聖女侍女編1
「名前で呼んで」
その日、私たちはいつものように、夜の闇に紛れて王都の街を歩いていた。
『ねえ、次はどこのお店に行く? この前、衛兵たちが噂していたわ。路地裏に新しくできたパイ屋さんが、すごく美味しいんですって!』
私の心に、聖女様の楽しげな声が響く。私はいつも通り、フードを目深にかぶったまま、こくりと頷いて見せた。 私たちの間では、これが普通の会話だった。
彼女は、私を「あなた」と呼ぶ。 そして私は、彼女を心の中で「聖女様」と呼ぶ。
それが、私たちの間にある、決して越えることのない、心地よくて、少しだけ寂しい距離感だった。私たちは、最高の共犯者。けれど、まだ、本当の名前で呼び合うほどの、ただの友人にはなれていなかったのだ。
目的のパイ屋へと続く道を歩いていた、その時だった。
いつもは静かなはずの広場が、今夜はたくさんのランプで照らされ、まるでお祭りのように賑わっているのが見えた。
『まあ、見て! あの人たち、何をしているのかしら?』
聖女様の心に、好奇心の光が灯る。
広場の中央では、たくさんの人々が、二人一組になって、何やら小さな贈り物を交換している。そして、贈り物を交換し終えると、少し照れくさそうに、でも、とても嬉しそうに、お互いの名前を呼び合っているのだ。
私は、意識を集中させ、広場に満ちる人々の心の声に、そっと耳を澄ませた。
(……やった! これで、今日からあいつのこと、名前で呼べるんだ!)
(……このリボン、喜んでくれるといいな。私の、一番の親友になってくれて、ありがとう)
すぐに、わかった。
これは、年に一度の「心友の祭り」。大切な友人や恋人が、お互いの名前を呼び合うことを誓い、絆を深めるための、特別な夜なのだ。
『……心友の、祭り?』
私の心からの説明に、聖女様は不思議そうに首を傾げた。
『名前で呼び合うことを、誓う? どうして? そんなの、当たり前のことではないの?』
彼女の純粋な疑問に、私は少しだけ胸が痛んだ。
長命種である彼女にとって、人間の短い一生の中で育まれる「友情」というものの形は、きっと、私たちとは全く違うものに見えているのだろう。
私たちは、広場の隅の噴水の縁に腰掛け、しばらくの間、その光景を眺めていた。
二人の若い女の子が、お揃いの花の髪飾りを交換している。
屈強な男たちが、照れくさそうに、木彫りの酒杯を酌み交わしている。
寄り添う恋人たちが、相手の名前が刺繍されたお守りを、そっと手渡している。
その誰もが、幸せそうに笑っていた。
「役割」ではなく、ただの「個人」として、かけがえのない誰かと繋がっている、その喜びに満ちて。
『……不思議な、お祭り』
聖女様が、ぽつりと、私の心にだけ聞こえる声で呟いた。
『名前なんて、ただの記号でしょう? そんなものに、誓いだなんて。人間は、面白いことを考えるのね』
その声には、いつもの好奇心とは少し違う、どこか寂しげな響きが混じっていた。
私は、彼女の本当の心を知っている。
永い時を生きる彼女にとって、「名前を呼ぶ」という行為は、きっと、私たちが思うよりも、ずっと重い意味を持っているのだ。
たくさんの出会いと、それ以上の数の別れを経験してきた彼女にとって、誰かを特別な名前で呼ぶことは、いつか必ずやってくる喪失の痛みを、自ら心に刻み込む行為に他ならないのかもしれない。
「聖女様」と「あなた」。
その、役割だけの関係こそが、彼女が自分を守るために身につけた、優しくて、悲しい鎧なのだから。
聖女様は、そう呟くと、興味を失ったかのように、ぷいと顔をそむけた。
けれど、その紫色の瞳が、広場の人々の笑顔を、羨むような色で追いかけているのを、私は知っていた。
彼女の鎧が、ほんの少しだけ、軋む音がした。
「……もう行きましょう」
不意に、彼女の心から、少しだけ不機嫌な声が届く。
「パイが、冷めてしまうわ」
そう言うと、彼女は私の返事を待たずに、噴水の縁から立ち上がった。
私は、何も言わず、その後に続く。
お祭りの喧騒を背に、私たちは再び、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
私たちの間には、また、いつもの静寂が戻ってくる。
けれど、その静寂は、来る時とは、少しだけ、違う音色をしていた。
彼女の心に、小さな、小さな波紋が広がったのを、私だけが、確かに感じ取っていたのだから。
目的のパイ屋さんは、路地のさらに奥、建物の影に隠れるようにして、ひっそりと営業していた。
私たちは、焼きたてのミートパイを一つだけ買うと、近くの、今はもう使われていない古い井戸の縁に腰掛けた。
ほかほかのパイを半分に割ると、湯気と共に、お肉と香辛料の食欲をそそる匂いが立ち上る。
聖女様は、いつもなら、目を輝かせてすぐにでもかぶりつくはずなのに。
今夜の彼女は、ただ、黙って、自分の分のパイをちびちびと口に運ぶだけだった。
その心の中は、静かだった。
けれど、それは、私がいつも安らぎを感じる湖面のような静けさではない。何か、重いものが、心の底に、ゆっくりと沈んでいくような、不穏な静けさ。
私は、何も言わずに、彼女が口を開くのを、ただ待っていた。
やがて、聖女様は、食べかけのパイを膝の上に置くと、ぽつりと、心で呟いた。
『ねえ……あなたはどう思う?』
『……?』
『あの人たちは、どうして、あんなにも嬉しそうに、名前を呼び合っていたのかしら』
その声は、広場で私に見せた、寂しさを隠すための強がりな響きではなかった。ただ、純粋に、答えがわからずに困っている、子供のような、か細い響きだった。
『ただの記号だって、私はそう思っていたのに。でも、見ていたら、なんだか、わからなくなってしまったの』
私は、何と答えるべきか、迷った。
私にとっても、「名前」は、遠い記憶の彼方にある、失われたものだったから。
けれど、私は、正直な気持ちを、彼女の心へ、そっと届けた。
(……たぶん、嬉しいのだと、思います)
(名前を呼ばれる、ということは、自分が「あなた」や「誰か」ではなく、かけがえのない、たった一人の自分として、その人に認められた、ということだから)
(名前は、きっと、その人が、ただ、そこにいるっていうことの、一番最初の証なのだと、思います)
私の心からの言葉は、静かな夜の闇に、ゆっくりと溶けていった。
聖女様は、何も言わなかった。
ただ、その美しい紫色の瞳を、ほんの少しだけ、大きく見開いて、私をじっと見つめていた。
その瞳の奥で、何かが、静かに、そして、確かに、変わっていくのがわかった。
彼女が、何百年もの間、ずっと身に纏っていた、諦観という名の、分厚い氷の鎧。
その表面に、私のささやかな言葉が、小さな、けれど、決して消えることのない、一筋の亀裂を入れたのだ。
やがて、彼女は、ふっと、息を漏らした。
それは、ため息ではなく、もっと、ずっと優しい、安堵の響き。
そして、今まで見たこともないような、穏やかな、穏やかな笑顔を浮かべた。
彼女は、残っていたパイを、美味しそうに、一口で食べ終えると、満足げに、ぱん、と両手を合わせた。
その心の中は、もう、あの不穏な静けさではなく、雨上がりの澄み切った空のように、晴れやかだった。
宮殿への帰り道、私たちの間に言葉はなかった。
けれど、その沈黙は、もう気まずいものではなかった。むしろ、一つの温かいパイを分け合ったことで、私たちの心は、今までで一番、深く、そして、静かに通じ合っているように感じられた。
聖女様の足取りは、来た時よりもずっと、軽やかだった。
私の心に届く彼女の思考は、もう何の迷いもなく、ただ、澄み切った夜空のように、穏やかで、そして、どこまでも晴れやかだった。
彼女の中で、何かが、決まったのだ。
私は、それが何なのか、まだ知らない。けれど、不安はなかった。
ただ、隣を歩く、私のたった一人の共犯者の横顔を、信じたいと思った。
聖域へと戻り、二人きりになった、その時。
彼女は、私の正面に立つと、少しだけ、はにかむように、微笑んだ。
『ねえ……』
私の心に、春の陽だまりのように、温かい声が響いた。
『あなたの、本当の名前を、教えてはくれないかしら?』
その、あまりにもまっすぐな問いかけに、私は息を呑んだ。
名前。
この世界に来てから、誰にも呼ばれたことのない、私だけの記号。前世の私と、今の私を繋ぐ、たった一つの、細い糸。
それを、この人に?
迷いは、一瞬だった。
この人になら、私の全てを預けてもいい。そう、心の底から思った。
私は、記憶の奥底から、その懐かしい響きを、そっと掬い上げる。そして、壊れ物を扱うように、丁寧に、彼女の心へと送った。
(……入角)
私の名前は、イリスです。
私の、たった三文字の名前。
その響きを受け取った聖女様は、まるで、世界で一番美しい宝石でも受け取ったかのように、その紫色の瞳を、きらきらと輝かせた。
『イリス……』
彼女は、私の名前を、心の中で、そっと、反芻する。
その響きは、私の心に、今まで感じたことのない、温かくて、そして、少しだけくすぐったい感覚を、もたらした。
『とても、綺麗な響きね。あなたの心みたいに、静かで、澄んでいるわ』
そう言うと、彼女は、悪戯っぽく、笑った。
『じゃあ、今度は、私の番ね』
そう言って、彼女は、恭しく、胸に手を当てた。
まるで、初めて会う誰かに、自己紹介をするみたいに。
『私の名前は、フィオーラ。ただの、フィオーラよ』
フィオーラ。
聖女様のお名前。この国で、その名を軽々しく口にする者は誰もいない。
あまりにも尊く、あまりにも遠い、星の名前。
その名前を、彼女は今、「ただのフィオーラ」だと言った。
「聖女様」ではない、私と同じ、ただの一個人の名前なのだと。
私の心臓が、とくん、と一つ、大きく鳴った。
いいのだろうか。私が、その名前を呼んでも。
私の戸惑いを、彼女は感じ取ったのだろう。
『呼んでみて?』
悪戯っぽく、私の心を覗き込んでくる。
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
そして、勇気を振り絞り、その、星のように美しい響きを、心の中で、そっと、紡いだ。
(……フィオーラ)
その瞬間、彼女の顔が、ぱあっと、花が咲くように輝いた。
今まで見た、どんな笑顔よりも、嬉しそうな、満開の笑顔だった。
『イリス、イリス、イリス!』
私の名前を、フィオーラは、まるで新しく覚えた歌を口ずさむように、何度も、何度も、心の中で繰り返した。そのたびに、私の心に、温かい光が灯っていく。
『ふふ、これで、私も、あなたがいるっていう証を手に入れたわ』
彼女は、私の両手を、ぎゅっと握りしめた。
『そして、あなたも、私がいるっていう証を、手に入れてくれた』
もう、「聖女様」でも、「あなた」でもない。
私たちは、フィオーラと、イリス。
たったそれだけのことが、どれほど、私たちの心を自由にしてくれたことだろう。
私は、溢れそうになる涙をこらえて、精一杯の力で、彼女の手を握り返した。
言葉は、いらなかった。
ただ、お互いの名前を心に抱きしめるだけで、私たちは、世界で一番、幸せな二人になれたのだから。
その夜、私たちは、初めてお互いの本当の名前を知った。
しばらくの間、その幸福な余韻に浸っていたけれど、やがてフィオーラが、何かを思いついたように、ぱっと顔を上げた。
『そうだわ、イリス!』
私の名前を呼ぶその響きは、もうすっかり、彼女のものになっていた。
『今日のことも、レシピ本に書きましょう!』
彼女は、戸棚の奥から、私たちの宝物である手帳を取り出すと、わくわくした様子で、新しいページを開いた。
『ええと、今日のパイは、なんて名前にしようかしら。「心友の祭りの夜のパイ」? それとも、「名前を交換した記念パイ」?』
フィオーラは、楽しそうに頭を悩ませている。
そして、しばらく考えた後、インクをつけたペンを、羊皮紙の上へと走らせた。
そこには、今までで一番、丁寧で、そして、優しい文字が綴られていた。
『フィオーラとイリスのパイ』
それが、彼女が選んだ、今日という日の名前だった。
彼女は、今日の出来事を、詩のように書き綴っていく。
ランプの灯りが揺れる、心友の祭り。
交わされる贈り物のこと。
井戸の縁で、二人で分け合った、熱々のパイの味。
そして、最後に、少しだけインクを多めに含ませて、私たちの名前を、並べて記した。
フィオーラ、と。
イリス、と。
「はい、あなたの番よ」
書き終えた彼女は、満足げに、手帳とペンを私に差し出した。
いつものように、調理法を書き記すために。
けれど、私は、そのパイの作り方を知らない。
だから、私は、今日、私たちが手に入れた、もっと大切なもののレシピを、その隣に、そっと書き加えた。
材料:
ひとかけらの勇気と、正直な心。
作り方:
大切な人の瞳を、まっすぐに見つめて、心を込めて、その名前を呼ぶこと。
私がペンを置くと、フィオーラは、私の書いた「レシピ」を覗き込んだ。
そして、最初はきょとんと目を丸くし、やがて、くすくすと、鈴を転がすように笑い出した。
『ふふ、あなたって、時々、詩人みたいになるのね、イリス』
その、楽しげな響き。
私の名前を呼ぶ、彼女の声。
その全てが、私の心を、温かいもので満たしていく。
彼女は、完成したページを、満足げにしばらく眺めた後、ぱたん、と手帳を閉じた。
今日の冒険と、私たちの新しい約束が、確かに、その一冊の中に、閉じ込められた。
『よし!』
フィオーラは、私の手を、再び、ぎゅっと握った。
『これからは、フィオーラとイリスの冒険ね。もっと、もっと、美味しいもので、この本をいっぱいにしましょう!』
その、太陽のような笑顔に、私は、何度も、何度も、力強く頷き返した。
その夜、私たちは、いつもより少しだけ、夜更かしをした。
レシピ本を何度も読み返したり、次に行くお店の計画を立てたり。ただ、それだけのことなのに、今までのどんな時間よりも、楽しくて、愛おしかった。
やがて、眠りの時間になり、私がフィオーラのために寝台の用意を整えていると、不意に、彼女の優しい声が心に届いた。
『イリス』
ただ、名前を呼ばれただけ。
それなのに、私の心臓は、嬉しさに、きゅっと甘く締め付けられた。
『ありがとう』
振り返ると、彼女は、寝台の中から、私に、穏やかに微笑みかけていた。
その瞳には、もう「聖女」の仮面も、「共犯者」としての悪戯っぽさもない。
ただ、一人の友人が、もう一人の友人に向ける、温かくて、素直な、感謝の光だけが宿っていた。
私は、ただ、静かに一礼して、自分の部屋へと下がる。
扉を閉め、簡素な寝台に横になっても、まだ、胸の奥がぽかぽかと温かかった。
目を閉じると、彼女の声が、心の中で何度も反響する。
『イリス』『イリス』『イリス』。
私の、名前。
この世界では、とうの昔に捨てたつもりだった、過去の私のかけら。
それを、彼女が、拾い上げてくれた。
そして、世界で一番、美しい響きを、与えてくれた。
もう、私は、名無しの侍女ではない。
イリスだ。
フィオーラの、たった一人の共犯者で、友人。
そう思うと、いつも私を苛む、宮殿のノイズさえもが、今夜は、遠い、遠い子守唄のように聞こえた。
私は、生まれて初めて、心の底から安らかな気持ちで、深い、深い眠りへと落ちていった。
翌朝、私の意識を最初に揺り動かしたのは、いつもの騒がしいノイズではなかった。
『イリス、朝よ!』
フィオーラの、弾むような、明るい声。
自分の名前を呼ばれて目覚める、という経験。それが、こんなにも、世界を輝かせるものだなんて、私は知らなかった。
「おはようございます」と、私は心の中で返事をしようとして、はっと口ごもる。
いつもの癖で、「聖女様」と、続けてしまいそうになったのだ。
私の、ほんのわずかな戸惑い。それを、フィオーラは見逃さなかった。
『どうしたの、イリス? 私の名前、忘れちゃった?』
心を見透かすように、彼女が、くすくすと笑う。
私は、少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、意を決して、心の中で、彼女の名前を呼んだ。
(おはようございます、フィオーラ)
その響きは、まだ、少しだけ、ぎこちなかったけれど。
私の心からの精一杯の勇気だった。
私の、ぎこちない心からの挨拶。
それを受け取ったフィオーラは、満足そうに、満面の笑みを浮かべた。
『うん、おはよう、イリス!』
その日から、私たちの朝は、お互いの名前を呼び合うことから始まるようになった。
それは、世界で一番、短くて、そして、温かい祈りの言葉だった。
やがて、侍女が朝食を運んでくる。いつも通りの、味気ないスープと、硬いパン。
けれど、私たちのテーブルの上には、昨夜書き終えたばかりのレシピ本が、まだ開かれたまま置かれていた。
フィオーラは、宮殿のスープを一口すすると、小さく顔をしかめた。
『……やっぱり、宮殿の食事は美味しくないわ。昨日のパイは、あんなに美味しかったのに』
彼女の視線が、レシピ本の、新しいページへと注がれる。
そこには、私たちの新しい関係の始まりを記した、『フィオーラとイリスのパイ』の項目が、まだ真新しいインクで輝いていた。
それを見て、私たちは、どちらからともなく、顔を見合わせて、くすりと笑い合った。
たとえ、目の前の食事が味気なくても、私たちの心は、共有した冒険の味で、満たされていたから。




