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断章 罪の果実


その日、月に一度の商人が屋敷を訪れた。


年老いた商人は帳簿をしまうと、サクにしわくちゃの笑顔を見せた。


「嬢ちゃん、これはお裾分けだ。今年は豊作だったそうで、余分にもらったんだよ」


そう言って、彼がサクの手に乗せたのは、一粒の真っ赤な林檎だった。磨き上げられたように艶やかで、手のひらに乗せるとずっしりと重い。

甘酸っぱい、懐かしい香りが、サクの鼻腔をくすぐる。

村にいた頃、年に一度の収穫祭で、こっそりと一口だけ齧った。あの奇跡のような甘さを思い出す。


その夜。

サクは自室で、一粒の真っ赤な林檎を、宝物のように見つめていた。


これはきっと、あの頃の味がするはずだ。

自分が奴隷だった頃の辛い記憶と、母が生きていた頃の、幸せだった記憶。その全てが、この赤い果実の中に詰まっている気がした。


なんとなく、コルヴァンから隠れてそれを食べようと思った。

彼女は1人の自室で、その林檎にそっと歯を立てた。


サクリと小気味良い音が響く。果汁が口の中に広がる。


「───」


サクは動きを止めた。


おかしい。味がしない。いや、違う。まるで、湿った土と、腐った草の根を一緒に口に含んだような、ひどい味だった。

鼻をつく、鉄のような臭気。彼女がかつて知っていたはずの、蜜のように甘い味はどこにもない。

信じられなくてもう一口齧る。結果はもっとひどく、今度は吐き気を催した。サクは口を抑える。


──わたしが、かわって、しまったの?


コルヴァンの与える食事を、彼の魔力が込められたそれを、食べ続けるうちに?

人間が食べるものを、美味しいと感じることができなくなってしまったのだろうか?

傷がすぐに治るようになった。猫に拒絶された。その次が…これ?


サクの身体から力が抜けていく。涙が溢れた。


その時。

音もなく、部屋の扉が開いた。そこにはコルヴァンが立っていた。


彼は、床に転がった一口だけ齧られた林檎と、床に座り込んで静かに涙を流すサクを、ただ無表情で見下ろしている。

彼は全てを察しているようだった。


サクは、彼の姿を見て、はっと、ある可能性に思い至った。


彼の口を通して与えられるものは、何でも美味しくなる。

だったら、この林檎も。

それは、最後の藁にもすがるような、あまりにも愚かで哀れな希望だった。


サクは、林檎を手に取ると、ふらりとよろめくように立ち上がり、コルヴァンへ歩み寄った。

そして、震える声で懇願した。


「コルヴァンさん…あの、このりんごを…いつもみたいに、おくちで…たべさせてもらえませんか…?」


その、あまりにも健気な様。

それを聞いたコルヴァンは、一瞬驚いたように目を見開いた。

そして次の瞬間、喉の奥でくつくつと心の底から楽しそうな、しかしどこまでも残酷な笑い声を漏らした。


「…愚かな小娘」


彼は、サクの手のひらからゆっくりとその林檎を拾い上げると、弄ぶように、その赤い皮を撫でた。


「わたくしの許可なく、どこともわからぬ馬の骨から得た異物を口にしたな?仕置きをしてやりたいところだが」


ニンマリと笑い、林檎を手のひらで転がす。


「これもまた、教訓として赦そう。お前は学んだな?罪の果実の味を」


彼はそう言うと、その林檎を暖炉の燃え盛る炎の中へと無造作に投げ入れた。

赤い果皮が一瞬で黒い炭へと変わっていく。それが灰になっていくのを、彼は満足げに見下ろしていた。


「あ…」


「お前のその舌を、心を、真に満たすことができるのは、この世でただひとつだけだと、あれほど教え込んだはずだが」


コルヴァンはサクのその涙で濡れた頬を、冷たい指先でそっと拭った。


「覚えの悪い雛鳥め」


そしてその顎を持ち上げ、自らの顔を近づける。


「さあ、口直しを。わたくしが本当のご馳走を、あなただけに与えてさしあげましょう」


彼は、泣きじゃくるサクの、開かれた唇に、深く口づけた。

食べ物の味など何もない。ただ彼の冷たく、しかし魂を痺れさせるような純粋な魔力の味。それがサクの口の中を、そしてその渇ききった魂を満たしていく。


「ん…うぅっ…」


サクはもう抵抗しなかった。ただその満たされる感覚に、ぼんやりとうっとりと、その身を委ねるだけ。


長い長い口づけが終わる。コルヴァンは、蕩けきった瞳で自分を見上げるサクの顔を見て、満足げに微笑んだ。


「…こちらの方が、よろしいでしょう?主よ」


サクは何も答えられなかった。

ただこくりと、小さく頷くことしか。

彼女はその夜、本当の意味で学んだのだ。

自分の帰る場所も、自分の生きる糧も、もはやこの美しい化け物の中にしか存在しない。

かつての記憶、かつての味を再び得ることは、もう二度と叶わないのだと。



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