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6章 死人に口なし


──どうか、この永遠が二度と喪われぬように。


6章 死人に口なし


夜の冷気が、身体の芯まで冷やすようだった。あばら家の隅で、サクは膝を抱えて震えている。


粗末なボロ布は湿り、冷たい土の匂いが鼻を刺す。喉は渇いているのに、水を飲む気力もない。食事など、もう何日もまともに口にしていない。眠ろうとしても、目を閉じれば恐怖が這い寄ってくる。


普通の人間であれば、肉体的に限界を迎えてもおかしくない生活をしている。けれどサクは、意識も命も手放せなかった。なぜか肉体が壊れない。弱々しくあるが、支障なく動く。痛みにも不快感にも反応する。


しかし心は限界だった。ぼんやりとした視界に、錆びた鉄の首輪につながる鎖が映る。


村の者たちは、サクが物心ついた頃から首の鎖を引き、奴隷と呼び、嘲笑し、殴り、蹴った。

数か月前から、それだけではなくなった。成長し、素朴な愛らしさをおびてきたサクを見る村の男たちの目が変わったのだ。


コルヴァンに丁寧に梳かれた髪、治療を施された身体、食事や睡眠を与えられて血色の良くなってきた頬....そしてサク自身は気付いていないが、たまに不思議な色に輝く瞳。その異様な美しさに、彼らは魅せられ、病的な執着を募らせた。


傷つけ、犯し、苦しませながらも、手放さない。

涙を流し許しを懇願しても、欲情に火をつけるだけ。彼らの狂気に、サクは訳も分からず恐怖した。


サクは震えながら、鉛のように重い体を起こす。もうすぐ夜が来る。あのおぞましい時間が。


もう、殺されてしまったほうがましだとすら思った。これ以上、男たちに蹂躙されるのは耐えられない。よろけるように、あばら屋を出る。


夜の森へ、ぼろぼろの身体を引きずって逃げ出した。


だが──背後から、複数の足音が迫る。サクは必死に走る。けれど、元気に走れる力など当然残っておらず、すぐに追いつかれた。


木々の間で細腕を掴まれ、地面に引き倒された。冷たい土に頬を押しつけられ、視界が暗くなる。叫び声などあげられなかった。


サクの唇が震えた。


「……コルヴァンさん」


吐息のような、囁きのような弱々しい声だった。今まさに彼女にのしかかっている男すら、聞き取れないような微かな音だった。


しかしそれが、夜闇に溶けた瞬間──応えるように、森がざわめいた。


冷気が一気に広がり、霧が黒く染まる。男たちの笑い声が止まった。皆鳥肌を立て、本能で恐怖を感じ、すくみ上っていた。

サクはなぜか、寒いとは感じなかった。ぼんやりと冷気を放つ絶対的な存在のいる方向へ、まなざしをむけていた。


「な、なんだ…!?」


霧の奥から、長い影が歩み出た。黒い羽がひとひら、地面に落ちた。

異様な気配に怯えた男たちは、悲鳴を上げて逃げ出す。


サクは、ぼんやりと見上げた。服を破られ、泥と傷にまみれたサクを見下ろすその瞳は、虚ろで無表情なのに、どこか狂気を孕んでいた。 


逃げて行った男達のことなど、気にも留めていないようで見向きもしない。瞳孔が獣のように開き、ただサクを視線で射抜いていた。


「暫く…顔を見せないかと思えば」


地を這うように低く、冷えた声だった。けれど、サクは懐かしくてたまらなかった。


「今夜は一段と、みすぼらしい」


サクは彼をぼんやりと見上げて、何も言えなかった。こんなに汚れてしまったから、もう前のようには触れてもらえないだろう。そう思った。けれど、コルヴァンの姿をひとめ見れただけで嬉しかった。今、とても幸福だと思った。だから、触れてもらえなくても良いと。


しかし次の瞬間、コルヴァンは跪いた。そして地面に転がるサクの、泥だらけの頬に指先を触れた。冷たい指の感触。焦がれていた温度。サクの目から、枯れたと思っていた涙があふれでる。


「──っ…」


涙をこぼして、サクはコルヴァンの手に頬をすり寄せた。頭上で、小さく息を飲む音がした。


「こる、ゔぁんさん…こるゔぁんさんだ…っうっ、あっ、あいたかっ、た…」


ぼろぼろと涙をこぼし、必死にコルヴァンの大きな手を両手で掴み、額を寄せる。コルヴァンはしばらく、そこから動かなかった。

やがてサクの嗚咽が小さくなると、そっとその掌をサクの手の中から引き抜いた。


そして次の瞬間、サクの軽すぎる身体が宙に浮いた。コルヴァンの腕に抱えられたのだ。サクはまだ涙の渇かない瞳を見開く。コルヴァンは静かに、どこか慎重に歩き出した。


サクは泥と血にまみれたまま、運ばれていく。コルヴァンの黒い袖やスカーフがサクに擦れて汚れたが、彼は全く気に留めなかった。


屋敷の門が見えた瞬間、サクの傷だらけの瞳に再び涙があふれた。屋敷の灯りが遠くに見える。


霧の中で、古い扉が音もなく開いた。不穏な冷風が吹き、黒い木々や枝を揺らす。屋敷の静けさと対照的に、外の世界がざわめいている。


コルヴァンは一言も発しない。ただ、腕の中でサクを抱き締める力が、ほんのわずか強くなった。

ゆっくりと扉をくぐる。静かな夜の屋敷へ、サクが数か月ぶりに連れてこられることとなった。


屋敷に入ると、コルヴァンはまっすぐに浴室へ向かった。

大理石の浴室は白い湯気で満ちていて、既に暖かな湯が張ってある。コルヴァンはサクを静かに浴室の床におろし、サクの身に着けているボロ布に指をかけ、躊躇いなく脱がせていった。サクはもはや抵抗や恥じらう気力もなくされるがままで、ただうつむいていた。


コルヴァンの指が、幾筋もの傷の残る肌を滑った。

泥と血と、様々な体液で汚れた体を淡々と清め始める。身体に湯をかけて洗い流し、こびりついた汚れは濡れた布巾で丁寧にふき取っていく。

傷は強く擦らないように、力加減もされている…。ややあってサクが、小さく唇を開いた。


「じ、ぶんで…やり、ます」


掠れた小さな声を、コルヴァンは最初は無視をして洗浄を続けたが、次の言葉に手を止めた。


「きたない、から…」


コルヴァンは、震えているサクを静かに見下ろした。サクは、自分の身体が色々な意味で汚れていると思った。これ以上そんな汚い自分に、美しいものを愛する、自身も美しいコルヴァンが触れるのは良くない気がした。


「そうだな」


コルヴァンは短く答えた。サクは涙を必死にこらえた。


「ご、ごめんな、さ...」

「故に、清めている」


コルヴァンが静かに返した言葉に、サクは瞳に涙をためたまま顔を上げた。


「黙って任せていろ」


サクは我慢しようとしたが、できなかった。ひっく!と大きな声でしゃくりあげる。そのまま嗚咽を上げ始めた。

するとコルヴァンは服が濡れるのも構わず、傷だらけの小さな身体を抱き寄せた。


「お前は、ここへ戻ろうとしていた…」


コルヴァンが、小さな子へやるようにサクの背を撫でながら囁いた。


「良い子だ。何も心配はいらない…」


浴室に、すすり泣く声が暫く響いた。コルヴァンは手を止め、サクが落ち着くまでその背を撫でてやった。

やがてサクの背が大きく揺れなくなった頃、コルヴァンはふと視線を落とし、サクの細い首についた錆びかけの首輪を見た。


そこから伸びる鎖を見下ろす。静かなコルヴァンの瞳が不穏にゆれた。首輪に手をかける。グッ、と握る手に力が入った。


バキン!


高い音がして、サクの首がすっと軽くなった。サクが目を見開き、顔を上げる。コルヴァンの掌の中で、鉄の欠片が灰になってザラザラと落ちていく。


「前から気に入らなかった…なんとも醜い」


コルヴァンがうっそりとつぶやいた。首輪が外れ、あらわになったサクの…擦れて赤黒くなっている、細い首を執拗に撫でる。サクはびくりと震えた。その反応にふ、と笑みを深めながら、コルヴァンは囁いた。


「いずれ、別の飾りを贈ろう」


浴室から出ると、清められた身体を丁寧に拭かれる。コルヴァンはサクを大きなタオルケットに包むと、一度浴室を離れた。


浴室の蒸気が薄れてきた頃、衣服を手に戻ってきた。その服はシルクの肌触りの良い黒地のナイトドレスで、金の茨と赤い薔薇の繊細な刺繍が袖や襟を飾っていた。サクはてっきり自分の着ていたボロ布を再度身に着けると思っていたので、戸惑ってそれを見つめる。


コルヴァンはサクの戸惑いの視線に応えることなく、ボタンの外れたそれをふわりとサクの肩にかける。彼が静かに跪くと、顔の距離がぐっと近くなり、サクは思わず身を引きそうになったが、無造作に腕を掴まれて阻まれる。

そのまま金刺繍の編み込まれたきらきらとしたボタンを、長い指先で器用にとめていった。


「あ、あの。このお洋服は」


サクは困惑しながらコルヴァンにようやく尋ねた。コルヴァンは顔をあげずに唇を開く。


「主のものだ」

「えっ...」


サクは青ざめて腕を持ち上げた。サイズが少し大き目なのか、たらんと袖が垂れる。背幅は足りておらず、ドレスの裾は床を擦っている。


月夜に現れる、天使のような少女、セレスティア。この屋敷の主人で、コルヴァンが心から仕えている主…。

優しくて穢れない彼女の衣服を、奴隷で汚れた自分が身に着けるだなんてとんでもないことのように思えた。


「構わん...」


ボタンを留め終わったコルヴァンは、サクの思考を先読みしたかのように薄く笑って囁いた。


「主はきっと、お許しになる」


彼の声は低く、どこか甘ったるい響きを帯びていた。サクの髪から垂れた雫が、細い首筋を滑る。コルヴァンの指先が、なぞるように首を這ってそれを拭った。びくっと跳ねる小さな肩を落ち着けるようにそのまま撫でつけた後、コルヴァンはサクを軽々と抱え上げた。


そのまま静かに客室まで運ばれる。久しぶりに連れてこられた客室は、相変わらず清潔で静かな木の香りを漂わせていた。


寝台に座る形で丁寧に下ろされ、サイドテーブルに置いてあった透明な水差しを口元へ寄せられた。

サクは食欲もなく疲労していたが、促されるがまま、力なくそれを咥える──すると、流れ込んできた一滴を飲み込んだ途端、からからの喉が歓喜したようだった。

こくこくと喉を動かして、夢中で飲む。コルヴァンはサクが飲みやすいように水差しを傾けてやりながら、その様をじっと見つめていた。


ただの水なのに、異常なまでの満足感があった。喉だけではなく身体じゅうに染み渡るような感覚だった。水差しが空になり、サクはやっと満足して唇を離した。


そこで、無我夢中だったのか、水差しを持っているコルヴァンの冷たい手ごと両手で掴み胸元に引き寄せていたことに気付き、慌てて手を離す。

コルヴァンは大して気にした様子もなく水差しを置くと、サクの口元をハンカチで拭った。そのまま指を滑らせ、少し赤くなった彼女の頬を指の背で撫でた。


「食事を摂るか?」


サクはコルヴァンの冷たい指先の温度をうっとりと感じながら、ゆっくりと首を横に振った。とてつもない疲労と眠気が、瞼を重くしてきていた。

コルヴァンはサクの背中に手を差し入れて支えながら、静かに寝台へ横たえた。


「良い子だ。おやすみ...」


静かに低いコルヴァンの声に誘われるように、サクは意識を手放した。



次にサクが目覚めたのは、意識を失ってから間もなくの深夜だった。


階下で物音がした。

ぱちと目を開く。まだ疲労感は残っていたが、だいぶましになってきていて、意識もはっきりとしていた。サクはよろけるように身を起こし、寝台から這い出た。


客室の扉を開けると、廊下には月明かりが差し込んでいた。そっと窓へ寄って背伸びをすると、玄関口から黒い影が歩み去るのが見えた。黒いマントを羽織った...コルヴァンだった。


サクは、思わず窓枠に手をついてガラスに顔を近付けた。彼が屋敷を離れるのを見るのは初めてだ。


──セレス様を置いて、どこへ…?


そんな疑問が胸に渦を巻く。自分を迎えに、敷地の外へ出てきてくれたことは何度かあったが...今はサクもここにいる。一体、外にどんな用事があるのか。


サクは首を傾げながら、その後ろ姿を見送った。その時だった。


『サク』


小さな...本当に微かな、囁くような少女の声が、背後から聞こえた。


サクはガバッと顔を上げて振り返ったが、薄暗い廊下にはだれもいない。アンティークの燭台、壁にかかるカラスの飾り、花の描かれた絵画...。それらに視線を巡らせながら、サクは「セレス様...?」と囁いた。


『こちらへ』


今度は先ほどよりもはっきり聞こえた。サクは導かれるように窓から離れ、廊下を進んだ。


サクは、両開きの扉の前に辿り着いた。金の細工で縁どられた扉。入ったことがなかったし、そもそもこの扉が開いたところを見たことがない。


重厚な黒檀に絡みつくような金の装飾──その奥に、屋敷の主がいるのだと直感する。


『どうぞ、入って』


声が、確実に扉の向こうから響いた。胸が高鳴る。久しぶりにセレスティアの声を聞けた喜びと、なぜか不安が入り混じる。


サクは震える指で扉に手をかけた。両開きの扉が軋む音を立てて開いた瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。


部屋の中は、屋敷で最も整えられた一室だった。深紅の絨毯が床を覆い、壁には金糸で縫い取られたタペストリーが垂れている。窓から注ぐ月光の淡い光が、天蓋つきのベッドを照らしていた。そのベッドの上に──


金の髪が枕に広がり、白いナイトドレスが、月光を反射して淡く光っている。


サクは息を呑んだ。それは肖像画で見た少女と同じ姿だった。美しい人形のような少女が胸の前で手を組み、瞳を閉じて眠っている。けれどあまりにも静かで、生気のない貌だった。まるで、眠っているのではなく…。


『見つけてくれて、ありがとう』


声が、確かにそこから響いた。サクは震える指で口を押さえた。その唇は動いていないのに、声だけが耳に届いたのだ。


「セレス様……?」


かすれた声で呼ぶ。


「驚かせてしまって、ごめんなさい」


やはり、声は確かにする。優しい声。しかしどこか遠い。


そして、目の前の金髪の少女はぴくりとも動いていない。唇を動かしていない。瞳は開いていない。胸は…ほんの僅かにも、上下していない。


衝撃で凍り付いているサクは、よろけるようにセレスティアの眠る寝台へ近付いた。


「セレスティアは、死んでいます」


セレスティアの身体はなぜか美しく保たれ、腐ってはいないが…間違いなく、骸だった。


サクは絶句する。


「コルヴァンは、これを知りません。分からないよう、魔術を施しているのです」


優しく、落ち着いた言葉。普段は耳にすれば心地よい、心が満たされるのに。今は、胸が軋むように痛んでいく。喉が渇いていく。眩暈がする。サクは立っていられなくて、寝台の柱に手をついた。


「い、つから、こんな、セレスさま...」

「あなたがこの屋敷を訪れる、ずうっと前から」


静かな声音で告げられた、しかしあまりにも衝撃的な事実に、サクは頭が真っ白になって震えながら俯いた。視界が涙で滲んでいく。


「セレスティアは...人の手によって死にました」


サクが涙をためた瞳を見開く。


「コルヴァンに、人を憎んでほしくなかった。だから魔法の残滓で、彼の記憶を封じて認識疎外をかけました」


サクは混乱した。彼女の言うことが理解できなかった。頭で、この情報量を整理できない。


「わ、わかりません。どういう、ことですか…?」


サクは涙をこぼしながら顔をあげ、必死にセレスティアの遺体を見つめた。


「本当に、死んで…?こうして、話せているのに?目覚められるんじゃ、ないですか?いっぱい休んだら、そしたら、きっと…」


声は、数秒沈黙した。そして、再び声が響いた。


「私は…セレスティアの魔力の残滓で作り上げた、彼女の幻影です。厳密には、セレスティアではないのです」


サクの胸に、冷たいものが広がっていく。


「セレスティアは願いを込めて私を残しました。私は、それを叶えたい…」


静かだが、祈るような声音だった。


「サク、あなたは本当に優しくて素敵な子…」


サクは身を崩すように跪き、冷たいセレスの手に触れた。俯き、シーツに涙が落ちる。


「どうか、ずっとここにいてください。コルヴァンのことを、お願い」


サクは小さく嗚咽をあげながら、「でも...」と言った。


「わたしは、村の…奴隷、だから…」


もう首輪はない、擦れて赤くなった首に触れながら。


「大丈夫。ここにいれば、だれも連れ戻しになんて来ない」


声は、静かにサクの涙交じりの声を否定した。


「それに、だって…私なんか、ずっといるなんて。ご、ご迷惑じゃ」

「とんでもない。あなたはもはや、客人ではありません」


サクは涙ぐんで、動かないセレスティアの美しい貌を見つめた。


「私にとっても...コルヴァンにとっても」


静かに、しかし奇妙なほどに力強い言葉だった。サクは潤んだ瞳を揺らす。


「サク、ようく聞いてほしいの。もうすぐ、魔力が切れます」


そこで、声が切実な響きとなった。


「コルヴァンは主の死を認識します。記憶も戻るでしょう。その時、どうか傍にいてあげて。彼の...かたわらに」

「あなたは...セレス様は?」


サクは幼子が縋るように、声に尋ねた。


「むずしいことは…やっぱりよく、わかりません。でも、わ、わたしにとっては、あなたがセレス様です…優しい声で、いっぱいお話してくれて、嬉しかった」


冷たい部屋に、沈黙が落ちる。声は、一度言葉を失ったように黙った。サクは涙をぬぐって顔をあげた。


「だからセレス様....きっとまたお話、しましょう?コルヴァンさんとも…お話してあげて、くださいね」


無理やり笑顔を作るサクの声に、数秒の沈黙が落ちた。


「サク...ありがとう」


静かに、しかし小さく声が震えた気がした。そして。


「ごめんなさいね……」


その言葉は、思わず漏れた吐息のように儚かった。サクが首をかしげた瞬間、階下で扉の軋む音が響く。


「…彼が、帰ってきたようですね」


声は、今にも消えてしまいそうなほど儚く感じられた。サクはその声に促されているような気がして、名残惜しそうに立ち上がり、扉に手をかける。

振り返った部屋には、冷たい香りだけが残っていた。


「セレス様。また....」


もう、声が答えることはなかった。


サクはこっそり部屋に戻ろうとしたが、胸騒ぎがした。


階段前の踊り場にそっと足を踏み入れる。足を忍ばせて一階の広間を覗く。


月光が差し込む玄関口に、黒い影が立っていた。そこにいたのは、もちろんコルヴァンだった。しかしその姿を見た瞬間、サクは息を呑む。


黒い外套は赤く染まり、滴る雫が床に落ちて絨毯を黒く濡らしていた。頬までべっとりと、赤が濡らしている。


そして虚空を見つめるその瞳は、ぎらついていた。獣のような光を宿している。まるで、満たされない何かがあるかのように。


軋む音を立てて、重厚な扉が閉まった。


その金色の視線が彷徨うように揺れ、階段上で身を竦ませるサクを射抜く。


サクは、背筋が凍りついた。


「コルヴァンさん…怪我、してるんですか?」


サクは震える足を叱責し、階段を足早に降りた。コルヴァンは自分の元へ転がるように駆けてくるサクを見つめ、ゆっくりと首を振る。


「で、でも。血が」


コルヴァンは答えなかった。

言葉はなく、ただ冷えた視線がサクを絡め取る。

その瞳の奥で、何かが軋むように抑え込まれているのが分かった。サクはそれ以上、尋ねることできなかった。聞くな、と言われている気がした。もしくは聞いてしまったら、とんでもないことになるような嫌な予感。


深夜の外出。帰還したコルヴァンは血まみれ。

どこへ行って、何をしていたのか…サクは青ざめて、何か恐ろしい予感がして、視線を彷徨わせた。


けれど、コルヴァンが本当に傷をつけていないか心配だった。おそるおそる、その小さな手を白い頬に伸ばす。


すると、コルヴァンは、す、と片手をあげてサクを制した。そしてそのまま長い指をスイと振った。血は霧のように消え、衣服も肌も開く間に清められた。その仕草は無造作で、しかし美しかった。


サクが目を丸くする。だが、コルヴァンが一歩、サクへ歩み寄ってぐっと距離が近くなった時…異様な静けさが広間を満たし、サクは無意識に息を詰めた。痛いほどの静寂に耐えかねたサクは、思わず問いかける。


「ま、魔法で、綺麗にできるんですね」

「当然だ」


低い声が、広間に沈むように響く。帰ってきて、初めて聞いた声は普段通りの低く冷たい響きだった。


無意識に、現実逃避をしていたのかもしれない。違う話題を必死に探していたのかもしれない。とにかくサクにふとこぼれた疑問があった。彼はいつも、手ずから治療をしてくれる。サクを座らせ、血や汚れを拭い、丁寧に。


「でも、私の時はいつも...」


言葉を最後まで言えなかった。コルヴァンが身を屈め、伸ばしてきた冷たい指が頬に触れたからだ。その指先はやはり氷のように冷たい。なのに、触れた場所から奇妙な熱が広がっていく。

指は頬をなぞり、耳の後ろまでゆっくりと滑った。まるで、何かを確かめるように。その仕草には、抑えきれない執着が滲んでいた。


「…あ、う…」


サクの唇から、怯え、困惑、そして無意識に甘えるような声が漏れた。コルヴァンがそれを聞いてうっそりと笑んだ。


「.....お前が」


囁きが耳元に落ちる。


「暖かいからだ」


その声は甘く、けれど底知れぬ暗さを孕んでいた。サクが息を詰めていると、コルヴァンの唇が歪む。


「主には言うなよ」


その言葉は静かに、しかし命令にも似た響きを帯びていた。



翌朝。


鋭い破砕音が、屋敷の静寂を裂いた。

サクは目を覚ますと同時に胸がざわめき、寝台から飛び出した。


廊下を駆け抜け、音のした方へ向かう。


セレスの部屋の扉が半ば開いていた。


サクは息を詰め、そっと覗き込む。


深紅の絨毯に、割れた花瓶の破片が床に散らばっていた。その傍らで──コルヴァンが膝をついていた。


その背中は、異様なほど静かだった。


だが、部屋に満ちる空気は重く、冷たい圧が肌を刺す。


サクは、室内へ踏み出せない。視線を奥へ向けると、天蓋つきのベッド。そこに横たわるセレスの姿は、昨夜と変わらない。


だが、ただ、部屋に漂う魔力の気配が完全に消えていた。サクは悟った。魔力が尽きたのだ。


──セレス様..消えて、しまったの...?


サクは胸がずきんと痛んだ。涙をこぼしそうになり、嗚咽がでそうになり、口を抑える。真実を告白してくれた翌日に、こんな形で、二度と会えなくなってしまうなんて、信じられなかった。認めたくなかった。


だからこそ──そんな悲しみに暮れるあまり、サクは気付くことができなかった。

今まさに直面しかけている、ただひとつ。一番の、恐ろしい現実を。


コルヴァンは今、認識したのだ。主の死を。

そして、思い出した。その真相を。


瞬間、空気が軋むように震えた。


サクはぎょっとして息を呑む。コルヴァンの肩がわずかに震え、黒い羽根が床に散った。膝をついたまま、彼の指が絨毯を深く抉る。爪が伸びていた。

長く、黒く。3年前、部屋で苦しんでいた姿とは比べものにならない異質な存在感を放ち、殺意をまき散らしていた。


「....ああああ.....」


低い申きが、獣の唸りのように響く。その声は、悲嘆と憎悪が絡み合った音だった。


サクの背筋に冷たいものが走る。黒く長い髪が乱れ、その横顔、漆黒の髪の隙間から覗く、金色。ぎらつく光──それは怒りでも悲しみでもなく、破壊衝動そのものだった。


コルヴァンの背から軋むような音がした。


「なぜだ、主よ.....なぜ......なぜ人間など......!」


脳に直接響くような異形の声が、部屋の空気を震わせる。

サクは息を呑み、足がすくんだ。


次の瞬間。コルヴァンの姿が崩れた。

長い指がかぎ爪に変わり、白い肌に黒い紋様が走る。背から伸びた羽根が、闇を切り裂くように広がった。その瞳は、更にぎらつく光を宿し、もはや人のものではなかった。


「殺してやる......害虫ども」


低い声が、獣の咆哮に変わる。


「村も、国も……そう、そうだ……すべての、人間を」


屋敷が揺れた。

窓ガラスが砕け、冷たい風が吹き込む。外の森がざわめき、枝が軋む音が遠雷のように響いた。サクは青ざめ、胸が凍りつく。


「殺してやる…!」


その言葉を聞いた瞬間、体が勝手に動いた。


「コルヴァンさん....!」


必死に叫び、冷たい風に逆らい、コルヴァンに駆け寄る。


「やめて!やめてください、そんなこと…!」


だが、異形の影が振り返った時──その瞳に宿る憎悪の炎が、サクを射抜いた。

空気が裂けるような圧が、サクの体を押し潰す。サクはコルヴァンに手が届く前に、笑い出したように震える膝を制できず、がくんと膝をついた。


コルヴァンの放つ殺気。そのあまりの圧力に、肉体的にも精神的にもおかしくなりそうで、呼吸すら困難だった。


そして、この時やっとサクは気付いた。


──きっとこれが…セレス様が、お願いしたかったことなんだ。


願いを込めた…人を憎んでほしくない…ここにいて…コルヴァンのことを、お願い...


彼女の言葉。彼女の真の願い。やっと、理解できた。


サクは無惨に切り裂かれた絨毯に手をつき、必死に片膝を立てる。なんとか、もがくようにして立ち上がった。


そして、血走った眼で自分を見下ろす異形を見上げた。


「やめて、ください」


瞳孔の開ききった瞳が、震えながら立つサクの姿を捕えた。


「どの、立場で」


地を這うように低い、脳を直接揺らすような異形の声。


「わたくしに命令している?小娘....」


サクは絶大な恐怖と、物理的に地に伏せたくなるような圧力に必死に耐えながら、コルヴァンへ震える小さな手を伸ばした。


「セレス様は」


その名を口にした瞬間、コルヴァンから全ての表情が抜け落ちた。


サクは、この先を口にすれば、次の瞬間に彼に殺されるかもしれないと思った。しかし、その続きを口にした。


もうここにはいない大切な人の願いを叶え、目の前にいるかけがえのない存在を救うために。


「……コルヴァンさんに、人を憎んでほしくないんです」


サクの指が、コルヴァンの黒く異形化した腕に届いた。指先が、冷たいかぎ爪に触れる。


「は」


コルヴァンの喉から、乾いた音が漏れた。


「ハ、ハ」


奇妙な音程で。


「ハハハハハハハ...!!」


嗤い声だった。憎しみと、嘲笑と、悔恨と、様々な感情のこもった音だった。


「聞く、ものか....!」


次の瞬間、黒いかぎ爪が振り上げられた。サクはそれを、どこか静かに見つめていた。こうなることは、心のどこかでわかっていたような気がした。


「今更!死人の…言うことなど!!!」


コルヴァンは、激情を抑えられなかった。塵どもを殲滅しに行く。その邪魔をする存在は何であれ、この爪で引き裂いてやる…それしから頭になかった。


咆哮とともに黒い爪は、まるで邪魔なものを薙ぎ払うように横なぎに振られた。黒い羽が舞って、それを濡らすように鮮血が飛び散った。


「…っは、」


微かに、サクの口から吐息のような音が漏れた。


コルヴァンの爪は、サクの左肩から胸までを深くざっくりと切り裂いていた。


サクは、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。


受け身もとれずに、頭が床にあたる。


──ゴトン!


それがやけに大きく、壊れかけている室内に響いた。


その瞬間。


コルヴァンの、すべての動きが止まった。


ぎらついていた瞳が、床に落ちたサクの小さな身体...それを中心として花のように絨毯に広がっていく、吸い上げられていく、おびただしい量の血を見つめる。


「.....あ」


周囲のすべてをおし潰さんとしていたような圧力は消え、血まみれで倒れ伏す少女の目の前に、歪な羽を生やした異形が、立ち尽くしていた。

喉から絞り出したような掠れた音が、コルヴァンの唇から漏れた。


「あ、あ゛ぁあ、あ…」


ズル、とその巨躯が折れ曲がる。膝をつく。


「サク.....」


血に濡れた震える爪を見下ろし、呆然と、絞り出すような声を漏らした。

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