終章 主のいぬ間に
終章 主のいぬ間に
意識が朦朧としている。肩から胸まで走った傷が、血を流し続けている。自らの血で濡れた絨毯に身を沈め、サクは意識を手放しかけていた。
「なぜ」
掠れた声が響く。
迷子のような声だった。サクの意識は、それに引き戻されるように浮上した。
「なぜだ…主も、お前も……人間、なんかを…」
コルヴァンは床に膝をつき、かぎ爪の手で顔を覆っていた。巨大な翼が苦し気に丸まり、肩を震わせ、頂れている。
サクは痛みをこらえ、血に濡れた床に手をついた。
激痛はもはや痺れるようで、動くたびに指先が震え、視界が赤く滲んだ。
身体を引きずるようにして、コルヴァンの前へ進む。指を伸ばし、その肩に触れた。
「…大好き、だから、です…」
息も絶え絶えに告げた言葉。
「あなたの、ことが……」
濁った金色が揺れ、血まみれの少女を呆然と見つめる。
「……どうか、セレス様の……愛したあなたでいて……」
サクは抱きしめるように腕を回し、コルヴァンの背をゆっくりと撫でる。
指先に羽が触れてガサリと音をたてる。
やがて、ふっと力が抜けていく感覚。
ひどい出血に、意識すら取りこぼしそうだった。膝が折れ、華奢な体がゆらりと傾いた。
それを、異形の腕が抱きとめた。
窓も壁も壊れ、床が抉られて家具も粉砕されている..荒れ果てた一室は、静寂に包まれた。
屋敷の揺れが止まり、森のざわめきも消えている。ただ、血の匂いと、サクの微かな息遣いだけがあった。
サクは異形の腕の中でうっすらと瞳を開いた。乱れた黒髪の隙間から覗く、ぎらついた黄金の瞳。その瞳が、壊れそうな昏い光を宿してサクを見下ろしていた。
「…サク…」
低く地を這うような声が、沈黙を破った。
「わたくしを..止めたいか」
サクは、弱弱しく頷いた。するとコルヴァンの瞳が香く光り、歪んだ狂気を孕んだ黄金がぎらついた。
「……ならば、わたくしの…主になれ」
低く、地を這うような声。
「え…?」
聞き間違いではないだろうか。"主”…コルヴァンが、絶対と仰ぎすべてを捧げていた、セレスティアの立ち位置。そこに、自分を?
「契約を交わし、主となり、命令しろ──…人を殺すなと」
その声は甘く、しかし底知れぬ闇を孕んでいた。
「さもなくば、わたくしは……今度こそ、すべてを滅ぼす」
サクは朦朧とする意識の中でも迷ったが、深く思考する猶予はなかった。コルヴァンの血まみれのかぎ爪が、促すようにサクの頬を撫でた。
「さぁ…!」
コルヴァンは瞬きを一切せずに、サクを視線で射抜いていた。屋敷の空気がみ、黒い羽根が舞った。
「今、決めろ」
サクは難しいことは分からない。主となる、その意味すら分からなかった。
けれど、それで村が滅ぼされずに済むなら。
セレスの願いを叶えられるなら。
何より、それがきっとコルヴァンのためだから。
「…わか、りました..」
かすれた声で、喘ぐように答える。
「わた、し...あるじに、なり、ます...だから...」
だから、殺さないで…そう、続けようとした瞬間。
コルヴァンが、倒錯した喜悦の笑みを浮かべた。
美しい金色の瞳が濁り、ぎらつき、サクを睨め付けていた。サクは、ぞくりとして身をこわばらせた。
「…ふ、ふふ、はははは」
低く漏れ出す異形の嗤い声とともに、コルヴァンの黄金の瞳が更に禍々しい光を帯びて、床には赤黒い魔法陣が茨のように伸びた。再び重くなった空気にサクは瞠目する。
「ああ……サク!」
コルヴァンはサクを引き寄せ、その唇を塞いだ。冷たい唇の感触。しかし流れ込んできたのは、灼けつくような魔力の奔流だった。
「ん…むぐうっ!?」
同時に、サクの肩を抱いていた黒いかぎ爪が彼女の胸....コルヴァン自身がつけた、深い傷口に容赦なく突き立てられた。
「んあ゛あ゛っ…!?」
サクは悲鳴をあげる。とどめを刺されたのかと思った。しかし、サクを襲ったのは激痛ではなく熱だった。熱い液体が無理やり注がれているような感触。それは身体に流れ込むと更に温度を上げたよう。サクはわかっていないが、爪を伝って膨大な魔力が直接ねじ込まれてきていたのだ。
致命傷に近かった傷が、熱い魔力によって無理やり引きつり、焼かれ、繋ぎ合わされていく。肉体が、暴力的な力で強制的に修復されていく。
サクは声にならない悲鳴をあげ、コルヴァンの腕の中で悶えた。コルヴァンは鋼のような腕でサクを捕らえ、抑え付けて口付けを続けた。
やがて唇が離離されると、サクは息を荒げながらずるりとコルヴァンの腕の中に沈んだ。
──な、に…?なにが、おこって、るの…?
遠くなりかけていた意識が、覚醒してきている。どう考えても致死量の血を流したのに、生きている。痺れるような痛みが、鈍くなってきている。なぜ、なぜ───そんな思考を、コルヴァンの叫びが断ち切った。
「これでお前は、わたくしのものだ...!」
その声は甘美で、狂喜に満ちていた。びくびくと痙攣しているサクを抱き起こし、壊れかけている寝台に押し倒した。
「う、あ゛ッ」
「もはや死も、なにも...!我らを分かつことはない!」
寝台に押さえつけられたまま、異形の身に抱きしめられる。さらに大量の魔力が流れ込んでくる。
「う、あ゛ぁあ゛…!!こ、るゔぁ、ん、さっ…」
サクは耐えきれず、掠れた悲鳴をあげてコルヴァンの胸に縋りつく。頭を裂くような痛みと、吐き気が襲った。視界が赤黒く染まり、耳の奥で何かが軋んでいる。
「わたくしのものだ、お前はわたくしの…ふふふ、ははは…ははははは!!」
やがて押し殺したような低い笑い声がどんどんひきつるように高くなる。不気味な狂喜の声が響く。その声は脳に直接届いているかのように轟いた。
コルヴァンの狂笑が、いつまでも耳の中にこだまするようだった。やがてすべてに限界が訪れ、サクの意識は闇に沈んでいった。
◆
天井の高いダンスホール。埃をかぶったシャンデリアが、鈍い光を放っている。
部屋のぐるりを囲む重いカーテンは閉まっている。
壁際のカウチに、コルヴァンは腰かけていた。傍らの蓄音機が静かに回っており、どこか物悲しいワルツを奏でている。
彼は、それに耳を傾けながら、長い脚を組んで頬杖をつき、虚ろな眼でホールの中央を見つめている。
ふと、コルヴァンは片手を緩慢に持ち上げ、指揮をとるように揺らした。ホールの床に黒い影が蠢き、それは床から沸き上がるように形になった。長い髪の美しい少女が現れ、それはワルツの音色に合わせて踊りだした。
それを何とはなしに眺める。やがて、その影で作られた少女はコルヴァンに向けて小さな手を差し出した。一緒に踊りましょう、と誘うように。
コルヴァンの瞳が昏くなった。ゆるりと動かしていた掌を払うように振ると、少女の影は裂け、黒く霧散した。
音楽は流れ続ける。かつてセレスティアと踊った曲。
静かにそれを聞きながらコルヴァンは主の命令を...目覚めを、快復を、ただひたすら待っていた。年数を数えるのは、15年ほど経ってやめた。
コルヴァンは長い睫毛に縁どられた瞳を閉じる。
繰り返される音楽に、再び耳を傾ける。
その時、柔らかな声が頭に響いた。
『コルヴァン』
コルヴァンはハッと瞳を見開き、カウチから身を起こした。静かに凍り付いていた心が、胸が、灼けるような心地だった。待ち焦がれていた瞬間だった。
──主の声。主の命令。嗚呼、一体何十年ぶりだ?
『久しぶりのお客様が、いらっしゃったわ。おもてなしを、お願いね....』
その声は、どこか嬉しそうな、安堵したような、とにかく喜ばしいものであった。
「御意に、主よ」
誰もいないホールで、コルヴァンは恭しく胸に手をあてる。
そしてすぐに靴音を立てて廊下へ出ると通りがかりの手すりの誇りを魔術で払い、影の侍女を数体練り上げて放ち、そして───
その二階の窓から、ひとりでに開く庭の門扉を見た。恐らく主の意向で開いたのだろう。
絶句する。
転がるように敷地へ駆けこんでくる、小さな生き物を見て。
「.......あれを」
みすぼらしい小娘。痩せこけて、泥にまみれ、汚らしい。
「もてなせと......」
コルヴァンはこめかみを引きつらせ、ため息を吐く。
しかし、主の数十年ぶりの命令である。完璧にこなしてみせる。
そう決意し、長らく使われていない燭台を手に取ると息を吹きかけ、火を灯す。
そして長い髪を翻し、薄暗い廊下を後にした。
最上の家臣として、主の願いを完璧に果たすために。
◆
サクが屋敷で初めて夜を明かした日、その晩。コルヴァンは再び主の声を聞いた。
『あの子に、ぜひまた遊びに来るよう伝えてちょうだい....』
コルヴァンは耳を疑った。あの貧相な来客の訪問を、コルヴァンの主はたいそう喜んでいるのだ。
心から理解できなかったが、あの小娘がやってきて、この屋敷の止まっていた時間が動き出したような感覚があった。
埃を被っていたすべての調度品は綺麗に磨かれて、何十年ぶりかの燭台の灯りを反射している。
たびたび持ち込まれる花は野草だが、生命力に満ちていて静かな屋敷に生気を灯すようだった。
小さく軽い足音と控えめな少女の声はどこか新鮮だった。
とにかくサクの来訪は、沈黙していた屋敷の時を動かした。
それが良いのか、悪いのか。コルヴァンにはよくわからない。
──主が喜ぶなら、それでよい。
この時は、それ以上の感情はなかった。
この小娘は主のお気に入り。であれば、主の病の薬となるやもしれんと思っていた。
事実、数十年沈黙していた主が、彼女をきっかけに自分に命令を与えたのだから。
だから、魔力を与えた。この小娘は細くか弱く、寿命も短い。恐らくすぐ死ぬ。それでは困る。
魔力というのは、一気に与えれば毒となるが、量を考えれば薬となる。
コルヴァンは少しずつ、サクに魔力を注いだ。
口にするものに入れる。紅茶に。菓子に。果実に。
直接触れて与える。髪に、頬に、唇に。
丁寧に、辛抱強く注いだ甲斐あって、数年経つとサクはコルヴァンの期待に応えるように美しくなった。
髪にも肌にも魔力による生気が宿って瑞々しい。
しかし何より素晴らしいのはその瞳。彼女は気付いていないが、琥珀色の瞳は時折金色に輝いた。コルヴァンと同じ色。コルヴァンはそれを眺めるのが好きだった。
だからサクの頬に手をかけ、顔をあげさせ、落ち着かなさそうに瞬きするのをじっくりと見つめた。
この頃には、コルヴァンはサクの管理に夢中になっていた。その自覚もあった。
なぜここまで、主以外のものに執着するようになったかのか。きっかけは、何だったのだろう。
庭に薔薇を咲かせ、腰を抜かした後に笑顔を見せた時か?
腕の中で人形のように躍らせた時か?
魔力の乱れを、不覚にも安定させられた時か?
もしくは...主のお気に入りが壊れぬよう、管理を始めた....その内に情でも芽生えたか?
全てであって...どれも決定打ではない気がした。
◆
あるひと月ほど、少女は屋敷を訪れなかった。
その間、屋敷は再び静寂に包まれた。彼女の持ち込んだ花が枯れきって全ての花弁を落としても捨てられず、苛立った。
けれど、最終的にはどうしようもなく虚しくなった。
こんなことなら、閉じ込めておけば良かった。自分は主がいるため、ここを離れられない。捕まえに行けない。いいや、あんな小娘、そこまで執着するものでもないだろう。主からの命令もない。もうどうでもいい。やはり萎びた花は捨ててしまおう、今夜こそ──
ぐるぐると、そんなことを考えた。数十年、同じワルツを聞き続けていた時よりも、そのひと月ほどは虚無に溢れていて苦痛だった。
けれど、ある晩。サクの気配を感じた。コルヴァンは書斎の窓辺に立っており、彫像のように数日動いていなかったが、音もなく瞳を開く。
──鳴呼、いる。あの娘だ。森へ入ってきた。こちらへ向かっている。
何を告げようか。どうしてくれようか。昏い瞳で玄関ホールに降りた時、彼女の気配が敷地に入るよりずいぶん手前で止まっていることに気付く。
そして、頭に声が響いた。
『───』
サクは魔術を使えない。だが、コルヴァンに注がれた魔力を使用し、無意識に念話に近いことをしたのだろう。
『……コルヴァンさん』
だから、コルヴァンには聞こえた。自分の名を、細くよぶ声が。
冷気を纏ってそこへたどり着いたコルヴァンがみたものは、冷たい土の上。血と、泥と..他にも、異臭をたたせて、衰弱し、転がっている少女。間違いなく汚らしい存在だ。
以前の自分であれば、目の前に転がるだけでも不快に思う。ましてや触れるなどとんでもないだろう。
だが、コルヴァンは膝をついてその頬に指を伸ばした。すると頬を摺り寄せてきた。金色に光る瞳に涙をためて、コルヴァンの名を必死に呼んだ。
コルヴァンは、胸の奥に溜め込んでいた苛立ちや憎しみ、恨めしい気持ちなど、とにかく「どうしてくれよう」とサクに対して思っていたことが全てどうでもよくなってしまった。
かわりに、初めて感じる胸の痛みに暫く身動きがとれなかった。ここで彼の中の、歪んだ庇護欲のようなものが、何かもっと巨大で凶悪な感情となってしまった。
今は、それが胸の中で荒れ狂うようだった。
サクを清めて寝かしつけた後、コルヴァンは静かに外套を羽織って屋敷を後にした。
彼のテリトリーでもある森の中には稀に足を踏みだすことがあったが、主を屋敷に残して森まで出るなどありえない。
これまでそのような真似はしたことがない。
だがコルヴァンは、黒い霧に包まれた森を進んだ。不快で、汚らわしい、害虫どもの巣へ辿り着くために。
最初の家の汚れた扉の前で、コルヴァンは立ち止まった。するとコルヴァンを避けるように扉が音もなく赤黒く燃え、崩れ落ちる。燃え落ちた扉をコルヴァンは静かに踏み越える。絶叫が炎に呑まれ、影が蠢く。爪が肉を裂き、骨が砕ける鈍い音が夜に溶ける。
「1匹」
血に濡れた羽根が舞う。次の害虫の巣へ。
「2匹」
匂いを辿り、炎を灯し、喉を裂く。さあ次。
「3匹」
興が乗って手ずから喉を締めてやった。声が途切れた。次!
コルヴァンはふと、指先についた赤を見下ろし、低く笑う。
「全てで何匹だったか?.....まぁ良い。あれの匂いをつけたものは皆殺しだ」
コルヴァンの美しく優しい主は荒事を好まない。
普段であれば眉をひそめるだろう。だが今回は、きっとお許しくださっているという確信があった。
これは主のお気に入りを守るために行っていること。
コルヴァンは気配を隠しもせずに屋敷を発った。主がそれに気付かぬはずはない。諫めたいのならとっくに念話を使っているはず。だから良いのだ。そう、主も自分と同じ気持ちなのだと。
その日、すべての村人はカギを閉め窓を閉じきり、文字通り震えて祈りながら夜を明かすしかなかった。
カギを閉めようが、扉の前に家具を置こうが、コルヴァンが訪れた家は血の湖を作り焼け落ちた。
コルヴァンは滴るほどの血を浴びて、低い笑い声を落としながら村をさ迷い、やがて姿を消した。
サクの知る由はないが、その晩、村のほとんどの男は無惨に命を終えた。
◆
玄関ホールで、血まみれのコルヴァンを迎えたのはサクだった。
顔色を少し悪くして、コルヴァンを見つめている。
コルヴァンは機嫌が良かった。この小娘はここへ置くということが彼の中で決定していたからだ。勝手に決めていたが、主もきっと、異論はあるまいと思っていた。
苛立ちがあるとすれば、もっと害虫どもを嬲ってやればよかたっということと、なぜ、もっと早くサクを囲い込まなかったのかという後悔。
コルヴァンは予想もできなかったのだ。人間などという下等でか弱い生き物が、その中でも序列を作りサクを害しているだなんて。
しかし、コルヴァンは安堵していた。危ないところだった。取るに足らない虫どものせいで、このひな鳥を失うところだった。
サクの頬を撫でると、怯えた瞳で自分を見上げるのに、甘えるような声が漏れた。また、金色の瞳を潤ませている。
それが愛らしいと思い、コルヴァンは笑みを深めた。サクの頬の柔らかさと体温を味わった後、その手を引いて再び客間で寝かしつけた。
◆
そして、運命の朝がきた。光は喪われた。いや、とうの昔に指から滑り落ちていたのだ。
セレスティアの魔力が切れた瞬間。
コルヴァンにかけられた認識外の魔法が切れた瞬間。
記憶が、戻った瞬間。
コルヴァンは、主の部屋の前にいた。
震える指を、扉にあてる。まだ、信じられなかった。状況は、頭では理解できていた。
けれど、何かの勘違いで。主は、主だけは。ここに、いるのではないか。
また、優しく微笑んで命令をしてくれるのでは。いつか快復し、ダンスホールで、また...自分に、手を。
コルヴァンは、両開きの扉をゆっくりと開いた。
天蓋つきのベッド。そこで彼の主は眠っていた。どこも腐らない、美しい姿で。
けれど、やはり。それは魔力で美しく保たれていただけの骸だった。
コルヴァンはよろけ、ベッドサイドのテーブルに飾られていた花瓶に腕が当たった。甲高い音を立てて、花瓶とびた花が床に散った。
「.....ああああ......」
低い申きが、地響きのように響いた。
◆
契約。
コルヴァンがセレスティアと結んだ契約と、サクと結んだそれは全く異なっている。
セレスティアとの契約は誇りだった。互いに誓い合った、対等の契約。
コルヴァンは主を守り、セレスティアはコルヴァンに仕える権利を与える。コルヴァンは自身の主に、誇りと愛情をもって跪き、忠誠を誓っていた。その言葉に偽りはなかった。彼は彼女と出会ってからは、ただそのために生きてきたのだから。
だが、サクとの契約は違う。
彼女は「主になる」と言っただけだ。弱すぎる。契約の文言など、理解できるはずもない。
コルヴァンはそれを、己の好きなように書き換えた。魂も、肉体も、寿命も、すべてを自分に捧げる契約に。
───わたくしを止めるために、契約したつもりだろう?
違う。お前がただ、わたくしに縛られたのだ。もう離さない。死も、時間も、何ものも、我らを分かつことはない。
だから、嗚呼、どうか…今度こそ二度と、永遠に喪われることのないように───
◆
サクはぼんやりと、清潔なシーツの上で目を覚ました。
黒いカーテンと、金の装飾が施された天蓋つきのベッドで寝かされている。ここがどこの部屋かは分からないが、客室でもセレスの部屋でもなかった。
「……」
長い夢を見ていた気がする。夢の内容は思い出せないが、誰かがずっと嗤っていた。笑っていたのに、虚しそうで、苦しそうな響きだった...。
どこからどこまでが夢だったのか、分からない。少なくとも今は、現実にいるのだろうか....。
サクは自分の腕をゆっくりと持ち上げる。しっとりとした生地の黒いナイトドレス。サクにはやや長めの袖がたらんと下がる。
胸元に引き裂かれた痕はなく、以前身に着けていたものから替えられているようだった。そう、引き裂かれた...
サクはハッとして身を起こし、ナイトドレスの胸元のボタンを拙い手つきでまさぐってプップツと開けた。
「あ...」
サクの左肩から胸まで、まっすぐに傷跡が残っていた。しかしとっくに塞がっていて、痕になっているようだ。
──やっぱり夢じゃ、ない。
セレスの消失。コルヴァンの狂乱。自分は彼の爪で切り裂かれ、そして、『主になれ」と…
「コルヴァンさん...!」
彼は、どこに?
村を、国を、滅ぼそうとしていた。本当にやめてくれた?
そして今..彼の心は、大丈夫だるうか。
セレスの死を、現実を、受け止められた?
サクはベッドから這い出ようとしたが、うまくカが入らずに転がり落ちた。
「うぅっ!?」
毛足の長い絨毯に沈んだまま、目を白黒させる。上手く身体が動かない。必死に身を起こし、立ち上がろうとするも、今度はひどい眩暈がして頭をおさえた。
ギイ。
静かに、扉が開く音がした。共に、冷ややかな空気が入ってきたように感じた。サクが声もなく見上げると、高い位置の金色と視線が合った。
「───…」
コルヴァンは、絨毯に沈むサクを、感情の読めない静かな瞳で見下るしていた。落ち着いているように見える。けれど、内心はどうか分からない。
サクは青ざめて、ただ彼を見上げていた。
コルヴァンは何も言わない。
普段の彼なら、ベッドから転げ落ちていれば「愚図が」とか「どん臭い小娘め」だとか悪態を吐きそうなものだが無言である。
不気味で、恐ろしくて、不安だった。
サクも、何を言えばいいのか分からない。聞きたいことはたくさんあるのに。
よく見ると、コルヴァンは銀のプレートを持っていた。そこには、水差しがある。
やがて、コルヴァンはそれをサイドテーブルに置くと...へたりこむサクの前で、胸に手をあてて優雅に跪いた。
「お目覚めのようで...我が主よ」
サクはぽかんとコルヴァンを見つめた。聞きなれない口調。
「えっと...?」
コルヴァンは腕を伸ばし、困惑するサクをふわりと抱き上げた。静かに、ベッドへ腰かけさせる。そして、サクが動転して開きっぱなしにしてしまい、はだけたままのサクの胸元に目を落とした。
サクは息を呑んだ。コルヴァンがそれを見てうっすらと笑い、傷を冷たい指でなぞったからだ。
「あ、の。コルヴァン、さん....」
サクの微かな声に、コルヴァンはふと顔を上げた。そして、笑みを深める。
「ご体調はいかがですかな。何か口にされますか」
サクは瞬きをする。
「えっ...と...身体が、うまく、動かないといいますか...おなかは、あまりすいてない、です...」
恭しい言葉と態度に慣れず、サクは口ごもる。
コルヴァンは困惑するサクに構わず、水差しを持ち上げてサクの口元へ寄せ、逆の手でサクの顎を掬い上げた。
「主が目覚めたのは7日ぶり。うまく体を動かせないのは当然です」
──7日...!?そんなに眠っていたの?
コルヴァンが水差しを少し傾けた。戸惑うサクの唇を伝って、水が内にわずかに流れ込んでくる。すると以前と同じように、もしくはそれ以上に。思い出したかのようにひどい枯渇が身を襲い、サクは思わず水差しをコルヴァンの掌ごと両手で包んで更に傾けようとした。
しかし、コルヴァンはそれをひょいと持ち上げてサクの唇から離してしまう。
「あぁっ...」
サクはつい、悲しい声をあげてしまう。それを見てコルヴァンはおかしそうに喉を鳴らして笑った。
「“食いつき”が良いようで何より」
その水差しを、自らの口に含んだ。そしてポカンとするサクの顎を掴み上げると、有無を言わさず唇を奪った。水をそのまま口移しで与えられる。
「ん、む!?」
コルヴァンの唇を通して喉に滑り落ちた水は、先ほど水差しから飲んだ水よりも何倍も濃厚で、仄かに甘かった。
渇いた身体に一気に染み渡るよう。気が付くと、サクはコルヴァンの白い頬を両手で包んで必死に引き寄せ、自分も身を乗り出すようにして水を飲み下していた。水がなくなっても、サクはうっとりとしてコルヴァンに拙く唇を重ね続けた。
口づけているだけで何か暖かいものが流れ込んできているような感覚があった。コルヴァンは眼を細め、サクの好きなようにさせてやりながら、褒めてやるようにサクの華奢な肩を撫でた。
やがて、ゆっくりと唇が離れる。サクは息を切らせながらぼんやりとコルヴァンを見つめていたが、我に返ると赤面を通り越して真っ青になった。
「ご、ごめ....!ごめんなさ、」
ものすごくはしたないことをしてしまったと思った。コルヴァンからの接触は良くても、自分からはだめなのだとサクは考えていた。気色が悪い、と言われたらどうしようかと涙目で。しかしコルヴァンは、慌てふためくサクの手を取り、自分の頬にあてた。
「良いのです…貴女は、わたくしの主なのだから」
歪んだ黄金の眼が、熱をもってじっとりとサクを見つめた。
「この身を、好きにすればよろしい」
サクは冷や汗をかいて、コルヴァンを見上げた。
「...どうして、ですか....?なんで、こんな、」
コルヴァンの瞳をみればわかる。彼は、サクを主として認めているわけでも、忠誠を誓いたいわけでもない。その金色の奥には、相変わらず香い炎のような、歪んだ執着が渦巻いているだけだ。
何故、わざわざ態度を変えるのだろう。そもそも”主になる”とはどういうことなのだろう。そして彼は、サクの願いを聞いてくれたのだろうか。村を、国を、襲ったりなどしない..?
ぐるぐると思考していると、コルヴァンの大きな掌がサクの頭を撫でた。
「その、小さな頭で」
滑稽なものを見る眼。やはり、前と変わらずサクを見下しており、主などとは思っていない。
「何も考える必要はない」
サクは、息を詰めた。
「ただ、わたくしに愛でられていればよい」
そのまま身を屈め、サクの胸に顔を埋めた。はだけたままの胸元、自らがつけた傷にゆっくり口付ける。
じわ、と傷跡が熱を持った。じくじぬとした痛みを伴う熱ではなく、どうしようもなく心地よい熱。
「ひっ…あ、あつ、い…」
苦痛ではなく、甘美な熱に魘されるような甘い声だった。コルヴァンはそれを心地よさそうに聞きながら、彼女をそのまま静かに寝台へ押し倒した。
次回
エピローグ 永遠の◼️




