騎士1
騎士1
エピソード:騎士と情報屋と未来への種
その日、近衛騎士団長の執務室には、場違いな男がふんぞり返って座っていた。 煤けた革のジャケットに、挑むような鋭い瞳。ノアだ。 彼は、レイモンドが淹れた(お世辞にも美味いとは言えない)ハーブティーのカップを指で弄びながら、にやにやと笑っていた。
「で? 約束の『ブツ』は、ちゃんと用意できたんだろうな、団長サマ?」 「……貴様、もう少し言葉遣いをどうにかできんのか」 レイモンドは、眉間に皺を寄せながら、分厚い書類の束をノアの前に置いた。 「規則に則り、適正な手続きを踏んだまでだ。これは取引ではない。騎士団から市民への、正当な『払い下げ』だ」
書類の表題は『騎士団装備・備蓄食料の一部廃棄及び、市民団体への譲渡に関する稟議書』。 堅苦しい言葉が並んでいるが、その内容は、ノアがレイモンドに持ちかけた「取引」――騎士団で不要になった訓練用の武具(木剣や古盾)、毛布、そして保存期限の近い乾パンなどを、ノアが運営する貧民街の子供たちのための共同体(自警団のようなものと食堂を兼ねている)へ格安で譲渡する、というものだった。
「へっ、お堅いこった」 ノアは書類をひらひらさせながらも、その内容を素早く確認し、満足げに頷いた。 「ま、これでガキどもの冬支度と、腹の足しにはなる。……借り、一つ返しといてやるよ」 「借り、だと?」 「ああ。あんたがあの時、命張ってあのお嬢ちゃんたちを守ってくれなきゃ、今頃どうなってたか分からねぇからな」
あの大監獄での出来事。ノアの言葉には、普段の皮肉とは違う、素直な響きがあった。レイモンドは、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。 「俺は、騎士として当然のことをしたまでだ」 「そいつはどうも。……じゃ、俺はこれで」 ノアは書類を懐にしまうと、ひらりと立ち上がった。
「待て」 レイモンドが呼び止める。 「……その、子供たちは、元気にしているか?」 「ああ?……まあな。あんたらのおかげで、前よりはマシなモン食えてるし、読み書きも覚え始めた。感謝しとけよ、聖女サマたちによ」 ノアはそう言うと、今度こそ、軽やかな足取りで執務室を出ていった。
残されたレイモンドは、一つため息をつくと、窓の外に広がる王都の景色に目を向けた。 (……これで、良かったのだろうか) 規則を捻じ曲げたわけではない。だが、宰相閣下に知られれば、どう言い訳したものか。 それでも、あの情報屋の、そして彼が守ろうとしている子供たちの未来に、少しでも繋がるのなら。そう思う自分がいることも、レイモンドは否定できなかった。
*
その日の午後、ノアが運営する貧民街の食堂は、いつも以上の賑わいを見せていた。 厨房では、フィオーラが目を輝かせながら、ノアが工夫を凝らした「芋と豆のコロッケ・宮殿風ソース添え(?)」のレシピを熱心に書き留めている。
「へえ、隠し味に干しブドウを入れるのね! 面白いわ!」 「だろ? 甘みと酸味が、芋の素朴な味を引き立てんだよ」
その隣では、イリスが子供たちに囲まれていた。 「イリスおねえちゃん、これ、なあに?」 一人の小さな女の子が、イリスが持っていたハーブの束を指差す。 「……これはね、カモミール。お腹が痛いときに、お茶にすると、よくなるの」 イリスは、まだ少し辿々しいけれど、優しい声で説明する。彼女の「調和」の力は、言葉以上に子供たちの心を和ませ、安心感を与えていた。イリス自身も、この場所で、自分の力の新しい使い方を見つけ始めているようだった。
食堂の隅では、リサが数人の子供たちと一緒に、床に広げた大きな紙に絵を描いていた。 解放されたリサは、以前の引っ込み思案な面影はなく、明るく、好奇心旺盛な少女になっていた。 「見て見て、リサおねえちゃん! おっきなお城描いた!」 「わあ、上手! じゃあ、私はその隣に、パン屋さんを描こうかな」 子供たちの屈託のない笑顔に囲まれ、リサは心からの笑顔を見せていた。
そこへ、少し場違いな、しかしどこか見慣れた人影が現れた。 「……失礼する」 レイモンドだった。彼は、あくまで「視察」という体裁で、時折こうして食堂の様子を見に来るのだ。
子供たちが、一瞬、騎士団長の威圧感に身を固くする。だが、ノアが軽口を叩いた。 「よお、団長サマ。見回りご苦労さん。サボってないで、そこのジャガイモの皮でも剥いたらどうだ?」 「……俺は、職務中だ」 レイモンドはそう言いながらも、子供たちに恐る恐る近づいていく。
「き、騎士様……その剣、本物?」 一番年長の少年が、緊張しながら尋ねた。 「……ああ。だが、これは、国と、人々を守るためのものだ。決して、弱い者を傷つけるためのものではない」 レイモンドは、少しぎこちなく、しかし真摯に答える。
そのやり取りを見て、フィオーラとイリスは顔を見合わせて微笑んだ。 かつては決して交わることのなかった、宮殿と貧民街。騎士と情報屋。聖女と子供たち。 その間に、新しい、温かい繋がりが、確かに生まれ始めていた。
「レイモンド様、子供たちに剣の構え方、教えてあげて!」 フィオーラが無邪気に提案する。 「なっ……フィオーラ様、それは……!」 慌てるレイモンドの周りを、子供たちが「教えてー!」「かっこいいー!」と囃し立てる。
ノアは、その光景を壁にもたれて眺めながら、やれやれというように笑っていた。 だが、その瞳は、どこまでも優しかった。
夕暮れ時、食堂からの帰り道。 フィオーラとイリスは、満足げなリサの手を引きながら、レイモンドと並んで歩いていた。 「ノアも、なかなかやるわね。あんなに子供たちに慕われて」 「……ええ。あの場所は、未来への、大切な『種』ですね」 イリスが、静かに答える。
レイモンドは、黙って前を見据えている。 彼の心の中には、まだ、宰相への報告という現実的な問題が残っているだろう。 だが、今日の、あの子供たちの笑顔。それを守ることもまた、騎士としての、新しい「正義」なのかもしれないと、彼は感じ始めていた。
空には、一番星が輝き始めていた。 それは、まるで、この国に芽生え始めた、ささやかな、しかし確かな希望の光のように見えた。 フィオーラとイリスは、顔を見合わせ、再び微笑み合った。 物語はまだ終わらない。 彼らが蒔いた未来への種が、どんな花を咲かせるのか。それを見届けるための、新しい日常が、また、ここから始まるのだ。




