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聖女編

「三百年後のパンケーキ」


歯車と蒸気の音が微かに響く、煉瓦と石造りの街並み。 かつて、私たちが守った王国の名は、もう、分厚い歴史書の中に記されるだけだ 。三百年という時は、英雄の物語をおとぎ話に変え、王城の威容さえも風化させるには十分だった。


フィオーラは、その都の片隅にある、古いアパートメントで、一人、静かに暮らしている 。 いくつもの名前を使い捨て、ただ、時の流れを窓から眺めるだけの、永遠の傍観者 。



愛した者たちは、皆、とうに土に還った。 あの、饒舌になった友人(軍師)も。あの、不器用で、忠実だった騎士も。あの、皮肉屋で、優しい情報屋も 。 私の心は、長い、長い年月を経て、穏やかな諦観に満たされていた 。寂しさというには、あまりにも時間が経ちすぎていた。


だが、今日だけは、違う。 年に一度、私が過去と向き合う日。


私は、鍵のかかった、古い木箱を開けた。中から取り出したのは、一冊の、革の表紙が擦り切れて、もう、ぼろぼろになった手帳 。 私たちの、レシピ本だ 。


私は、その、最後のページを開く 。 そこには、三百年前に記された、二人の少女の、拙い文字が、今も、色褪せずに残っていた 。


『パンケーキ。約束の味』 『感想:世界で一番、美味しい』


「……そうね。世界で、一番、美味しいのよね」 私は、一人、そう呟くと、キッチンに立った 。


三百年経っても、材料は変わらない。小麦粉と、卵と、牛乳と、蜂蜜 。 ボウルの中で、材料を混ぜ合わせる。泡立て器の、軽やかな音 。 鉄板の上で、生地が、ぷつぷつと、気泡を立てて、焼けていく。甘い、香りが、部屋中に満ちていった 。


目を閉じれば、今も、聞こえる気がした。「おなか、すいた、わ」あの日の、彼女の、少しだけ、かすれた、けれど、世界で一番、美しかった、最初の声 。



蘇る記憶は、あまりにも、鮮やかで、私の頬を、一筋の、温かいものが、伝った 。


焼きあがったパンケーキを、私は、二枚の皿に、丁寧に乗せた 。 一つは、私のために 。 そして、もう一つは、テーブルの向かい側、誰もいない席のために 。 私たちは、いつでも、二人で、一つだったから 。


私が、最初のパンケーキを、口に運ぼうとした、その時。


コンコン、と。アパートの、ドアをノックする、小さな音がした 。 ドアを開けると、そこに立っていたのは、隣の部屋に住む、人間の女の子だった。まだ、十歳にもならない、そばかすの、可愛らしい少女 。



「……あの、イリスお姉さん。すごく、いい匂いがするから……」 少女は、恥ずかしそうに、もじもじしている 。



私は、一瞬、驚いたが、すぐに、全てを、理解した 。 ああ、そうか。 こういうことだったのか、と 。



私は、満面の笑みを浮かべると、少女を手招きした 。 「えへへ、お邪魔します!」 元気よく部屋に入ってきた少女に、私は、テーブルの向かい側の席を、指し示した 。


「ちょうど、一人分、多く作りすぎてしまったの。よかったら、食べていかない?」 「いいの!? わーい!」 少女は、目を輝かせて、椅子に座ると、夢中になって、パンケーキを頬張り始めた 。


「おいしい! イリスさんの作るパンケーキ、世界で一番、美味しい!」


その、屈託のない笑顔。三百年前の、私の友人と、どこか、似ている、太陽のような笑顔 。 私は、自分のパンケーキに、そっと、ナイフを入れた 。 味は、もちろん、格別だった 。 三百年前と、何も変わらない、「約束の味」 。



思い出は、消えない 。 愛した者たちの魂は、こうして、巡り、受け継がれていく 。 そして、この温かくて、優しいレシピを、次の世代に、伝えていくこと 。 それこそが、一人、この世界に残された、私の、新しい役割なのだ 。


私は、幸せそうにパンケーキを食べる少女を見つめながら、三百年の時を超えて、ようやく、心の底から、微笑んだ 。


私の、新しい物語は、まだ、始まったばかりなのだ 。


 

ペンを置き、フィオーラはふう、と一つ息をついた。 窓の外では、穏やかな陽光が庭を照らしている。


書き上げたばかりの羊皮紙の束を、満足げに眺めていると、背後から、こつん、と軽い衝撃があった。


「……んー、やっと書き終わったんですか?」


聞き慣れた、少しだけ舌足らずな、けれど温かい声。 イリスが、フィオーラの肩越しに、羊皮紙を覗き込んでいた。その手には、湯気の立つハーブティーのカップが二つ。


「もう、夢中になっちゃって。お茶、冷めちゃいますよ?」 「あ、ありがとう、イリス」 フィオーラはカップを受け取ろうとしたが、イリスの視線が自分の書いた物語に向けられていることに気づき、顔を赤らめた。


「それで?」 イリスは、好奇心に満ちた瞳で、フィオーラが書いた物語の最後の行を指差した。 「今度は、どんな『美味しいもの』の話を書いてたんですか?」


「きゃっ!」 フィオーラは、慌てて羊皮紙の束を両手で抱え込み、イリスから隠すように背を向けた。 「な、なんでもないわよ! ちょっとした、空想の話! あなたには、まだ見せられません!」 「えー、なんでですかー? また私のこと、書いてたんでしょう?」 「ち、違うわよ!」


机の上には、飲み頃を過ぎて少し冷めたハーブティーのカップが二つ、仲良く並んでいた。 フィオーラの新しい物語の始まりは、どうやら、もう少しだけ先になりそうだった。


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