かれることが多かった。今回も、その一環である。
少年は、今日が特別楽しみだった。霧の屋敷の噂といえば、村の子どもたちの間で鉄板のものがある。
「ねえ父さん。昔、この屋敷の化け物が、村人をたぁくさん殺したって話、本当?」
窓から身を乗り出し、冗談めかして笑った息子。
「その話は、二度とするな」
低く硬い声が、冷たい空気を裂いた。
少年はきょとんと馬の背に乗る父の背中を見つめる。何も少年は、その噂を本当だとは思っていない。父親の緊張が不思議だった。重苦しい沈黙が落ちた。
馬車が森を抜けた瞬間、霧の向こうにそれが現れた。
灰色の石壁に黒い蔦が絡みつき、煤けた窓が並ぶ。高くそびえる塔は、空を裂くように鋭く、雲を背負っていた。
門扉は黒鉄で、錆びひとつないのに、誰も触れたことがないような冷たさを放っている。少年は思わず息を呑んだ。噂の屋敷──村人が決して近づかない場所。
場所から荷を下ろし、小さな荷車に積んで屋敷の玄関口へ向かう。
重い扉が開いた瞬間、冷気が頬を撫でた。高い天井から吊るされたシャンデリアは美しく鈍い光を放ち、赤い絨毯が長く伸びている。燭台の灯りが揺れ、影が床を這う。昼間なのに、どこか薄暗い。豪奢なのに、不気味だ。
そして、その奥に立つ男を見た瞬間、息子は言葉を失った。
背が高く、濡羽色の長髪が燭台の光を受けて淡く輝いている。
顔立ちは異様なほど整っていて、彫像のようだ。
だが、その金色の瞳は冷たく、笑っていない。視線が合った瞬間、息子の背筋に寒気が走った。
「息子です。そろそろ仕事を覚えさせようかと」
父親が固い声で、しかし愛想よく少年を紹介した。男は沈黙を返す。やはり、どこか異様な男だった。
男は、最初の一瞬に少年を一瞥しただけで、以降その場では全く目が合うことはなかった。
少年は居心地悪く、視線をさまよわせた。
父と屋敷の男が低い声で言葉を交わしている間、息子はその空気に耐えきれず、視線を逸らした。
ふと、開け放たれた扉の向こうに庭が見えた。黒い薔薇が風に揺れている──その異様な美しさに、足が勝手に動いた。
庭は静まり返っていて、黒い薔薇が咲き誇っていた。屋敷に入る時に横目に見たが、一枚の美しい絵を切り取ったかのような美しさだった。
ふと、少年は瞬きした。その薔薇の群れの中に、少女が立っていたのだ。黒い薔薇をただ静かに見つめている。
黒いドレスが風に揺れ、長い髪が頬にかかる。
年齢は自分とそう変わらないように見えるのに、どこか人間離れした雰囲気があった。
視線が合った時、琥珀の瞳が金色に輝いたように見え、息子は息を呑んだ。
「こんにちは。お客様ですか?」
少女は柔らかく微笑んだ。その愛らしい声に、心臓が跳ねたような心地だった。
「あ、うん.....そうだよ。父と一緒に......」
言葉がもつれ、声が小さくなる。頬が熱くなるのを感じる。
向かい合う少女は、少年の声が小さくて聞こえなかったのか、優しく首を傾げた。
「あの…きみの、名前は..!」
少年が顔を上げ、頬を染めながら勇気を振り絞って声を出す。その瞬間、庭に大きな影が落ちて、周囲の温度が低くなった気がした。
とっさに振り返ると、背後にさっきまで玄関で父と話していたはずの、あの男がいた。
息子は驚愕し、喉が張り付いたように言葉を失った。
男は何も言わなかった。ただ、少年を静かに見下ろしていた。少年は気が付くと呼吸すら難しくなっていた。膝ががくがくと笑い出し、倒れこみそうになる。
少女が何かを言っているが、耳に入らなかった。頭がおかしくなりそうだ、息ができない、今すぐ、ここから逃げ出したい、いいや気絶してしまいたい...。
「コルヴァンさん」
少女が囁くように男の名を呼んだ。
瞬間、ふっと男...コルヴァンが、少年から視線を外した。
息が、できるようになる。
コルヴァンの視線は、まっすぐに少女に注がれる。そこからはもう二度と、少年へ視線と威圧が向けられることはなかった。
「良い茶葉が手に入りました…主よ」
先ほど父と話していた時とは違う、低く甘い声でコルヴァンは囁き、歩を進める。
少年を通り過ぎ、少女の目の前へ来ると恭しく手を差し出した。
「冷えてきましたな。屋敷へ戻りましょう」
壮絶に美しい男....その手を少女がとる姿は、黒薔薇の庭園もあいまって一枚の絵画のようだった。美しいが...どことなく、おぞましさを感じた。しかし、少年は目を離せなかった。
「こらっ!勝手にうろつくんじゃない!」
大急ぎで駆けてきた父が息子の腕を掴む。すると少女が顔を上げ、父親に微笑んだ。
「いつも、ありがとうございます」
その心のこもった丁寧なお礼に、しかし父は愛想笑いを浮かべながら冷や汗をかいていた。短く挨拶を告げると、追い立てられたように少年の腕を引き荷馬車の元へ向かう。息子は引きずられるようにその場を後にしながら、振り返った。
少女はコルヴァンに手を取られながら、静かにこちらを見送っていた。
◆
サクは窓辺に立ち、遠ざかる馬車を見送っていた。
庭を抜け、森へと消えていく小さな影───ほんのひとときの訪問者。少しでも言葉を交わせて嬉しかった。外の世界は、もう遠い。けれど、手を伸ばせば指先が触れるような気がした。
すると背後から手が伸びてきて、カーテンが音もなく引かれ、外界の光が絶たれた。
その白い手が、静かにサクの肩を抱き寄せる。
冷たい腕に絡め取られ、細い体が後ろへ引き寄せられた。耳元で衣擦れの音が微かに響く。
サクは息を呑んだ。背に押しあてられた冷たい感触が、熱を帯びているように感じる。
おそるおそる振り仰ぐと、黄金の瞳がすぐそこにあった。香い炎を宿した眼差しが、サクを射抜く。
言葉はなかった。ただ、彼の唇の端がわずかに持ち上がる。満足げに歪み、ゆっくりと覆いかぶさるように、サクに口づけた。その腕の中で、サクは静かに目を閉じた。
終
後日談配信予定のため 完結にはしておりません。
もしよろしければ、もう少しだけこの2人にお付き合いください。




