終章:私たちのための食卓
終章:私たちのための食卓
あの大監獄での長い夜から、一年が過ぎた。 かつて、私と偽りの聖女を隔てていた、あの冷たく、がらんとした祈りの間。その部屋は今、私たちの共有の私室となり、窓から差し込む柔らかな陽光と、イリスが世話をするたくさんの観葉植物の緑で満たされている。壁には、私たちがこっそり描いた、街の地図や食べ物のスケッチが飾られていた。
私は、窓辺に置かれた一鉢の若木に、そっと手をかざしていた。イリスから教わった「調和の魔法」の、ほんの触りの部分。まだうまくは使えないけれど、私の穏やかな心に呼応して、若木の枝葉が嬉しそうにかすかに震えるのを見るのは、新しい喜びだった。
「――お待たせ! 今日の朝食は、特別製よ!」
背後から、少しだけ舌足らずな、けれど明るい声がした。 振り返ると、エプロン姿のイリスが、お皿を二つ、盆に乗せて、得意げな顔で立っている。あの日以来、彼女は少しずつ、言葉を取り戻していた。まだ、完璧ではないけれど、その一つ一つの響きが、私にとっては宝物だった。
皿の上に乗っているのは、こんがりときつね色に焼かれた、分厚いパンケーキ。その上では、蜂蜜とバターがきらきらと輝いていた。
「どう? 私も、これくらいは焼けるようになったのよ」 イリスが言う。 「ええ、とても。美味しそう」 私は、微笑んで答えた。
私たちは、テーブルに向かい合って座る。 かつて、この部屋で、心を閉ざし、一人で食事をしていた、偽りの聖女と、沈黙の侍女は、もういない。 ここにいるのは、ただの、食いしん坊なエルフと、少しだけお喋りになった、その友人。 ただ、それだけ。
私たちは、顔を見合わせて、にっこりと笑う。 そして、目の前の、甘い幸福の象徴に、二人同時に、ナイフを入れた。 私たちの、新しい一日が、また、ここから始まる。
*
朝食を終えた私たちは、連れ立って、宮殿の廊下を歩いていた。 行き交う侍女や役人たちは、私たちに丁寧にお辞儀をするけれど、その目に以前のような畏敬や恐怖の色はない。ただ、少しだけ戸惑いと、好奇の色が混じっている。私たちは、この宮殿の中で、少しだけ浮いた、けれど確かに存在する「例外」となっていた。
「――おはようございます、フィオーラ様、イリス殿」
前方から、凛とした声がした。 声の主は、レイモンドだった。彼はあの日以来、近衛騎士団長の任に就き、宰相の命令通り、私たちの「監視役」を務めている。だが、その瞳に宿るのは、忠実な騎士としての光と、そして、私たちを見守る友としての、温かい光だった。
「本日の『お散歩』は、どちらへ?」 からかうような彼の言葉に、私はぷくりと頬を膨らませる。 「失礼ね! これは、この国の食文化の未来を担う、大事な調査研究なのよ!」
「……だ、そうです」とイリスが少し辿々しく付け加えると、彼は「それは失敬」と、楽しそうに笑った。 宰相との取引により、私たちは宮殿の外へ出ることを許されていた。ただし、それは常にレイモンドの(あるいは彼の部下の)監視付き、という条件で。窮屈ではあったけれど、あの鳥かごに比べれば、それは天国のような自由だった。
「宰相閣下からは、特に伝言は? 今日こそ、イリスの力を貸せ、なんて言ってこなかった?」 私が尋ねると、レイモンドは肩をすくめた。 「今のところは。閣下も、イリス殿の『調和』の力が、命令で簡単に引き出せるものではないと、ようやく理解され始めたようです。……もっとも、水面下で何を考えておられるかは、分かりませんが」
その言葉に、私たちは顔を見合わせる。 宰相との、危うい共存関係。それは、薄氷の上を歩くような、緊張感を常にはらんでいた。イリスの力が再び必要とされる日が、いつか来るのかもしれない。その日のために、私たちは、力を正しく使う術を学ばなければならなかった。
*
レイモンドに別れを告げ、私たちは、宮殿の正門をくぐった。 降り注ぐ、午後の、柔らかな陽光。 私たちは、もう、その光から、隠れる必要はない。
街は、活気に満ちていた。 市場の商人たちの、威勢のいい声。子供たちの、甲高い笑い声。 かつて、イリスを苛んだ不協和音は、彼女が力を制御する術を身につけるにつれ、少しずつ、世界の多様な音色として聞こえるようになってきていた。
すれ違う人々が、私たちに気づき、親しげに手を振る。 私たちは、もう、謎めいた聖女と、不気味な侍女ではない。 ただ、この街を愛する、二人の少女だった。
私たちの足は、自然と、あの場所へと向かっていた。 大通りから一本外れた、静かな小道。 にっこりと笑うパンの絵が描かれた、あの、小さなパン屋さん。
店の前では、あの日と同じように、腰の曲がったお婆さん、ローザが、穏やかな顔で、日向ぼっこをしていた。 彼女は、私たちの姿を見つけると、顔中の皺をさらに深くして、優しく微笑んだ。
「おや、お帰り」
その声には、もう、あの日のような戸惑いや拒絶の色はない。一年という歳月が、そして私たちがもたらした静かな変化が、彼女の心にも、真実を受け入れる場所を作ってくれていた。
「こんにちは、ローザさん」 私が挨拶する。 「……こんにちは」 イリスも、辿々しく挨拶をする。
「まあまあ、今日は三人かい?」 ローザの視線の先には、少し恥ずかしそうに、私たちの後ろに立っているリサがいた。 あの日以来、私たちはリサを本当の妹のように可愛がり、こうして時々、街へ連れ出していたのだ。
「さあさあ、お入り。今日は、とびきり美味しいパンが焼けてるよ」
私たちは、ローザに促され、懐かしい匂いのする店内へと足を踏み入れた。 ローザは、一番大きな丸パンを三等分すると、温かいミルクと一緒に、私たちの前に置いてくれた。
「……いただきます」 リサが、小さな声でそう言うと、焼きたてのパンを、大きな口で、ぱくりと頬張った。 途端に、彼女の顔が、ぱあっと輝く。 「……おいひい……!」
その、屈託のない笑顔。 それこそが、私たちが、あのささやかな「食べ歩き」を武器に、命がけで勝ち取ったものの、最も美しい形なのかもしれない。誰もが、役割に縛られず、ただ、美味しいものを美味しいと感じて笑い合える、そんな当たり前の未来。
ローザは、リサの頭を優しく撫でながら、私たちに目を細めた。 「あんたたちが、この国に、本当の『味』を教えてくれたんだよ」
*
その日の夜、私たちは、自室のテーブルで、一冊の手帳と向き合っていた。 私たちが「レシピ本」と呼んでいた、あの日からの、冒険の記録。 もう、そのページの大半は、私たちの記憶で、ぎっしりと埋め尽くされている。
最初の夜の、お婆さんのパン。 港町の、魚の串焼きと、宝物シチュー。 市場の、太陽の果実と、宝箱パイ。
エルフ(私)が書き記した、詩のような感想と、侍女が分析した、無骨な調理法。 その全てが、私たちの歩んできた、軌跡そのものだった。
私たちは、最後のページを開いた。 そこに記された、約束の味。
『パンケーキ。感想:世界で一番、美味しい』
私たちは、顔を見合わせる。 そして、どちらからともなく、くすくすと笑い出した。
偽物の聖女も、呪われた侍女もいない。 ただ、かけがえのない、私の友人が、最高の笑顔で、そこにいた。
私たちは、カップを、そっと持ち上げる。 私たちの、新しい物語の始まりを、祝うように。 この、世界で一番、温かい食卓で。 二人きりの、私たちのための、この食卓で。
物語は、まだ終わらない。 宰相の影、世界の不和、イリスの力の本当の意味。課題は山積みだ。 けれど、もう私たちは、一人じゃない。
隣にいる友と、この温かい食卓と、そして、未来への希望があれば。 私たちは、きっと、どんな困難も乗り越えていける。
そう、信じているから。
(終)




