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沈黙の侍女と空腹の聖女  作者: あかはる


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聖女侍女編3

「聖女の祈りと平和の魔法」


初めての港町への冒険から、一夜が明けた。

部屋の中は、まだ、昨夜の興奮の余韻と、レシピ本に書き写した宝物シチューの、幻の香りで満たされているようだった。


フィオーラは、朝から上機嫌だった。

鼻歌交じりに、私の髪を梳かしてくれたり、「ねえ、イリス。次は、どんな宝物を探しに行こうか?」と、早くも次の冒険の計画を立てようとしたり。


私は、そんな彼女の、楽しげな心の声に、相槌を返しながらも、一人、別のことを考えていた。

昨夜、私の心の耳が拾ってしまった、二つの、不穏な噂。

『平和の魔法』の秘密を探る、密偵の影。

そして、フィオーラの力を疑う、人々の声。


私の胸の奥に、小さな、しかし、無視できない棘のように、その記憶が、ちりちりと、燻り続けていた。

私の、ほんのわずかな心の揺らぎ。

それを、フィオーラが、見逃すはずもなかった。


髪を梳くフィオーラの手が、ぴたりと、止まった。

彼女は、鏡越しに、私の顔を、心配そうに、じっと、覗き込んできた。


『イリス? どうかしたの? なんだか、朝から、少し、元気がないみたいだけど』


その、あまりにも、まっすぐな心遣い。

私は、慌てて、首を横に振った。そして、とっさに、一つの、嘘をついた。

昨夜、胸に秘めると決めた、本当の秘密を、隠すための、ささやかな嘘を。


『……いえ、何でもありません。ただ、昨夜、港町の船乗りさんたちが、お話していたのを、少しだけ、思い出していただけです』


『船乗りさんの、お話?』


『はい。この国の、「平和の魔法」、というものについて。フィオーラは、何か、ご存知ですか?』


私の問いかけに、フィオーラは、きょとん、とした顔をした。

そして、すぐに、合点がいったというように、にっこりと、笑う。


『なあんだ、そんなことだったの。ええ、もちろんよ! それはね……』


彼女は、私の髪から櫛を離すと、私の正面に回り込み、少しだけ、誇らしげに、胸を張ってみせた。

まるで、物知りな先生が、幼い生徒に、世界の仕組みを、教え諭すかのように。


『平和の魔法、っていうのはね、イリス』


フィオーラの心から、いつもより、少しだけ、澄ました声が、聞こえてきた。


『この国全体を、目に見えない、巨大な盾で覆っているようなものなの。この魔法がある限り、どんな国も、私たちの国に、戦争を仕掛けてくることはできない。だから、この国は、百年以上も、平和を保っていられるのよ』


彼女は、窓の外に広がる、平和な王都の景色を、愛おしそうに見つめた。


『そして、その、大切で、神聖な魔法を、維持しているのが……』


彼女は、くるりと、私の方を向き、少しだけ、はにかむように、微笑んだ。


『私の、日々の、祈りなの』


聖女としての、役割。

この国の、平和の礎。

その、あまりにも、大きく、そして、重い役目を、彼女は、誇らしげに、そう、口にした。

その言葉の裏に、どれほどの重圧が、隠されているのか。

私は、まだ、知らなかった。


『……それは、すごいことですね。毎日、その、お祈りを?』


私の、素朴な心からの問いかけ。

それに、フィオーラは、ええ、と再び誇らしげに頷いた。


『そうよ。朝も、昼も、夜も。それが、聖女の務めだもの』


けれど。

彼女の心から、その言葉に続いて、ほんの、ほんの少しだけ、迷いの響きが漏れ出した。


『でもね、イリス……』


彼女は、少しだけ、俯いた。

その表情は、聖女ではなく、誰にも言えない秘密を抱えた、ただの、か弱い少女の顔だった。


『その祈り、と言っても、私には、何も、見えないの』


『ただ、目を閉じて、静かに、この国の平和を心の中で願うだけ。本当にそれで、あの巨大な魔法の盾が維持できているのか……』


『時々、わからなくなるの』


あまりにも、か細い声。

私は初めて、彼女が背負う大きすぎる役目の、本当の重さを垣間見た気がした。


私は何と声をかければいいのか、わからなかった。

聖女である彼女が、その存在意義の根幹を揺るがせてしまっている。

私が軽々しく慰めの言葉などかけていいはずがない。


私の沈黙を、彼女はどう受け取ったのだろう。

フィオーラはさらに、心の奥底に沈めていたもう一つのおりを言葉にした。


『だって、おかしいでしょう?』


『国全体を守るほどのすごい魔法の使い手が、どうして自分の身に降りかかる瓦一枚、干してあっただけの漁網一枚も避けられないのかしら』


初めて市場へ行った日に私たちのすぐ足元に落ちてきた、あの瓦。

港町で、頭上から、まるで意志があるかのように落ちてきて、フィオーラだけを絡め取った、あの漁網。

これまでの冒険の中で彼女の身にだけ降りかかってきた、数々の小さな不運。


私はそれをただの偶然だと、心のどこかで無理やり思い込もうとしていた。

けれどフィオーラもまた、その奇妙な法則に気づいていたのだ。


そのあまりにも的を射た疑問。

私には答えることができなかった。

なぜならそれは、この物語のまだ誰も知らない、残酷な真実の核心に触れるものだったから。


フィオーラの、あまりにも的を射た疑問。

私の心臓が、どきり、と嫌な音を立てた。


そうだ。彼女の言う通りなのだ。

国を守るほどの力を持つ者が、なぜ瓦や漁網ごときに翻弄されなければならないのか。

その答えを、私は本当は知っている。

けれど、それを彼女に告げることはできない。

まだ、その時ではないから。


私は、どう答えるべきか必死に言葉を探した。

嘘はつきたくない。けれど、真実も話せない。

ならば。


私はそっと、フィオーラの冷たくなった手を取った。

そして、できる限り優しく穏やかな響きを、彼女の心へと送った。


『……それは、きっと、フィオーラ』


私の心からの声に、フィオーラは不安げに顔を上げた。


『……世界が、あなたに嫉妬しているからですよ』


私のあまりにも詩的な、そして答えになっていない答え。

それにフィオーラは、きょとんとした顔で私を見つめ返した。


『嫉妬? 世界が? 何を言っているの、イリス。それでは答えになっていないわ』


彼女の心から、もっともな反論が返ってくる。

私はわかっていた。ごまかしはもう通用しない。

私は彼女の手をもう一度優しく握りしめた。そして私がこのうるさい世界でようやく見つけ出した、一つの仮説を彼女に語り始めた。


『……フィオーラの心はきっと、世界で一番澄んでいて美しい音色を奏でる、楽器のようなものなのです』


私の静かな心の声に、フィオーラは戸惑いながらも耳を傾けてくれていた。


『けれど世界は、たくさんの汚くて調子の外れた音で満ちています。あなたのそのあまりにも美しい音色は、時々その世界の不協和音とぶつかってしまう。その衝撃がきっと、瓦や漁網といった小さな不幸をあなたの元へと引き寄せてしまうのです』


それは半分は比喩で、半分は私の直感的な真実だった。

聖女というあまりにも「完璧な音」。それがこの不完全な世界で、軋轢を生んでいるのだと。


『私の音が、世界と、ぶつかっている……?』


フィオーラは、まだ、半信半疑のようだった。

私の、あまりにも、物語のような仮説。それを、すぐには、信じられないのも、無理はない。

私は、彼女の、もう一つの、そして、何よりも、雄弁な記憶へと、語りかけた。


『……フィオーラ。思い出してください』


『私たちが、一緒に、美味しいものを食べ始めてから……。心から、笑い合っている間。その時、何か、不幸なことは、起こりましたか?』


私の問いかけに、フィオーラの瞳が、はっと、見開かれた。

彼女は、思い返す。

市場で瓦が落ちてきたのは、食べる前。

港町で漁網に絡まったのも、食べる前。

けれど、パン屋さんの温かいスープを食べている時も。串焼きを夢中で頬張っている時も。港町の酒場で、熱々のグラタンを食べている時も。

その、幸福な時間の、真ん中では、確かに、何も、起こらなかった。


『……言われてみれば……そうね。何も、起こらなかったわ』


『二つの音が、綺麗に、重なり合う時。私たちの心が、「美味しい」で、調和している時。そのハーモニーが、きっと、世界の不協和音から、フィオーラを、守ってくれるのです』


私の仮説。

それは、一つの、希望の光だった。

私たちの冒険は、ただの道楽ではない。

それは、フィオーラを、この世界の理不尽な悪意から守るための、唯一の、「魔法」なのかもしれないのだから。


フィオーラはしばらく、呆然としていた。

私のあまりにも物語のような仮説。それを心の中で必死に反芻しているようだった。


やがて彼女の瞳に、一つの確信の光が灯った。

それは今までのどんな時よりも、強く、そして輝かしい光だった。


『……私たちの、冒険が……私を、守る、魔法……?』


彼女の心からの声が震えている。

それは恐怖からではない。歓喜の震えだった。


『じゃあ、イリス!』


フィオーラは私の両手を、ばっと掴んだ。

その瞳は、まるで神の啓示でも受けたかのように、爛々と輝いていた。


『じゃあ、私たちは、もっと、もっと、冒険しなくちゃいけないっていうことじゃない! もっと、美味しいものを、たくさん、たくさん、食べなくちゃ、私が危ないっていうことよね!?』


そのあまりにもご都合主義な、しかし彼女にとっては完璧な論理の飛躍。

私はそのあまりの熱意に、ただ圧倒されるばかりだった。


フィオーラの心にあった、全ての不安と疑念の影。

それは今、跡形もなく吹き飛んでいた。

代わりにそこにあるのは、「美味しいものを食べる」という新たな、そしてあまりにも神聖な使命感だけだった。


私の半分は比喩で、半分は真実だったはずのささやかな仮説。

それがフィオーラの心の中で、絶対的で、そして揺るぎない「神託」へと姿を変えてしまった。


彼女は私の手を掴んだまま、聖女としての本来の役目を思い出したかのように、祈りを捧げるポーズで深く、深く頷いた。


『……そうだったのね』


彼女の心から、全ての迷いが消え去った悟りの響きが私に届く。


『私の祈りが足りなかったんじゃない。私の「幸福」が足りなかったんだわ……!』


『イリス! あなたは神が私に遣わした最高の使徒よ! 私に本当の祈りの形を教えてくれるために!』


(……話がどんどん大きくなっている……)


私は彼女のあまりにも壮大な勘違いに、もはや口を挟むことさえできなかった。

けれど、その瞳に宿る一点の曇りもない純粋な使命感。

それを見ていると、私のささやかな嘘も、いつしか本当のことのように思えてくるから不思議だった。


フィオーラは私の手を離すと、今度は私たちの宝物であるレシピ本を、恭しく両手で掲げた。

それはもはや、ただの冒険の記録ではない。

彼女にとっては、この国を、そして自らの身を守るための、唯一にして絶対の聖典なのだから。


フィオーラは、その「聖典」を、ぱらぱらと、真剣な眼差しでめくり始めた。

そして、昨日、書き加えたばかりの、『海の怪物の宝物シチュー』のページで、ぴたりと、手を止めた。


『待って、イリス!』


彼女の、切迫した声が、私の心に飛んでくる。


『昨夜の冒険は、少し、危険すぎたかもしれないわ……! せっかく美味しいグラタンを食べたのに、あの、不敬な噂のせいで、私の『幸福』が、少し、減ってしまったかもしれない!』


彼女の心は、もはや、一刻の猶予も許されないという、強い、強い、焦燥感に駆られていた。


『守りの力が、不完全かもしれないわ! 今夜、もう一度、完璧に、幸福なだけの冒険に出て、効果を上書きしなくては!』


フィオーラは聖典を閉じると、私の両肩をがっしと掴んだ。


『私の、聖なる守りを、完璧にしなくては! イリス、すぐに作戦計画を!』


(……さっきまで、あんなに、悩んでいたのに……)


私は、そのあまりにも見事な立ち直りっぷりに、もはや感心するしかなかった。

私のついたささやかな嘘。

それは、彼女の食欲という名の、たくましい生命力と結びつき、彼女の不安を根こそぎ吹き飛ばしてしまったのだ。


それでいい。

あなたがもう、一人で悩まなくて済むのなら。


私は、彼女の熱意に満ちた瞳を、まっすぐに見つめ返し、力強く頷いた。

私たちの、新しい冒険。

いいえ、「聖なる任務」の始まりだった。


こうして、私たちの新しい冒険。

いいえ、フィオーラにとっては、この国と自らの身を守るための、あまりにも神聖な「任務」が正式に決定されてしまった。


私はそのあまりにも熱意に満ちた瞳をまっすぐに見つめ返し、力強く頷いた。

もう私に否やを唱える権利など、どこにもないのだから。


『わかりました、フィオーラ』


私の心からの承諾。

それにフィオーラは、満足げににっこりと微笑んだ。


『よし、決まりね!』


彼女は聖典(レシピ本)を再び、ぱらぱらとめくり始めた。

その表情は、もはやただの食いしん坊ではない。自らの運命を、そしてこの国の未来を、その一身に背負った悲壮なまでの覚悟に満ちていた。


『……イリス、これよ! 王都の中央地区にある、夜しか開かないお菓子屋さんの、「星屑のパフェ」! まだ、私たちの聖典には、記されていないわ!』


(……中央地区の。あのお店は、貴族たちにも人気で、夜は特に警備が厳しいと聞きます)


私の冷静な分析。

それにフィオーラは、ぐっと拳を握りしめた。


『決まりね、イリス! 今夜よ! 今夜、私たちの聖なる守りを、完璧なものにするの!』


その瞳には、これから始まる新しい任務への決意と、そしてそれを上回る、甘いお菓子への純粋な渇望が燃え盛っていた。


私はそのあまりにもまっすぐで、欲望に忠実な瞳を見つめ返した。

そして心の中で、一つだけ短く息を吐く。


(……やれやれ)


けれど不思議と、嫌ではなかった。

むしろ、この無茶で奔放で食いしん坊な、私のたった一人の友人。

彼女にこうして振り回されている毎日が、どうしようもなく愛おしいのだ。


私が軍師として力強く一つ頷きを返すと、フィオーラは満足げににっこりと笑った。


コンコン、と。

部屋の外から再び、侍女の訪れを告げるノックの音が聞こえる。

私たちの二人だけの秘密の作戦会議は、終わりだ。


私たちは顔を見合わせると、すっと、いつもの「聖女様」と「物言わぬ侍女」の仮面を被り直した。


『作戦、期待しているわよ、私の軍師様!』


扉が開かれる、その直前。

私の心にだけ、フィオーラの楽しげな、そして絶対の信頼に満ちた声が響き渡った。


その日の午後、私は一人自室の窓辺に座り、思考を巡らせていた。

フィオーラは、大神官様への定時報告のため祈りの間へと向かっている。


私の頭の中は、今夜決行されるべき「聖なる任務」のことでいっぱいいっぱいだった。

目的地は、王都の中央地区。貴族たちの夜会が開かれ、衛兵ではなく、より手強い近衛騎士団が警備にあたる場所。

これまでのどの冒険よりも、危険な任務。


けれど私の心に、迷いはなかった。

フィオーラのあの不安と疑念に満ちたか細い声を、私はもう二度と聞きたくはないから。

彼女が心からの笑顔でいられるのなら。

たとえ、火の中、水の中。

私は彼女の、完璧な軍師であり続けよう。


私はすっと、目を閉じた。

意識を宮殿の外、遥か遠く、王都の中心部へと飛ばす。


近衛騎士団の思考の癖を読む。

貴族たちの夜会の終了時間を探る。

お菓子屋の店主の心の声を拾う。


無数の情報のピースを、一つ、また一つと頭の中で組み立てていく。

私たちの新しい冒険。

いいえ、「聖なる任務」を完璧に成功させるための、ただ一つの完璧な作戦計画レシピを完成させるために。


どれほどの時間が経っただろうか。

私がようやく、完璧な作戦計画の最後のピースを頭の中で、はめ終えたその時。


『……イリス、疲れたでしょう?』


すぐそばから、フィオーラの優しい心の声がした。

見ると、彼女はいつの間にか祈りの間から戻り、私の顔を心配そうに覗き込んでいた。


私は驚いて、顔を上げた。

そして何でもないと、首を横に振る。


『ありがとう、イリス』


フィオーラは私の隣に、そっと腰を下ろした。


『私のわがままのために。いつも無理ばかりさせてしまって、ごめんなさいね』


そのあまりにもしおらしい言葉。

私は驚いて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。

そして心の中で、はっきりと首を横に振る。


『わがままなんかじゃ、ありません』


『これはフィオーラを守るため。いいえ、私たち二人をこの世界の不協和音から守るための、大切で、大切な「聖なる任務」なのですから』


私の心からの、力強い言葉。

それを受け取ったフィオーラは、一瞬きょとんとした後、やがて花が綻ぶように、嬉しそうに、そして少しだけ照れくさそうに笑った。


私たちの冒険の目的は、もうただ一つ。

このうるさい世界の中で、二人だけの美味しくて幸せな音を探し続けること。

そのかけがえのない任務の地図を、私たちは今、確かにその手に握りしめていた。

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