侍女編
「沈黙の侍女は縁の下の力持ち」
フィオーラと、お互いの本当の名前を呼び合うようになってから、私の世界は、少しだけ、その色合いを変えた。
相変わらず、この世界はうるさい。
宮殿中に満ちる、人々の思考の洪水は、決して止むことがない。
けれど、以前のように、それがただの不快なノイズの濁流だとは、感じなくなっていた。
フィオーラという、たった一つの、澄み切った、心地よい音色。
その存在が、私の心に、一つの、確かな「基準」を与えてくれたのだ。
だから、私は、気づくことができた。
あの濁流の中に、悲鳴や怒号のような激しい感情だけではなく、もっと、ささやかで、日常的な、心の呟きが、たくさん、含まれていることに。
『ああ、なんてこと! 大切な書類をどこかに置き忘れてしまった!』
『まずい、料理長に頼まれた香草、取りに行くのを忘れてた!』
『どうしよう、今からじゃ、約束の時間に間に合わない……!』
そんな、誰にでもあるような、小さな困惑や、焦りの声。
以前の私なら、それらもまた、ただの不快なノイズとして、聞き流していただろう。
けれど、フィオーラという、たった一つの心地よい音色を知ってしまった私の心は、もう、他人のささやかな苦痛を、無視することができなくなっていた。
(……助けてあげたい)
それは、偽善や、お節介ではない。
ただ、このうるさい世界に、ほんの少しでも、調和の取れた、穏やかな音を増やしたいという、私の、ささやかな願いだった。
最初の「事件」が起きたのは、その日の昼下がりのことだった。
フィオーラに頼まれたお茶菓子を厨房に取りに行った、その帰り道。私の頭の中に、一つの、悲鳴のような思考が飛び込んできた。
『ない、ない、どこにもない! 大神官様のお食事に使う、特別な岩塩の壺が! 私、きっと、クビになっちゃう……!』
声の主は、食材庫の前で半泣きになっている、若い厨房係の少女だった。
私は、足を止める。
そして、意識をさらに集中させ、他の厨房係たちの思考の糸を手繰り寄せた。
(……それにしても、今日の新人、また何かやらかしてないだろうな。さっき見たら、砂糖の棚に岩塩の壺をしまっていたぞ。全く、先が思いやられる)
……見つけた。
問題と、その答え。
私の手の中には、今、この名も知らぬ少女を、絶望の淵から救い出すための、完璧な情報が揃っていた。
問題は、これをどうやって彼女に伝えるか、だ。
私が、この世界の言葉を話せない、ただの口のきけない侍女である、という事実を、決して、揺るがすことなく。
私はお盆に乗せたお茶菓子を一度、近くの台の上に置いた。
そして、厨房の入り口に置かれていた掃除用具を積んだ手押し車に、ごく自然に近づく。
近くを通りかかった別の侍女が、私に一瞬訝しげな視線を向けた。
私は、その侍女と半泣きの厨房係の少女、二人の意識が完全に別の方向へと向く瞬間を、ただじっと待つ。
―――今。
私はわざとらしく、大きくつまずいたふりをした。
そして、手押し車に積まれていた空の金属製のバケツを、腕でそっと払う。
ガッシャーン!
バケツは計算通り、けたたましい音を立てて床を転がり、目的の砂糖棚のすぐ足元でぴたりと止まった。
「きゃっ!」「なに?」
二人の注意が、一斉にその音へと注がれる。
厨房係の少女が慌ててそのバケツを拾おうと、棚の前で膝をついた。
そして彼女は、見た。
屈んだ彼女の目線の、ちょうど真正面。
砂糖棚の一番下の段の、その奥に。
自分が血眼になって探していたあの岩塩の壺が、ちょこんと置かれているのを。
「……あった」
呆然とした呟き。
私はその安堵に満ちた心の声を聞き届け、満足すると会釈だけを残し、足早にその場を立ち去った。
私の心に、ほんの少しだけ温かい調和の音が響いた気がした。
その一連の出来事を、廊下の角の向こうから一人の騎士が鋭い観察眼で見ていたことなど、私は知る由もなかった。
騎士の名は、レイモンド。
聖女様を守護する任に就く、実直さと観察能力の高さで知られる男だ。
(……妙だ)
彼は眉をひそめた。
聖女様の唯一のお気に入り。そして、聖女様の「冒険」の共犯者。
俺の知らないところで、聖女様と二人だけの秘密を共有する油断のならない娘。
先日の焼き菓子の味を思い出して以来、彼女に対する警戒心は以前よりは薄れていた。
だが、今のはどうだ。
派手に物を倒し周囲を騒がせる。いかにもそそっかしい、未熟な侍女の振る舞いではないか。
(聖女様のお側に仕える者として、もう少し落ち着きというものを……)
そこまで考え、彼はふと首を傾げた。
先ほどまで半狂乱で何かを探していた厨房係の少女が、なぜか安堵の表情で一つの壺を胸に抱きしめている。
……奇妙な。
まあいい。問題が解決したのであれば、俺が口を出すことではない。
彼は小さく頭を振ると、再び自らの巡回任務へと戻っていった。
ほんの些細な違和感。
その正体に彼が気づくのは、まだ少しだけ先の話である。
二度目の「事件」は、それから数日後のことだった。
私は洗濯室から乾いたばかりの清潔なシーツを両腕に抱えて運んでいた。
磨き上げられた光沢が美しい長い廊下を歩いていた、その時。
『まずい、水をこぼしちゃった! 雑巾、雑巾……! ああ、でももうすぐオルコット大臣がここをお通りになる時間なのに! 看板を置く暇がない!』
角の向こうから、若い清掃係の焦りきった心の声が聞こえる。
そしてそれと同時に、廊下の反対側からは尊大で不機嫌そうな思考がこちらへ近づいてきていた。
(……まったく、最近の若手騎士はなっておらん。挨拶の声が小さい! 大神官様に一度、騎士団の規律について進言せねばなるまい)
声の主は、オルコTット大臣。神経質で、いつも何かしらに不満を抱いている気難しい老人だ。
まずい。
私の位置からは、二つの思考の合流地点が手に取るようにわかる。
清掃係が水をこぼした濡れた床。
そして、足元など全く見ずに思案に耽りながら、そこへ向かってまっすぐ歩いてくる大臣。
このままでは確実に転ぶ。
声をかけて知らせることはできない。
どうすれば――。
私の腕の中には、まだ温かいシーツの束。
これしか、ない。
私は覚悟を決めた。
オルコット大臣が濡れた床まで、あと三歩というところで。
私はわざと、自分の足をもたつかせた。
「あっ」という声にならない声を上げながら、私は腕に抱えていたシーツの山と共に、派手に床へと転んでみせる。
もちろん、計算通りに。
真っ白なシーツの雪崩が、大臣の進路を完璧に塞き止めた。
「―――この、のろま! いったい何をしておるか!」
私の頭上で雷のような怒声が響く。大臣の心からも、侮蔑と怒りの濁流が私に叩きつけられた。
私は顔を上げない。ただ床に散らばったシーツを必死に集める、か弱く愚かな侍女を演じ続ける。
大臣がさらに何か言おうと口を開いた、その時だった。
彼の視線が、私のすぐ先に広がる床の濡れに気づいた。
彼がもし私が転ばなければ、踏み出していたはずのその場所に。
大臣の口が、ぱくぱくと金魚のように動いた。
怒りの言葉は行き場を失い、彼の喉の奥へと消えていく。
やがて彼は、苦々しげに「……ちっ」と舌打ちを一つすると、何も言わずに踵を返し、別の通路へと去っていった。
私の二度目のささやかな任務は、こうして誰にも知られることなく完了したのだった。
だが、その一部始終を今度ははっきりと見ている者がいた。
レイモンドだった。
彼は巡回中に、ちょうどその廊下の角を曲がったところだったのだ。
清掃係の焦り。大臣の接近。そして、侍女のあまりにも完璧なタイミングでの「つまずき」。
(……偶然か?)
一度なら、そう思っただろう。
だが、彼の脳裏に数日前のあの厨房での出来事が蘇る。
あの時も、この侍女が騒ぎを起こした直後、半狂乱だった厨房係の少女が何かを見つけて安堵していた。
二度だ。
二度も、この侍女が起こした「偶然」が誰かの危機を救っている。
(……まさかな)
ありえない。彼女は口のきけない、ただのか弱い侍女のはずだ。
だが、一度芽生えた疑念の種は、彼の心に、静かに、しかし確かに根を下ろした。
レイモンドは、遠くでシーツを拾い集めている私の姿を、今までとは全く違う鋭い光を宿した瞳でじっと見つめていた。
この日から、彼の私に対する「監視」は全く別の意味合いを帯びることになる。
その日から、俺の巡回経路は不自然なまでにあの侍女の行動範囲と重なるようになった。
もちろん、偶然を装って。
聖女様の侍女である彼女は、一日の大半を聖域である祈りの間か、そこへ続く前室で過ごしている。俺がその周辺の警備を重点的に行うのは、何らおかしなことではない。
俺は柱の影から、壁のタペストリーの隙間から、彼女の静かな一日を観察し続けた。
そして、一つの奇妙な法則に気づいた。
彼女が一人でいる時や聖女様とお二人でいる時は、何も起こらない。彼女はただの物静かで、少し影の薄い侍女だ。
だが、俺が巡回任務で彼女のすぐ近くを通りかかった、その時だけ。
まるで、見計らったかのように何かが起こるのだ。
書庫の管理人が梯子から足を滑らせそうになるのを、彼女が「偶然」落とした本がクッションとなって救ったり。
慌て者の侍女が賓客用の高価な花瓶を倒しそうになるのを、彼女が「偶然」その前に立ちはだかったことで防いだり。
なぜだ。
なぜ、俺が近くにいる時にばかり彼女は「偶然」を起こす?
まさか……。
俺の脳裏に、一つのありえないはずの仮説が浮かび上がった。
まさか……俺を、意識して……?
一度そう思ってしまうと、もうそれ以外の答えが見つからなかった。
そうだ。そうだったに違いない。
彼女は俺に気づいてほしいのだ。
自分がただの侍女ではなく、人の役に立てる人間なのだと、俺に認めてほしいのだ。
いや、あるいは。
俺がいると緊張してしまうのか?
だから、普段はしないようなそそっかしい失敗をしてしまう。だがその純粋な心が起こす失敗は、結果的に奇跡のように誰かを救っている……。
なんと健気で、奥ゆかしい娘なのだ。
俺は自分のあまりにも完璧な推理に一人、胸を熱くしていた。
そう思って彼女を見れば、いつも俯きがちなその姿も、口をきかないその沈黙も、全てが俺への秘めたる想いを隠すための、いじらしい仕草に見えてくる。
(……わかったぞ、侍女殿)
俺は柱の影から、彼女の小さな背中に力強く心で頷きかけた。
(あなたのその秘めたる想い、この俺が、しかと受け止めた)
俺は物語の新しい登場人物になったのだ。
聖女様を守る騎士、そして、か弱き侍女の秘めたる恋心の、唯一の理解者として。
もちろん、そんな騎士の熱い想いが私の心に届くはずもなかった。
私の頭の中は、次に解決すべきささやかな「事件」のことでいっぱいいっぱいだったのだから。
けれど、私の知らないところで宮殿の中には小さな、しかし確かな変化が生まれ始めていた。
「ねえ、聞いた? あの、聖女様付きの口のきけない侍女様のこと」
「ああ、いつも俯いてる方でしょう?」
「あの方、なんだか幸運を運んでくださるみたいよ」
厨房係の少女は友人に、興奮気味に語った。
自分が絶体絶命の危機に陥っていた時、あの侍女様が騒ぎを起こした直後、まるで奇跡のように探していたものが見つかったのだ、と。
清掃係の青年は同僚に、不思議そうに話した。
大臣が転びそうになったまさにその瞬間、あの侍女様がシーツをぶちまけて事故を防いでくださったのだ、と。
いつしか侍女たちの間では、一つの噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。
あの物静かな侍女様は、宮殿の小さな不幸を見つけては誰にも知られずにそっと解決してくれる、「沈黙の福の神」様なのだ、と。
私の宮殿内での評価が人知れず少しずつ上がっている。
そんなことなど、私自身は全く気づいていなかった。
私のささやかな秘密の活動。
それは誰にも気づかれていない、はずだった。
だが、一人だけ、私の変化を敏感に感じ取っている者がいた。
『ねえ、イリス』
ある日の午後、祈りの間で刺繍をしていた私の心に、フィオーラの声が届いた。
『最近なんだか、楽しそうね』
私はどきりとして、顔を上げた。
フィオーラは窓辺に座り、頬杖をつきながら私をじっと見つめている。
『何かいいことでもあったの? 私の知らない、面白いことでも見つけたのかしら?』
その紫色の瞳は、全てを見透かすようにきらきらと輝いていた。
私はどう答えるべきか、迷った。
このささやかな秘密のゲームのことを、彼女に話すべきだろうか。
いや、これは私だけの秘密にしておきたい。
フィオーラとの冒険とは違う、私が私自身の力で、このうるさい世界と和解するための大切な儀式なのだから。
私はただ、小さく首を横に振る。そして、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべて見せた。
「秘密です」と、言葉の代わりに瞳で語りかける。
私のその態度に、フィオーラは一瞬だけきょとんとした顔をした。
そして、すぐに全てを理解したように、ふふんと悪戯っぽく鼻を鳴らす。
『……ふーん。まあいいわ。あなただけの秘密っていうのも、なんだか大人っぽくて素敵じゃない』
彼女は少しだけ拗ねたような、それでいてどこか嬉しそうな、複雑な響きを心に乗せた。
『それより、今夜のこと考えましょう! 北の市場に新しい串焼き屋さんができたって聞いたわよ!』
フィオーラはもう私の秘密のことなど忘れたかのように、ぱっと顔を輝かせ次の冒険の計画へと意識を切り替える。
私はそんな彼女の隣で、静かに微笑んだ。
私のささやかな秘密。
そして、彼女と共有する大きな秘密。
二つの秘密を胸に抱く私の毎日は、以前とは比べ物にならないほど豊かで、そして輝いて見えた。
私のささやかなゲームは、それからも続いた。
そして、私の行動を熱心に追い続ける、ただ一人の観客がいることにも私はまだ気づいていなかった。
レイモンドは、確信を求めていた。
自らの立てたあまりにも甘美な仮説。それを証明するための、決定的な証拠を。
彼は、賭けに出ることにした。
その日、彼は二人の文官がそれぞれ書類の山に没頭したまま、長い廊下の両端からお互いに向かって歩いてくるのを目撃した。
このままでは確実に正面衝突する。
普段の彼であればすぐに声をかけ、それを制止しただろう。
だが、彼は動かなかった。
なぜなら、その廊下の先からあの侍女が、静かにこちらへ向かってくるのが見えていたからだ。
(さあ、どうする、侍女殿)
レイモンドは柱の影に身を隠し、固唾をのんでその瞬間を待った。
これは試練だ。
彼女が俺に寄せる想いが本物であるのかを確かめるための。
私の思考は、瞬時に最適解を導き出した。
私はごく自然な動きで、廊下の壁際に飾られていた古い騎士の甲冑にそっと寄りかかる。そして、まるで肩の凝りをほぐすかのように背中を甲冑の腕に軽く擦り付けた。
カシャン!
金属の小手がぶつかり合う甲高い音。
静かな廊下に、その音は鋭く、そして明瞭に響き渡った。
「「むっ!?」」
書類の山に顔を埋めていた二人の文官が、同時にはっと顔を上げる。そして、衝突寸前の距離にいる互いの存在にようやく気づいた。
「こ、これは失礼」「いや、こちらこそ……」
二人は気まずそうに会釈を交わし、足早にすれ違っていく。
衝突は、回避された。
私は誰にも気づかれていないことを確認するため、何気ないふりでさっと周囲を見回す。私の視線が、レイモンドが隠れる柱の影を、一瞬だけかすめて通り過ぎた。
その、ほんの一瞬の視線。
それが彼の心に、決定的な勘違いという名の灼熱の烙印を焼き付けた。
(……見たか、今の。俺の方を)
レイモンドの心臓が、鎧の下で大きく、高く鳴り響いた。
(間違いない。彼女は俺に気づいていた。そして、俺が見ている前であえてこの「奇跡」を起こしてみせたのだ。俺に、アピールするために……!)
ああ、侍女殿。なんと、なんと健気で、いじらしい……!
彼の恋物語は今、確信へと変わった。
俺は柱の影から、そっとその場を離れる彼女の後ろ姿を見送った。
か弱く物静かで、それでいて誰にも知られず善行を積む心優しき少女。
そして、その行いをただ一人俺にだけ気づいてほしくて、不器用な合図を送ってくるいじらしい乙女。
(……ああ、侍女殿。心配には及ばない)
俺は天に掲げた聖女様の物語とは別に、もう一つのささやかで、しかし、かけがえのない物語をこの胸に抱くことを誓った。
(あなたのその健気な行いも、俺に寄せる秘めたる想いも、誰にも気づかせはしない)
俺は背筋を伸ばし、再び巡回の任へと戻る。
その足取りは以前よりもずっと力強く、そして誇りに満ちていた。
この俺が、聖女様の冒険と、そしてあなたの淡い恋路の、完璧な守護者となって進ぜよう。
宮殿の片隅で、二つのあまりにも大きな勘違いが、奇跡的な調和を生み出している。
その真実に気づく者は、まだ誰もいなかった。




