聖女侍女編4
「聖女様は厨房の夢を見るか」
その日、私たちは、自室でレシピ本を眺めていた。 一ページ、また一ページと、私たちの冒険の記録をめくるたびに、あの時の味と、興奮が蘇ってくる。
『……ねえ、イリス』
不意に、フィオーラが、あるページを指差して、私の名前を呼んだ。 そこに記されていたのは、「港町の宝物シチュー」。初めて港町を訪れた日に食べた、魚介の旨味が溶け込んだ、クリーム色の熱々なグラタンの記録だ。
『私、これ、また食べたいわ。今すぐに、ここで!』
その瞳は、新しい冒険を見つけた時と同じように、きらきらと輝いていた。 私は、心の中で、静かにため息をつく。
『ここで、ですか、フィオーラ……』
『ええ、ここでよ!』
私の心の声を読んだ彼女は、力強く頷いた。
『大丈夫! この本には、イリスが書いてくれた、完璧なレシピがあるもの。これさえあれば、私たちにも作れるわ!』
彼女は、料理というものを、材料を鍋に入れれば完成する、魔法か何かだと思っている節がある。 私は、前世の記憶の片隅に残る、「ホワイトソース」「ダマになる」という、不吉な単語を、懸命に思い出していた。
『……ですが、フィオーラ。厨房は、夜でも人の目があります。見つかってしまいます』
私の、冷静な、あまりにも冷静な心からの指摘。 それに、フィオーラは、むっとしたように、頬を膨らませた。
『大丈夫よ! イリスの立てる計画は、いつだって完璧じゃない! あなたなら、厨房に忍び込むくらい、簡単でしょう?』
彼女は、私の軍師としての能力を、無邪気に、そして、絶対的に信頼しきっている。その信頼が、嬉しくもあり、今は、少しだけ重い。
『それに、私たちは、料理なんてしたことがありません。火の扱いも、道具の使い方も、何も……』
『料理だって、やってみればわかるわ! 冒険と一緒よ!』
フィオーラは、ぐっと拳を握りしめた。その瞳には、「無理」という二文字は、一切映っていない。ただ、まだ見ぬ熱々のグラタンへの、希望と憧れだけが、燃え盛っていた。
……こうなってしまった彼女は、もう、誰にも止められない。 私は、心の中で、二度目の、そして、今日一番、深いため息をついた。
『……わかりました。計画を、立てます』
一度、引き受けたからには、私の計画に、失敗の二文字はない。 私は、静かに目を閉じた。そして、意識の網を、宮殿の地下に広がる、巨大な厨房一帯へと、慎重に、慎重に、広げていく。
聞こえてくる、たくさんの心の声。
『……ふぅ、疲れた。今日の晩餐会も、どうにか乗り切ったか。後の片付けは、副料理長に任せるとするか)』これは、料理長の、疲労に満ちた安堵。
(よし、最後の見回りをして、戸締まりをしたら、一杯引っ掛けて帰るか。新入りの奴ら、ちゃんと火の始末はしただろうな)これは、副料理長の、油断と、ほんの少しの心配。
(眠い……早く帰りたい……。明日はパン生地の発酵のために、夜明け前に起きないと……) これは、一番下っ端の、厨房係の、切実な願い。
全ての情報を、パズルのピースのように、頭の中で組み立てていく。 そして、たった一つだけ存在する、完璧な侵入時間と、経路を、導き出した。
私は、ゆっくりと目を開けた。目の前では、フィオーラが、期待に満ちた瞳で、私をじっと見つめている。
『……聞こえますか、フィオーラ』
私は、完成した完璧な計画を、彼女の心へと、静かに、送信し始めた。
『作戦時間は、真夜中の鐘が三度鳴った後。侵入経路は……』
真夜中の鐘が、三度、鳴り響いた。 厨房の全ての灯りが消え、最後の人間が立ち去ったのを、私の心の耳は、確かに捉えた。
『行きましょう、フィオーラ』
私たちは、夜の闇に紛れるための、黒い侍女服に着替え、音もなく、聖域を抜け出した。 目指すは、宮殿の心臓部であり、胃袋でもある、巨大な厨房。
昼間であれば、百人以上の料理人や使用人たちでごった返すその場所も、今は、静寂に包まれている。 私たちは、衛兵の巡回ルートの僅かな隙間を縫うようにして、影から影へと渡り歩き、やがて、目的の扉へとたどり着いた。
分厚い、樫の木の扉。もちろん、鍵がかかっている。 だが、私は慌てない。副料理長の心の声を、私はすでに盗み聞きしていたから。
(……ったく、新入りは鍵の場所も覚えんのか。入り口の横の、三番目の植木鉢の下だって、何度言ったら……)
私は、言われた通りの場所を探り、冷たい金属の感触を指先に見つけると、音もなく、鍵を開けた。
扉の向こうに広がっていたのは、私たちの知らない、もう一つの宮殿の顔だった。 高い天井からは、数え切れないほどの鍋やフライパンが吊り下がり、まるで金属の鍾乳洞のよう。 壁際には、巨大な鉄の塊―――昼間は、炎を上げて肉を焼くのであろう、巨大な竈が、今は静かに眠っている。
月明かりだけが差し込む、がらんとした空間。 そこは、私たちの、一夜限りの、秘密の実験室だった。
『すごいわ、イリス! まるで、巨人の国の食卓ね!』
フィオーラは、子供のように目を輝かせ、厨房の中を駆け回った。そして、壁にかかっていた巨大なスープ用のレードル(お玉)を手に取ると、それをまるで女王の笏のように、高々と掲げた。
『よし、イリス! 私に、あの白い粉を取ってちょうだい!』
彼女が、自信満々に指差したのは、大きな木の樽に入った、粗塩の山だった。
『……それは、塩です、フィオーラ』
『え、そうなの? じゃあ、こっちの麻袋に入っている、もっと真っ白な粉は?』
『それは、小麦粉です。グラタンの、とろみをつけるための……』
『……違いが、よくわからないわ』
フィオーラは、心底不思議そうに、首を傾げた。 私は、これから始まるであろう、途方もない苦労を思い、三度目の、そして、今夜一番、天を仰ぐほど深いため息を、心の中でついたのだった。
私たちの、記念すべき初料理。 その最初の工程は、グラタンの心臓部である、ホワイトソース作りだった。
(確か、前世の記憶だと……まずはバターを鍋で溶かして、そこに、小麦粉を、少しずつ……)
私の心からの、実に心許ない指示。 それを、フィオーラは、百戦錬磨の料理人のように、自信満々に請け負った。
『わかったわ! まずはバターね!』
彼女は、巨大なバターの塊を、無造作に鍋に放り込む。やがて、じゅう、と音を立てて、バターが溶けて、香ばしい匂いが立ち上った。
『次は、小麦粉でしょう? えいっ!』
『あ、だから、少しずつって……!』
私の心の制止も虚しく、フィオーラは、ボウルに入っていた小麦粉を、一息に、鍋の中へと、全て投入してしまった。
ジュワッ、という音と共に、鍋の中身は、一瞬にして、無残な姿へと変わり果てる。 それは、もはやソースではなかった。大小さまざまな、小麦粉の団子が、溶けたバターの上で、途方に暮れているだけの、何かだった。
『あれ? なんだか、レシピ本の挿絵と、違うわ……』
フィオーラが、不思議そうに、首を傾げた。 違う、違うのだ、フィオーラ。これはもう、手遅れなのだ。
私の心の叫びは、もちろん、彼女には届かない。
(……ま、まだだ! まだ終わっていない! ここに牛乳を入れれば、きっと……!)
私は、一縷の望みをかけて、フィオーラに指示を出す。 彼女は、言われた通り、巨大な壺に入った牛乳を、鍋の中へと注ぎ込んだ。
『混ぜるのね! 任せて!』
フィオーラは、どこから見つけてきたのか、巨大な泡立て器を両手で握りしめ、渾身の力で、鍋の中身をかき混ぜ始めた。私も、隣で、小さな泡立て器を手に、その絶望的な作業に加わる。
カシャカシャカシャカシャ!
静かな厨房に、私たちの、必死の攪拌音だけが響き渡る。 飛び散った牛乳と小麦粉が、私たちの黒い服を、無残に白く染めていった。
だが、鍋の中の惨状は、一向に、改善の兆しを見せない。
その時だった。 遠くの廊下から、誰かの、ゆっくりとした足音が、こちらへ近づいてくるのが聞こえた。
ぴたり、と私たちの動きが止まる。
『まずい、厨房係の一人だ! 夜食でも取りに来たのか……!』
『イリス、どうしよう! 見つかっちゃうわ!』
フィオーラの心に、初めて、焦りの色が浮かんだ。 私たちは、顔を見合わせ、そして、必死に、隠れる場所を探した。
幸い、厨房の隅には、明日の朝使うためであろう、ジャガイモが山と積まれた麻袋が、いくつも置かれていた。 私たちは、息を殺し、その影へと、転がり込むように身を隠す。
ガチャリ、と扉が開く音。 入ってきたのは、案の定、眠そうな目をこすりながら、水を飲みに来ただけの下働きの少年だった。
少年は、水差しから水を汲むと、ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲み干した。 そして、帰ろうと踵を返した、その時。 くん、と、彼の鼻が、わずかに動いた。
(……なんだ? この匂い……)
少年の、ぼんやりとした思考が、私の心に届く。 まずい。鍋に残った、私たちの惨状の痕跡。その、バターと小麦粉が、むせかえるような匂いに、気づかれた。
私の隣で、フィオーラが、緊張のあまり、くすりと笑いを漏らしそうになる。私は、慌てて、彼女の口を、手で、強く、強く、塞いだ。
少年は、しばらく、不思議そうに、部屋の中を見回していたが、やがて、大きく一つ、あくびをすると、「気のせいか」と呟いて、厨房から出ていった。
扉が閉まる音。 私たちは、ようやく、詰めていた息を、大きく、そして、同時に、吐き出したのだった。
危機は、去った。 私たちは、麻袋の影からそろりと顔を出すと、再び、目の前の惨状と向き合った。 鍋の中では、私たちの最初の共同作業の結果が、無残な姿を晒している。
『……もう、ダメです。このソースは、もう……』
私の心に、諦めの声が響く。 私の前世の、生半可な知識では、この小麦粉の団子の反乱を、どうすることもできない。
『えー、そうなの? なんとかならないの、イリス?』
フィオーラが、心底、がっかりしたような声を出す。 その時だった。私の脳裏に、前世で見た、とある料理番組の光景が、天啓のように蘇った。
『……いえ、まだ手はあります』
私の声に、フィオーラが、ぱっと顔を上げる。
『フィオーラ、チーズを探してください。たくさんの、とろけるチーズを!』
『チーズ!』
フィオーラの心に、再び、希望の光が、太陽のように燃え上がった。
『なんて、なんて素晴らしい響きなの、イリス! よし、任せて! この宮殿中のチーズを、根こそぎ見つけてきてあげるわ!』
こうして、私たちのホワイトソース救出作戦は、より単純で、そして、より欲望に忠実な、「すべてをチーズで覆い隠せ」作戦へと、その姿を変えたのだった。
フィオーラの「チーズハント」は、驚くべき成果を上げた。 彼女は、巨大な食料庫の奥から、赤子ほどの大きさもある、見事なチーズの塊を、一人で、えっちらおっちらと運んできたのだ。
『これだけあれば、どんな失敗も隠せるわ!』得意げな彼女の横で、私は、次の工程へと移る。シーフードグラタンの主役、魚介の準備だ。
幸い、氷室の中には、新鮮な白身魚や、エビ、貝などが、豊富に保管されていた。 私が、それらをグラタン皿に並べていると、隣で、フィオーラが、一匹の魚を、そっと手に取った。
そして、その魚に向かって、真剣な顔で、心で、話しかけ始めたのだ。
『ごめんなさいね、お魚さん。でも、美味しいグラタンになるためだから……許してちょうだい』
(……魚と、会話している……)
私は、目の前の光景を、どう理解すべきか、本気で、悩んだ。
やがて、魚との対話を終えたフィオーラは、満足げに頷くと、私たちの、合作の準備を手伝い始める。 魚介の上に、あの絶望的な小麦粉団子のソースを乗せ、そして、その上から、見えなくなるまで、山のように、チーズを、これでもかと振りかけた。
見た目は、完璧だ。チーズが、全ての罪を、覆い隠してくれている。 だが、私たちの前には、最後の難関が、立ちはだかっていた。
石でできた、巨大な竈。 このグラタンに、命の火を灯すための、宮殿の心臓部。 その使い方は、もちろん、二人とも、全く知らなかった。
『よし、イリス! 最後は、火入れの儀式よ!』
フィオーラは、グラタン皿を、まるで祭壇に供物を捧げるかのように、竈の中へと恭しく置いた。 そして、一歩下がり、大きく息を吸い込むと、威厳たっぷりに、竈に向かって、高らかに命じた。
『燃えよ、聖なる炎! イグニス!』
もちろん、何も起こらなかった。 静寂だけが、私たちの間に、気まずく流れる。
『……火打石を、探しましょう、フィオーラ』
私の心からの、あまりにも現実的な提案に、彼女は少しだけ不満そうだったが、やがて、二人で、手分けして、火を起こすための道具を探し始めた。
それからの格闘は、凄惨を極めた。 火打石を打てば、火花は、あらぬ方向へと飛び散り、私たちの顔は、あっという間に、煤で真っ黒になった。ようやく火口に火が移ったかと思えば、湿った薪を入れてしまい、厨房は、涙が出るほど煙たい空間へと変わり果てた。
その、異様な匂いを。 ちょうど、宮殿の深夜巡回をしていた、一人の騎士が、嗅ぎつけた。
(……む? この匂いは……何か物が焦げる匂いか? いや、しかし……チーズの匂いも混じっているような……?)
レイモンドは、訝しげに鼻をひくつかせると、匂いの元である、厨房の方へと、静かに、歩を進めたのだった。
レイモンドは、厨房の扉が、僅かに開いていることに気づいた。 ありえない。副料理長が、戸締まりを忘れるはずがない。彼は、剣の柄にそっと手をかけ、息を殺し、中の様子を窺った。
煙たい、薄暗い厨房。 その中で、二つの小さな影が、巨大な竈の前で、何やら必死にうちわのようなもので、火を扇いでいる。 その顔は、煤と、そして、白い粉で、まだらに汚れていた。
聖女様と、あの侍女殿だ。
(……二人で、夜食を、作っておられるのか……?)
レイモンドの心に、驚きと、そして、それ以上の、温かい感情が込み上げてきた。
なんと、微笑ましい光景だろうか。 聖女様と、その忠実な侍女が、誰にも知られず、夜中にこっそりと、ささやかな料理を楽しんでいる。顔についた、あの白い粉は、きっと、二人で小麦粉をこねていて、じゃれ合った跡に違いない。
俺の知らぬ間に、二人の絆は、ここまで深まっていたのか。
彼の脳裏に、かつて読んだ、物語の一節が蘇る。 『身分を隠した姫君と、その侍女が、城下で買った芋を、暖炉の火で、二人きりで焼いて食べる。それは、どんな晩餐会よりも、幸せな食事でした』
ああ、そうだ。 これもまた、俺の守るべき、「物語」の、美しき一ページなのだ。 レイモンドは、扉の影で、一人、父親のような、優しい笑みを浮かべていた。
レイモンドは、扉の影から、そっと身を引いた。 これ以上、ここにいてはならない。この、あまりにも尊く、美しい二人だけの時間を、俺のような無粋な存在が邪魔をしてはならないのだ。
彼は、口元に浮かんだ笑みを隠すように、そっと口元を手で覆った。そして、来た時よりも、ずっと軽い足取りで、その場を去っていく。
(……ああ、侍女殿。聖女様。どうか、あなた方の物語が、永遠に続きますように)
彼は、心の中で、敬虔な祈りを捧げた。 自らが、その物語の、最も忠実な、そして、唯一の観客であることを、誇りに思いながら。
もちろん、そんな彼の祈りが、厨房の中で悪戦苦闘する私たちに届くはずもなかった。
『フィオーラ! 扇ぎすぎです! 火が! 火が大きすぎます!』
『だって、イリス! この竈、全然言うことを聞いてくれないんですもの!』
私たちの目の前では、ようやく燃え移った薪が、私たちの努力と友情をあざ笑うかのように、ゴウゴウと音を立てて、地獄の業火のごとく燃え盛っていた。
その、あまりにも強すぎる炎が、私たちの未来のグラタンに、どのような運命をもたらすのか。 料理初心者の私たちには、知る由もなかった。
私たちは、地獄の業火と化した竈の中に、私たちの希望を、そっと滑り込ませた。 そして、祈るような気持ちで、その分厚い、鉄の扉を閉める。
『すごいわ、イリス! この火力なら、きっと、あっという間に、こんがりと美味しい焼き色がつくに違いないわ!』
フィオーラは、興奮気味に、そう心で叫んだ。 私は、前世の記憶の片隅にある、「オーブンは、予熱が大事」「じっくり、火を通す」といった、うろ覚えの知識を思い出し、ただ、絶望的な気持ちで、その時が来るのを待っていた。
やがて、厨房に、香ばしい匂いが立ち込め始める。 チーズが溶け、ぐつぐつと煮える、食欲をそそる、最高の匂い。
『いい匂いがしてきたわ!』
フィオーラの喜びの声。 だが、その直後。その香ばしい匂いに、明らかに、何かが焦げ付く、危険な匂いが混じり始めた。
『焦げてる! これは、間違いなく、焦げてる!』
私の心の叫びと同時に、私たちは、慌てて、竈へと駆け寄った。 分厚い布で手を覆い、二人で、渾身の力を込めて、熱くなった鉄の扉を、こじ開ける。
中から、黒い煙と共に現れたのは。 表面は、ところどころ、炭のように真っ黒に焦げ付き、それでいて、中央部分は、まだ、チーズが、火山の溶岩のように、ぐつぐつと煮えたぎっている、私たちの、初めての作品だった。
私たちは、しばらく、言葉もなく、目の前の「作品」を、見つめていた。 黒焦げのチーズ。ぐつぐつと不気味に煮えたぎる、正体不明のソース。
やがて、フィオーラが、私の、煤で真っ黒になった顔を見て、ぷっと、吹き出した。 それにつられて、私も、彼女の、小麦粉でまだらになった顔を見て、笑い出してしまった。
ひとしきり笑い転げた後、私たちは、覚悟を決めた。 スプーンを手に取り、恐る恐る、その黒い塊を、一口、すくい上げる。
そして、二人、同時に、口に運んだ。
「…………」
まず、焦げたチーズの、苦い味がした。 次に、火が通り過ぎて、少しだけ硬くなったエビの食感。 そして、あの絶望的な小麦粉の団子が、舌の上で、無残に、崩れていく。
お世辞にも、美味しいとは言えない。 港町で食べた、あの宝物のような味とは、似ても似つかない。 けれど。
『……美味しいわ』
フィオーラが、私の心に、そっと、呟いた。
『うん。すごく、美味しい』
私も、そう、心で返す。
それは、決して、負け惜しみではなかった。 これは、ただのグラタンではない。 私たちが、二人で、初めて作った、冒険の味だ。
私たちは、煤だらけの顔を見合わせて、もう一度、笑い合った。 そして、世界で一番、いびつで、最高に美味しいグラタンを、最後の一口まで、仲良く、分け合って、食べたのだった。




