断章 祭りの夜
夕刻。じきに陽が落ちると言う頃。
月に一度の商人が屋敷を訪れていた。初老の商人は荷物を片付けがてら、サクに笑顔を見せる。
「今年も収穫祭は賑わうぞ。村中が大騒ぎでなぁ」
サクは品物を確認する手を止めた。
祭りの灯り、人々の歓声。それはかつて村にいた頃…今は顔すら朧げな、愛する母と遠くから眺めた、幸せな記憶の断片。
しかし、その記憶の傍らには、鎖をつけられた自分と、祭りの夜に増す村人たちの悪意も同時に蘇る。
遠い記憶だ。もう、何十年も前の。
サクが村にいた頃を知っている者など、みなとうに死んでいる。それくらいの年月が経った。
「お嬢ちゃんも、今晩くらいは行ってみたら良い。楽しいぞぅ」
「…わたしは…村へは、行きません」
サクが目を伏せる。
「そうかぁ、残念……ではまた、来月に」
商人はさして気にも留めずに、馬車へ戻っていった。
サクの胸に、ちくりと嫌な予感が残った。コルヴァンに守られた今、村の喧騒など関係ないはずだ。
だがその祭りの音が、何か不吉なものを運んでくるような気がしてならなかった。
空を見上げると、陽は完全に落ちていた。
森の向こう、遠くの村。サクには、そこの喧騒と灯りがなんとなくだが感じられた。
肉眼で見れなくとも、それらの気配がわかるのだ。
それは、コルヴァンの魔力を受けてサクが人ならざるものに羽化したからこそ感じ取れるものだった。
サクは屋敷へ踵を返した。
薄暗い書斎に戻ると、ノクスとルミが絨毯の上で静かに戯れていた。
ノクスがルミの白い羽を優しく整え、ルミは慣れたようにノクスの黒い羽に頭を寄せる。
すっかり仲良くなったようで、それをみたサクは少し頬を緩め、カウチに腰掛けた。書斎の奥では、コルヴァンが静かに書物を読んでいる。古い魔術書を膝の上に広げ、時節静かに捲る音が響く。
しかし、その穏やかな静寂は長く続かなかった。
完全に陽が落ちて、窓の外が闇へ沈む頃。
書斎の奥、コルヴァンが座る椅子から、冷たい魔力の揺らぎが感じられた。それは、意識的な殺気ではない。ただ、感情の揺れに伴う、制御できない力が溢れ出たような。
「ギッ」
ノクスが最初に反応した。ノクスはコルヴァンとは逆方向の窓へ、ルミはノクスの背中を蹴るようにしてサクの肩の上へと、一目散に逃げ込んだ。
二匹の怪鳥は、コルヴァンの微かな魔力の揺れを、本能的に察知したのだ。
ノクスは窓の外へ飛び立ち、ルミはサクの肩の上で少し迷った後、ノクスを追って窓の外へぱたぱたと飛んでいってしまった。
「…コルヴァンさん?」
サクが静かに名を呼ぶ。ノクスとルミが逃げたように、彼女の身体も本能的に逃げ出したいと叫んでいた。だが、彼女はカウチの上から逃げられなかった。
コルヴァンは音もなく本を閉じ、こめかみを指で押さえていた。
その金色の瞳は昏い殺意の光を帯び、外の幸福の喧騒──肉眼では見えないが、サク以上に魔力の高いコルヴァンの眼では、さらにありありと捉えていることだろう──を憎々しげに睨みつけている。
「…やかましい…おぞましい…忌々しい…」
彼の声は低く、不機嫌というには生々しい憎悪に満ちていた。
「虫けらども……」
部屋の空気は、ピリ、と張り詰める。暖炉の炎が、彼の魔力に呼応し、不吉な影を揺らした。
人間の幸福の喧騒が、コルヴァンの内にある忌まわしい記憶を直接刺激し、頭を割るような不協和音と化している。
サクが詳しく事情を知らない、セレスティアの死。コルヴァンの主人である彼女の死は、人間によるものだったという。
しかし、コルヴァンが人間を憎悪する理由は、それだけではなかった。彼の愛する雛鳥をかつて穢し、貶め、壊しかけた、あの過去…。
コルヴァンは椅子からよろめくように立ち上がり、窓の外を忌々しげな眼差しで睨みつけた。その黄金の瞳が冷たい殺意の光で鈍くぎらぎらと輝き始める。
彼が、扉へ。エントランスホールへ。その先の──喧騒へ。それを目指し、うつろな足取りで今にも一歩を踏み出そうとした、その瞬間。
サクは動いた。
彼の前に音もなく立ちはだかり、その巨大な手に自分の小さな手を、そっと重ねた。
かつて狂乱の果てに異形化し、全てを殺し尽くさんと叫んだ彼を、止めた時のように。
コルヴァンは無言で殺意に瞳をぎらつかせたまま、自分の手を包むその温もりに視線を落とす。
「…コルヴァンさん」
サクは穏やかに、しかし決して目を逸らさずに彼を見上げる。その瞳は切実だった。
「一緒にいましょう。ずっと、わたしと…ここにいて」
それは、命令ではない。だがすべての抵抗を無力化する、静かでまっすぐな願いだった。
コルヴァンは、しばしその大きな…かつては琥珀色、今は黄金に光り輝く瞳を見つめ返していた。
やがて戦いに敗れたかのように、その肩からゆっくりと力を抜いた。
彼の全身を支配していた攻撃的な魔力が、音もなく霧散していく。
彼は何も言わずに、サクの手を掴むと、彼女を書斎の奥にある寝室へと導いた。
それは、嵐から逃れる道行きのようだった。
寝台に倒れ込むようにして、サクの身体を激しく、しかしどこか縋るように求めた。
その夜の交わりは、サディスティックなものではない。彼はただ、耳元で聞こえる人間の喧騒を、サクの甘い声で上書きしたかった。自分の心を乱す記憶を、彼女の温かい体温で溶かしたかった。
サクは、そんな彼の全てを受け止めるかのように、ただ静かにその広い背中を撫で、抱きしめ続けた。




