断章 黒い翼の下で
ある曇りの日の午後。
サクはテラスの椅子に腰掛け、庭で遊ぶ白い怪鳥ルミを眺めていた。
臆病なルミが、今日は機嫌よく黒薔薇の根元をつついて歩き回っている。 ノクスは狩りに出かけて不在だ。いつも自分を虐める天敵(兄?)がいない開放感からか、ルミの足取りは軽やかだった。
──ノクスとルミが、もう少し仲良くなってくれたら良いのだけれど…
サクはふうと息を吐き、子どもたちの関係性に少し頭を悩ませる。しかしそのように悩むこと自体も、愛おしくて幸せなことだと思えた。
「ピ!」
ルミの楽しそうな声が聞こえる。
サクはこの平和な光景に、穏やかに目を細めた。
その時だった。
茂みの影から、鎌首をもたげた毒蛇が、音もなくルミの背後に迫っていた。
「あっ……ルミ!」
サクが叫び、椅子を蹴倒し立ち上がる。ルミが振り返るが、鈍い彼女は反応が遅れる。蛇が大きく口を開け、白い喉元へと牙を剥いた──。
「だめ…!」
サクが駆け寄ろうと走り出した瞬間。
ドサッ!
黒い雷が落ちたような衝撃音が響いた。
「ギィヤァア───ッ!」
耳をつんざくような、金属質の咆哮。サクが息を呑むと、そこには漆黒の怪鳥ノクスが、蛇を鷲掴みにして降り立っていた。
狩りから戻ったばかりだったのだろう。彼はルミを襲おうとした不届き者を、その巨大な鉤爪で地面に縫い付けていた。
「ノクス…!ありが、」
サクが安堵の声を上げようとしたが、それは喉の奥で凍りついた。
ノクスは、蛇を一撃で殺さなかった。彼は楽しげに喉を鳴らすと、蛇の胴体に爪を食い込ませ、ゆっくりと、わざと痛めつけるように引き裂き始めたのだ。
「ギッ、ギルルッ」
蛇が苦痛にのたうち回る。ノクスはその様を見て、金色の瞳を爛々と輝かせ、歓喜の声を上げる。鋭い嘴で、生きたまま肉を啄み、放り投げ、また捕らえる。
それは狩りではなかった。一方的な蹂躙であり、残酷な遊戯。
「……ひっ、」
サクの顔から血の気が引いた。鮮血が飛び散り、ノクスの黒い羽を濡らす。その圧倒的な暴力と、殺戮を心から楽しむ姿。
サクの脳裏に、ある夜の光景がフラッシュバックした。
……遠い昔の、ある夜。村の男たちに壮絶な暴力を受け、尊厳を破壊されたサクをコルヴァンが保護したその日の夜。
静かに屋敷を後にし…その後、血まみれで帰還したコルヴァン。
あの時の彼も、こんな目をしていた。虚ろで冷たくて、けれど底知れない狂気を孕んだ、黄金の瞳。
それを思い出してしまったサクは本能的な恐怖に足がすくみ、動けなくなった。
「ピィ……」
足元で、小さな鳴き声がした。
いつの間にかサクの足元に逃げ込んでいたルミが、ガタガタと震えている。彼女もまた、目の前の光景──自分を助けてくれたはずの存在が撒き散らす、圧倒的な暴力と殺意、そして狂気に怯えていた。
やがて、蛇が痙攣した後、動かなくなった。 原形をとどめない肉塊の横で、ノクスは優雅に血に濡れた翼を広げた。
「ギィ」
ノクスが振り返る。その嘴も胸元の羽毛も、赤く染まっている。彼は首を回し、サクとルミの方をギョロリと見た。
サクは、言葉が出なかった。やめなさい、と途中で咎めるべきだったのかもしれない。しかし、できなかった。怖いと思ってしまった。
育ての親である自分でさえこうなのだ。臆病なルミなら、尚更だろう。すぐに逃げ出してしまうに違いないと思った。
けれど。
「……ピ」
ルミはサクの足元から、とてとてと歩み出た。震える足取りで、血まみれのノクスの元へ近づいていく。
「ルミ…?」
ノクスは近づいてくるルミを見て、喉をゴロゴロと鳴らした。興奮がおさまっていないのか、まだ殺気立っている。
ルミはノクスの目の前まで行くと、怯えながらも背伸びをした。そして、返り血でべっとりと汚れ、乱れてしまったノクスの翼の羽を、その小さな嘴で、一枚一枚、繕い始めたのだ。
「……!」
サクは、胸が締め付けられるような思いがした。
恐ろしい。おぞましい。けれど、助けてくれた。守ってくれた。それをルミは、本能で理解したのだ。
血の匂いが漂う中、白い小鳥が、黒い怪物に寄り添う。その光景は、あまりにも歪で、それゆえに美しかった。
「…………」
サクは、彼らに声をかけることができなかった。そこには、他者が踏み込んではいけない、彼らだけの世界が生まれていたからだ。
サクは静かに踵を返し、屋敷へと戻った。
重厚な扉を開け、薄暗い玄関ホールに入る。そこには、いつものようにコルヴァンが静かに控えていた。
彼は、屋敷の中にいたというのに、庭での出来事をすべて見ていたかのように。
サクが戻ってきても、優雅に腕を組んだまま。ただ静かに、口の端を吊り上げた。
「……良い見せ物でしたな?」
低く、甘い声。 その顔には、ノクスと同じ──残酷で、美しい笑みが浮かんでいた。
「あのような脆弱な獲物相手に、随分と愉しんでいたようだ」
自身の唇を撫で、目を伏せて笑う。そんなコルヴァンから、サクは目が離せない。
サクは、あの日の晩。血まみれで帰ってきたコルヴァンに聞かなかった。「村の男たちを殺したのですか?」と…聞けなかった。それは今も同じだ。直接聞くことはできない。けれど、答えはとっくの昔に出ていた。サクの目の前にいるのは、美しくおぞましい、残酷な魔物だ。
コルヴァンは、自分の内にある残虐性を否定しない。もはや隠そうともしない。サクは、やはり恐怖を感じる。けれど今は、それ以上に──どうしようもなく、愛おしかった。
サクは無言で彼に駆け寄ると、その胸に縋り付き、胴に腕を回して抱きしめた。黒い衣服からは、冷たい夜の匂いと…今は香らないはずの、微かな血の気配がする気がした。
「……サク?」
コルヴァンが、怪訝そうにサクを見下ろす。サクは何も言わず、彼の胸に顔を埋め、頬をすりよせた。
──私は、ルミと同じ。
どれほど彼が恐ろしくても、どれほど残酷な一面を持っていても。その翼の下が、世界で一番安全で、暖かい場所で。そしてこの血に塗れた冷たい手が、何よりも愛おしいと思っている。
コルヴァンは、震えるサクの背中に、ゆっくりと大きな手を添えた。
「……愛らしいこと」
彼の低く、満足げな囁きが、サクの耳元に落ちた。
屋敷の外では、まだノクスの興奮した息遣いと、それに寄り添うルミの小さな鳴き声が響いている気がした。




