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3章 甘いお菓子に気を付けて

それから不思議なことに、サクが屋敷を訪れる日。帰りの時刻頃には決まって雷雨となった。


たまに雨が降っていないので「今のうちにお暇しますね!」と急いで帰ろうとすると、コルヴァンが(ああ忘れていた)とでもいうような顔をしてふと窓を見つめ、その瞬間に雨粒が窓を打ち始めた。


開け放たれた玄関扉前。目の前の滝のような豪雨に絶句するサクの鼻先で、涼しい顔をしたコルヴァンが重たい扉を魔法でスイッと閉めた。


そうしてサクが霧の森の屋敷で夜を明かすことが増えた頃、コルヴァンのサクへの対応が変わってきていた。


特別優しくなったわけではない。恭しく扱われているわけでもない。

相変わらず「小娘」「みすぼらしい」「貧相」といった罵声はやまないし、注がれる視線は冷たい。


しかし彼は、サクを屋敷へ迎え入れるとまずはソファに座らせ、彼女の体中の傷を手当てを始めるようになったのだ。

コルヴァンはサクを座らせると、その目の前で巨躯を折りたたむように優雅に跪く。そして銀光りする箱から治療器具を取り出し、丁寧にサクの治療を始めた。


サクのボロ布から飛び出している、小枝のように細い手足には無数の打撲後や切り傷が絶えない。

村で蹴られ殴られ、転びながら重労働に従事しているのだから当然だ。


彼は無表情のまま、その美しく冷たい指でサクのぼろぼろの手足を持ち上げる。そして傷のひとつひとつを、清潔な濡れ布巾で汚れを拭い、消毒液で浸した脱脂綿で湿らせ、酷い傷には丁寧にあて布をして包帯で包んだ。


サクは、自分は奴隷なのでこのような扱いをされる存在ではない、と本気で考えていた。

初回は大変に遠慮して手足を引っ込めようとしたが、コルヴァンに「ほう、そのみずぼらしい傷を主に見せつけ、心労をつのらせると?」とかなり強引な脅しをかけられて大人しくなった。


治療を終えると、コルヴァンは決まってサクの傷だらけの肌をなでた。その静かな手つきにいやらしさは一切なかった。かといって純粋に労わるような指使いでもない。ただ淡々となにかを刷り込むように、肌をなでる。

サクはとにかく落ち着かず、妙な気分になってしまう。

美しいコルヴァンが自分の前に跪き、傷だらけで醜い身体に触れるのを、ただ縮こまって硬くなり、耐えるようにしてやり過ごした。


彼の指は冷たいのに、触れられた箇所はなぜかじんわりと熱をもった。

彼には「楽にしていろ」と言われたが、コルヴァンに触れられて落ち着いていられる人間なんてそういないと思った。


「どん臭い小娘だな…治してもきりがない。なぜおまえは、毎日のように傷を増やす?」


コルヴァンがサクのふくらはぎに指を滑らせ、大きくはれ上がった打撲痕を氷袋で冷やしながら独り言ちた。サクは曖味に笑ってごまかした。


村では家畜のほうがましという扱いをされているなどという惨めな現実は、この夢のような場所では口にできなかった。


また、コルヴァンは「主の客人として、みすぼらしいにもほどがある」と言って、湯の張った大理石の浴槽へサクを放り込むことも増えた。


「適当な洗浄なら、私が手ずからお前を洗う。全身を、くまなく」


と脅しをかけられるのでサクは死にもの狂いで、できうる限り身体の汚れを落とした。

美しい大理石の浴室でゆったりとする余裕などはなかった。


身を清めた後、穴やほつれた袖が治り別物のようになった上に清潔に乾いている服を身に着けると、コルヴァンはサクを椅子に座らせる。


そして銀の櫛を取り出して背後に立った。

櫛には赤や金の小さな石が埋め込まれて光っており、繊細な蔦の装飾が施されている。それでサクの髪をゆっくりとかし始めるのだ。濡れた部分を布で拭い、水分をふき取りながら。


それが終わると、コルヴァンはようやく満足したようにサクをソファに座らせた。

その頃にはサクは緊張疲れを起こしてぐったりしていた。


なぜ、突然彼が自分の傷と身だしなみを気にし始めたのかサクには全く分からなかった。これまで全く言及されることはなかったし、どちらかというとサクが持ち込む花の色の方が関心をひいていたくらいだったというのに。



ある晩、セレスティアが再び寝室に現れた。


彼女はあれからたびたび、決まって夜の客室に現れた。気がついたらベッドに腰掛けていたり、出窓に座っていたり。

彼女は大人びていたが、よくよく見ればサクと歳があまり離れていないようにみえた。歳の近い女の子と話す機会などサクにはなかったので(村人は女の子に限らず、サクを汚物か家畜以下のものとして扱うので)、サクは優しい彼女と話をするのが大好きだった。


「コルヴァンさんが最近、わたしの傷を手当てしてくれたり、髪を梳かしてくれたりするんです。どうしてだろうと思って…」


話してみると、セレスティアはおかしそうに笑った。


「コルヴァンは、気に入った人の世話を焼くのが好きなの。いやではなかったら、好きにさせてあげて」


サクはあまり納得がいかなかったが、セレスティアがまるで親しい友人のように自分に語りかけてくれることが嬉しくて、そて以上異論を唱えられなかった。



ある日の夕刻。


例のごとく、サクは屋敷を目指して霧の森を歩いていた。その日は少し早めに村から出ることができて、足どりが軽い。


「こんにちは!かわいいお嬢さん」


大きな木の根っこを乗り越えたところで、鈴を転がすような小さな声…しかし、なぜかはっきりと耳に届く声だった。


サクが振り返ると、金の鱗粉を散らした妖精が5匹、サクの後ろで羽ばたいていた。


鱗粉からは砂糖菓子のような香りがした。彼らは性別は分からないが、皆美しい羽に愛らしい笑顔を浮かべている。


妖精の1匹が、驚き目を見開くサクの肩にとまった。ちょこんと座り、至近距離でほほ笑んだ。サクはその親し気な笑みに嬉しくなり、笑顔を返した。


「楽しそうだね。これからどこへ行くの?」


背後の妖精が、1匹。サクの頭にぴょんと飛び乗って尋ねた。


「この先のお屋敷です。お花を持っていくんです」


サクは両手に大事に抱える花を少し掲げて見せると、妖精たちは「素敵なお花!」と歓声をあげた。サクはへにゃっと無防備に笑った。


「ありがとう!お母さんにむかし教えてもらった、お花畑で摘んだんです」

「それはとても素敵だね!今日はお母さんは一緒じゃないの?」

「お母さんは、ずっと昔にいなくなっちゃったんです」

「そっか、寂しいねぇ」


妖精たちは熱心に話を聞いてくれながら、サクの周りを飛び回る。


「ねえ、僕たちのおうちの周りにもたくさんのお花があるよ。いろんなお花が、いーっぱい」


妖精がもう1匹、サクの反対側の肩に飛び乗ると両手を広げて言った。サクは両肩と頭に飛び乗った妖精たちをふり落とさないように、姿勢に気を付けながらゆっくり歩いた。


「甘いお菓子もあるよ。お屋敷に行く前に、僕たちのおうちに遊びに来ない?」


残りの2匹が、サクの鼻先で金色の鱗粉を落としながら羽ばたき、笑顔でのぞき込んできた。


「きみのような可愛い子と、お友達になりたいなぁ」


サクは、彼らの漂わせる甘い鱗粉の香りの中で頭がふわふわとしてきた。彼らの提案は、とても素敵なことだと思った。


──妖精さんの、おうちの花…摘んで行ったらコルヴァンさんも、セレス様も喜んでくれるかな…?


サクはとろりとした瞳で、ぼんやりと考える。


──甘いお菓子。どんなに美味しいんだろう...?


目の前で誘うように羽ばたく妖精たちにつられるように、屋敷とは違う方向へ一歩、夢心地で踏み出した。


その時だった。


サクの目の前に、大きな手が突然現れた。美しく整えられた黒い爪、陶器のように真っ白な肌、玉虫色に光る袖の羽...


「きゃあああああ!!」


絹を裂くような悲鳴で、サクは冷や水を浴びせかけられたように覚醒した。


気が付くと甘い匂いは消え失せ、それを塗りつぶすように凍てついた冬の香りが漂っていた──とても、とても嗅ぎ慣れた香りだ。


いつのまにか辺りは、黒い霧に包まれていた。


そして目の前に、黒い煙を纏いながら威圧的な存在感を放ち──立っているのは、コルヴァンだった。


サクは目を丸くする。彼を屋敷の敷地外で見るのは初めてだった。


黒い煙で輪郭をゆらめかせて立つ彼は表情が欠落したかのように、いつにもまして無表情だったが、金色の瞳をギラつかせ、その大きな手で何かを握っていた。


「コルヴァン、さん....?」


サクが呆然と、彼を見上げる。そして困惑して、彼の手の中の...2匹の妖精を見た。彼らはサクの目の前を飛んでいたものだ。彼らは怯え、助けを求め、一生懸命サクに手を伸ばす。


「た───助けて!」


甲高い声がサクの耳に届き、サクが混乱しながらも唇を開きかけた時。


「ウキャッ」


グシャ!と、コルヴァンが掌を握りこみ、中で2匹の妖精が奇妙な声をあげて潰れた。


コルヴァンの手からわずかに飛び出る腕や足の先が不自然な方向にビクンと揺れ、黄色い液体が指の間から噴き出た。


「え」


サクの乾いた声が漏れた。


コルヴァンは握りこんだ手を広げた。絡み合ってひとつになり、原型をとどめていない2体の身体は黄色い液体に塗れている。ぶらんと不安定についている羽は、無惨に破れ折れて輝きを失っていた。


ぽとり。


それらがゴミのように地に落ちるのを、サクは硬直して見つめていた。サクの両肩と頭上から、言葉にならない悲鳴が聞こえた。


「キヒャッ」

「ヒキャァッ」

「ギッ…」


すぐ近くで風を切る音がして、頬にパシャッと液体のかかる感触があった。


次の瞬間、静かになった。


サクは、ぎこちなく視線だけを動かして自分の足元を見た。


足元には、妖精が3匹、息絶えて虫のように転がっていた。

黄色い液体が、サクの肩と靴を汚している。


サクの膝が笑いだすように震えた後、ガクンと力が抜けて、液体に塗れた地に倒れこみそうになったが、鋼のように力強い腕がのびてきてサクの片腕を捕らえ、それを組止した。


「は、あっ、うぁ…かはっ」


サクはうまく呼吸ができなかった。コルヴァンに吊り下げられるように腕を掴まれたまま、おかしな呼吸を繰り返す。

コルヴァンは何も言わず、無表情で過呼吸を起こすサクを見下ろしていた。

やがて呼吸が落ち着くと、サクは第一声で「ど、どうして」とつぶやいた。


頭上で、ゆっくりと首をかしげる気配があった。サクは恐ろしくてコルヴァンの方は見れず、足元の死体も見たく無くて、必死に近くの木の幹を見つめながら言葉をつづけた。


「ころす…なんて…ひどい…」

「愚図が」


サクの細い声を遮るように、低く怒りを孕んだ声が落ちてきた。サクはのどを引きつらせて「ひっ」とこぼす。


「ここまで生気と魔力を吸い取られ…残った力を振り絞り、発する最初の言葉がそれか?」


嘲るような言葉の…その内容を、サクは一瞬理解できなかった。しかし、その言葉を理解した瞬間、気付いた。全身が鉛のように、とんでもなく重い。コルヴァンへの恐怖など関係なく、一歩も進めないどころか、1人では立っていられないほどだった。


「あ…え…?なん、で」


舌たらずな言葉。舌がもつれ、普段通りに話すことさえ難しかった。


「この害虫どもは、魔力と生気を吸い上げる」


コルヴァンは淡々と告げた。


──魔力…?生気…?吸う…?妖精さんたちは…おしゃべりしながら、わたしを…?


胸の芯が冷えるように痛み、しかし涙を流す体力すらなかった。ただ呆然と、コルヴァンを見上げることしかできない。


コルヴァンは舌打ちをした。そしてサクを乱暴に抱き上げた。


「ひゃっ…!」

「…まったく。少し目を離した隙に、これだ」


彼は顔を歪めて悪態を吐き、放心状態のサクを抱え踵を返す。


「これまで注いだ魔力が……虫ケラどもめ」


最後に唸るように呟いた言葉の意味は、サクにはよくわからなかった。

黒い霧の中を静かに、しかし怒りを込めた歩みで、彼は屋敷へ向かって進み出した。



サロンへ到着するなりコルヴァンは、サクをソファに放り投げるように降ろした。サクはそのまま、糸の切れた操り人形のようにくったりとソファに沈む。コルヴァンは苛立ちを隠さず、やや荒い手つきでサクの顔や身体を、蒸されて暖かい布で執拗に擦り、金の鱗粉と液体を拭い取った。ひととおりそれが終わると、何も言わずに姿を消した。


サクがぼんやりと天井を眺めている間に、再びコルヴァンは現れた。その手にはいつもの銀のトレイ。しかしその上には、紅茶ではなく水差し。そして焼き菓子ではなく黒いいちじくが載っていた。コトリといちじくの載った皿がテーブルに置かれる。


「食え」


とは言われても、指一本動かせる気がしなかった。何かを口にする元気なんてある訳もなく、できればこのまま眠らせて欲しかった。


「あ…こるゔぁ、んさ…すみません、でした…おはな、おとしちゃ、って…」


まとはずれなことを、舌たらずにつぶやく。思考さえままならないようだった。妖精から吸われた生気というのは、そこまで大量のものだったのだろうか。ほんの少し話しただけだったのに…。


「花などどうでも良い。早く食え」


コルヴァンの冷たい言葉。サクはもはや、返事をすることさえできなかった。サクの瞼がゆっくりおりていく。ここまで威圧を放っているコルヴァンの目の前だというのに、すぐにでも意識を手放せそうだった。


コルヴァンはそれを冷ややかな目で見つめ、テーブル上の果実をひとつつまみあげた。そしてそれを、サクの口もとに近づけた。


「食え」

「え…」


サクは一瞬覚醒した。コルヴァンの美しい指が摘み上げている、熟れたいちじく。瑞々しく、美味しそうだ。けれど、いくらなんでも、これは。この美しい異形に、幼子のように、食べさせてもらうのは、さすがに。


「じ、じぶん、で、た、べ、ま」


口を開くが、やはり言葉さえままならない。ぐったりとした身体、意識さえとりこぼしそうだった。霞む視界の中、コルヴァンの舌打ちが聞こえた。


「ムシケラどもめ。よほど飢えていたか」


吐き捨てるように呟くと、コルヴァンは先ほどつまみあげたいちじくを、自ら口にした。


サクはぼんやりとそれを見つめる。


──コルヴァンさんが何かを食べるの、初めてみたなぁ。


コルヴァンの金色の瞳が、ゆっくりとサクを見つめた。その瞳には、僅かに熱がこもっていた。


──果物、好きなのかなぁ。


そんなことを考えている間に、ソファがギシリと鳴った。ぼんやりと視線を上げると、すぐ目の前にコルヴァンのゾッとするほど美しい顔があった。


直後、唇に冷たく柔らかい感触があった。ぬるりとしたものが、サクの半開きの唇をこじ開けた。


「………ん…?」


サクは混乱した。カーテンのように自分を閉じ込める長い髪。ゼロ距離の美しいかんばせ。伏せられた長く豊かな睫毛。口の中に広がる甘い味と、一緒にぬるりと口内を蠢くなにか。


重い身体に鞭打ち、咄嗟に身を引こうとしたが、いつのまにか巨大な手のひらが後頭部に添えられており、わずかにも身をひけなかった。


──飲め。窒息したいか?


頭の中に、声が響く。魔術を使って語りかけているのだろう。サクはそれを聞いて混乱しながらも、唾液と一緒に、ごくんと甘い果実のかけらを飲み込んだ。


コルヴァンが唇を離す。サクは口を半開きにして、ぽたりと唾液を垂らしながら、コルヴァンを見上げた。コルヴァンはそんなサクを見ても無表情だ。しかし彼は再び、皿に残る新たないちじくへ指を伸ばし、摘み上げた。そしてサクを見つめながら、それを口にした。まずいと思ったが、止める暇はなかった。


「んっ!」


再び、まるで親鳥が雛鳥に給餌するようにいちじくを口移しされる。冷たい唇と舌の感触に、サクの身体がびくっと跳ねた。口に押し込まれた果実を反射的に嫌がると、サクの顎の下に指がもぐりこみ、擽るようにして喉を軽く搔いた。


「んぅっ…!?」


力無くコルヴァンの胸元のスカーフに指を立てながら、サクは唾液と柔らかく潰れた果肉を飲み下すしかなくなった。


「ん…んくっ、んぅっ…」


ごくん、とサクの小さな喉が動く。その音を聞いてやっと、コルヴァンが唇を離す。

二人の唇を銀糸がつなぐ。彼は、顔を傾けるようにサクへ顔を近付け、冷たい舌でサクの唇をゆっくりと舐めた。


「ふ…ぅっ!?」


サクの身体がびくんと跳ねる。コルヴァンの瞳がゆっくりと細まった。そのまま再び唇を合わせながら、コルヴァンはいちじくへ指を伸ばす。ああ、また、食べさせられる。そう思ったが、サクは何も抵抗できなかった。


どれだけそうしていただろうか。気がつけば、皿はカラになっており、サクはソファに沈み頬を真っ赤に染め、肩を上下させ息を荒げていた。


コルヴァンはそんなサクを無表情で見つめ、テーブルの上の透明な水差しを持ち上げて、サクの口元へ飲み口を近づけた。


疲れていたし喉も乾いていなかったし、なにより放っておいてほしいとサクは思ったが、コルヴァンが水差しを自身の唇にもっていこうとしていたので大慌てで起き上がった。


「いっ、いただきます!自分で!」


そこでサクは、飛び起きる元気が戻っていることに気づく。コルヴァンは困惑するサクの唇に、水差しを突っ込んだ。


「ん、んくっ、ぷは、あの。コルヴァンさ、」

「魔力もだいぶ戻ったか…やはり、直接供給に勝るものはない」


独り言のようにそう言う。サクは彼の言葉の意味を理解できなかった。コルヴァンは満足げに立ち上がり、食器などを片付け始めた。


「今夜は休んでいけ…ああ、雷雨を起こす必要はないな?」


サクは頬を赤くしたまま、ただその完璧な美貌を見つめることしかできなかった。

コルヴァンに手を引かれ、起き上がる。支えがあるとはいえ自分で立つことができるほど、回復しているのが奇妙だった。

冷たい手に引かれながら、サクはフラフラと廊下を進む。コルヴァンはサクの手を引いていない方の手で燭台を持ち、ゆっくりと廊下を進んだ。


廊下の窓の外には木々に隠れるように、不気味に大きな満月が覗いていた。

その日は風一つ吹かない、雨も雷鳴もない、静かで穏やかな夜だった。



再び案内された客室のベッドの上で、サクは混乱していた。

身体は、嘘のように軽い。妖精にまとわりつかれた後の、あの鉛のような倦怠感はほぼないと言っていいだろう。


だがそれ以上に、唇に残る感触が、彼女の思考を混乱させていた。


──なんだったんだろう。あれは…


コルヴァンの、氷のように冷たい唇。こじ開けられた歯列。流れ込んできた、果実の甘さと、それ以上に濃密な、彼の味。間近で光る、金色の瞳…。


思い出すだけで、顔に火がつきそうだった。


(直接供給、って言ってた…)


分からない。あの美しいものの考えていることなど、何一つ。

ただあの行為が、人間のするものではない…ということだけは、確信できる。


サクは、自分の唇にそっと指で触れた。まだ彼の冷たさが、熱っぽく残っている気がした。



それから数日。サクは屋敷を訪れることができなかった。

あの倒錯した果実の与え方が嫌だったとか、コルヴァンの顔を見れないとかそういった理由ではない。


冬の訪れは早かった。秘密の花畑にはもう、屋敷に献上できるような美しい花は見当たらなかった。であれば、あの美しい屋敷の門をくぐる資格などない。サクはそう思った。だから来る日も来る日も、花を探した。しかしやはり、コルヴァンが満足してくれそうな美しい花を見つけることはできなかった。


更に、数日経った。

サクは意を決して、手ぶらのまま、あの屋敷の門をくぐった。謝って、事情を伝えようと思った。もうお花がないのだと。また暖かくなってお花が咲いたらお持ちしますと。もちろんそれまで自分は、屋敷に訪れるのを控えることになる。


花を持っていなくても、扉はゆっくりと開いてくれた。サクは申し訳なく思いながらそっと玄関ホールに足を踏み入れる。

するとほとんど間を置かずに、黒い影が現れた。まるで、待ち構えていたかのような登場だった。


「どこをほっつき歩いていた、小娘」


その声は、いつもより、ずっと低く、冷たい詰問の響きを帯びていた。部屋の空気が、一瞬で凍りつく。

サクの肩が、びくりと跳ねた。なぜ怒っているのか…思ってサクは俯き、自分の手ぶらの手をみてはっとした。


──あっ、お花を持ってないからだ…!それはそうだよね…!


「ご、ごめんなさい…!」


サクは、勢いよく頭を下げて、か細い声で言った。


「あの…!お花が、もう、見つからなくて…!」

「…花だと?」


コルヴァンが短く、低い声で呟いた。サクは更に頭を下げる。


「冬だから、もう、綺麗なのは、咲いてなくて…! 約束、守れなくて、ごめんなさい…!その、あたたかくなったら、きっとまた、お持ちしますので…!あの、今日はこれで、失礼します!」


しばしの、沈黙。


コルヴァンは、何も言わなかった。ただ、その凍てついた視線が、俯くサクの頭頂部に突き刺さっているのがわかる。


やがて、これ以上ないほど大きな、忌々しげな溜息が、ホールに響いた。

サクは身を固くする。だが、次に聞こえてきたのは、予想とは全く違う言葉だった。


「…花などいらない」

「え?」


サクが、驚いて顔を上げる。

コルヴァンは、ふいと顔をそむけ、窓の外へと視線をやっていた。


「主は…お前が来ることを歓迎している」


そして、一瞬の間。彼は、消え入るような、しかしサクにははっきりと聞こえる声で、付け加えた。


「…私もまあ…主がそういうなら、よいと思う」


サクは、目を丸くした。


今この人は、何と?


サクがその言葉の意味を問い返す前に。コルヴァンはその横顔に浮かんだかもしれない微かな何かを隠すかのように、くるりと背を向けた。


「いつまで突っ立っている、愚図め。さっさと入れ」


いつも通りの、しかしほんの少しだけ焦っているようにも見える背中。サクは、戸惑いながらそれを追いかけた。


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