断章 抉るなら目玉から(1)
その日は、年に一度の特別な日だった。
朝から屋敷は重苦しい静寂に包まれている。
コルヴァンは早朝から、亡き主──セレスティアの寝室に無言で籠もり、固く扉を閉ざしている。
今日は、セレスティアの命日だった。
彼が喪服のような正装に身を包み、思い出の部屋で一人、亡き主に想いを馳せる日。
サクは、その聖域を邪魔することはできないと、一人静かに庭の手入れをして過ごしていた。
そんな時だった。いつもはサクのあとをちろちろと付き纏う臆病なルミが、ふと姿を消したのは。
普段ならすぐに戻ってくるはずが、日が傾き始めても戻らない。コルヴァンに相談することもできず、サクは青ざめて庭を駆け回った。
「ルミ…どこなの、ルミ!」
もし森の獣に襲われていたら。こんな時にノクスも、獲物を追いかけて外に出てしまったのか屋敷にいない。サクが涙目で鉄柵に縋り付き、森の奥を覗き込んでいた、その時。
「…あの。ルミって、この子のことですか?」
霧の中から、一人の青年が現れた。仕立ての良い服を着て、手には白い塊を抱えている。それは、翼を怪我して震えているルミだった。
「ルミ!」
「森の入り口でうずくまっていたんだ。珍しい鳥だね」
青年は、柵越しにルミを差し出した。
サクは震える手でルミを受け取り、その温もりに安堵の涙をこぼした。
「ありがとうございます…!本当に、ありがとうございます…!」
涙に濡れた琥珀色の瞳が一瞬、金色に揺らめく。 その人間離れした美しさに青年は息を呑み、そして一目で心を奪われた。
◆
それから、青年は頻繁に屋敷の柵越しに現れるようになった。
「あの白い子…ルミの、怪我の具合はどうだい?」「珍しい果実が手に入ったんだ」「俺の父親は村長でね…」
サクは困惑した。
コルヴァンに見つかれば、この青年はただでは済まないだろう。けれど、ルミの命の恩人である彼を、無下に追い返すこともできなかった。
コルヴァンは命日を過ぎてからもどこか沈んだ様子で、あまり庭へ出てこなかった。サクは(コルヴァンさんに知られたらまずい…)と胸を痛めつつ、青年が飽きて来なくなるのを待つしかなかった。
しかし青年の中で、歪んだ正義感と欲望は膨れ上がる一方だった。
(あの子はきっと、化け物の屋敷に囚われているんだ) (俺が助け出さなくては。そして、俺のものにしてやるのだ)
ある曇天の日。青年は焦れていた。
いくら誘っても、サクは頑なに柵の内側から出てこない。彼は、ついに禁じ手を使った。
「大変だ!さっき、またあの白い鳥が森へ飛んでいくのを見たんだ!」
「えっ…?」
黒い薔薇の手入れをしていたサクが顔を上げる。
「獣用の罠にかかっていた!俺一人じゃ外せない、来てくれ!」
サクの頭が真っ白になる。ルミが、また…。
彼女はコルヴァンに断りを入れる余裕もなく、無我夢中で門を開け、外へと飛び出した。
「どこですか、ルミは!」
「こっちだ、急ごう!」
青年はサクの手首を掴むと、強引に森の奥へと走り出した。
しかし、いくら進んでもルミの姿はない。屋敷が見えなくなるほど遠くまで来た時、サクは足を止めた。
「…あの、罠はどこですか? ルミの気配も…鳴き声もしません」
サクが不審に思い、腕を引こうとする。
しかし、青年の手はサクの手首を締め付け、離さない。彼は、ねっとりとした笑みを浮かべて振り返った。
「あんな鳥はどうでもいい。俺は、君を助けてやる」
青年はサクの細い肩を掴み、顔を近づけた。
「化け物に捕まって、洗脳されているんだろう?可哀想に。俺が目を覚まさせてやる」
青年の目は、正気ではなかった。
「村へ行こう。父さんに言って、君を俺の屋敷で囲って…守ってやるから」
サクはひゅ、と息を呑んだ。その目つきは、かつて自分を虐げてきた村人たちのそれと同じ、欲望に濁った目だった。
「は…離してください」
サクは男の腕を振り払おうとした。
「わたしは、村へは行きません…!お屋敷へ、戻ります」
その拒絶が、青年のプライドを傷つけた。彼は顔を真っ赤にして、サクを地面に押し倒した。
「うあっ!?」
「ふざけるな!俺の情けを拒むのか!」
「ひっ…!」
「その身体、あの化け物に好きにさせているんだろう?そんなの、間違ってる。お前は人間なのだから、人間に愛でられるべきだ!」
バリ、とドレスの襟元が裂かれる。
「───…!」
サクは声にならない悲鳴を上げた。泥にまみれ、男の体重に押し潰される感覚。かつての悪夢が蘇る。
「あ…う、あ…コルヴァン、さ…」
小さな声で名前を呼んだ、その時だった。
森がざわめいた。
風が止まり、鳥の声が消え、世界が凍りついたような静寂に包まれる。周囲が黒い霧に包まれた。
「…あ?」
青年が動きを止めた。
背後の闇から何かが、とてつもない速さで迫る気配。
「ギィイイイッ!!」
耳をつんざくような、金属質の咆哮。 突如現れた黒い影が、青年に踊りかかった。
「ギャッ」
青年の身体が宙を舞う。いや、違う。 サクを押さえつけていた彼の右腕だけが、肩から引き千切られ、彼本体は反対側へ吹き飛ばされた。
「あ…あ、アぁぁぁぁぁ!!!」
一拍遅れて、鮮血が噴水のように舞い、絶叫が森に響き渡った。 サクの頬に、温かい血がびしゃりとかかった。
「あ…ノクス…」
サクは腰を抜かしたまま、目の前に降り立った黒い影を見上げた。 巨大な漆黒の怪鳥──ノクスが、その鋭いクチバシに、引き千切ったばかりの青年の右腕を咥えていた。
ノクスは、金色の瞳をぎらつかせ、喉の奥で唸っている。
「ひ、ひぃぃ! う、腕、俺の腕がぁ…」
青年は欠損した肩を押さえ、泥の上をのたうち回る。ノクスは汚いものを捨てるように腕をペッと吐き捨てると、青年の頭を踏みつけようと太いかぎ爪のついた脚を持ち上げた。
「おやおや」
闇の奥から、ゆったりとした、しかし絶対的な響きを持つ声がした。さらに冷気が濃くなった。
「ノクス…獲物はもう少し、丁寧に扱わねば」
のたうち回る青年も震えるサクも、動きを、呼吸を止めた。 霧の中から、長身の影が音もなく現れる。
コルヴァンだった。彼はいつものように完璧に整えられた燕尾服を纏い、その肩には…無傷のルミが、ちょこんと乗っていた。




