第12章:調和のレシピ
第12章:調和のレシピ
貧民街から戻ったレイモンドの報告は、私の心を希望と、そして新たな決意で満たした。 ノアから得た情報は、私たちが想像していた以上に詳細で、確実なものだった。大監獄最下層の見取り図、警備の交代パターン、そしてイリスが囚われている独房の位置と、それを開けるための合鍵の隠し場所まで。
「今夜、決行します」 レイモンドは、低い声でそう告げた。 「潜入は、私一人で。フィオーラ様は、ここで待機を」
「嫌よ!』」私は即座に反論した。 「イリスの心を、開けるのは、私にしかできない。私も行くわ」
レイモンドは一瞬ためらったが、私の瞳に宿る、決して揺るがない決意を見て、静かに頷いた。 「……わかりました。ですが、危険が伴います。私の指示に、必ず従ってください」
「ええ、約束するわ」
私たちは顔を見合わせ、静かに頷き合う。 聖女と騎士ではない。ただ、一人の友人を救い出そうとする、二人の共犯者として。 私たちの最後の賭けが、始まろうとしていた。
俺たちの最後の賭けが始まろうとしていた。 俺はフィオーラ様に作戦の概要と、合図の方法を念入りに伝えた。 「……フィオーラ様。貴女様の声だけがイリス殿を救える。ですが万が一ということもある。もし私の身に何かあれば……必ず聖域からお逃げください」
「嫌よ! あなたを置いていくなんて!」 「これは命令です。貴女様が無事でなければイリス殿を救う意味がない」 俺の騎士としての、そして共犯者としての最後の願い。それにフィオーラ様は涙を堪え、強く頷いた。
俺は再び闇の中へと駆け出した。 今度はもう迷わない。恐怖もない。 ただ胸の内には成し遂げなければならないという、静かで、しかし燃えるような使命感だけがあった。
ノアから得た情報通り、大監獄へと続く裏口の扉は古びた木の板で粗雑に塞がれていた。かつて囚人の食料を運び込むために使われていた通路らしい。俺は短剣の柄頭で数回叩くと、案の定板は腐っており容易に破ることができた。
中は黴と鼠の糞の匂いが充満する狭い通路だった。ここから先はノアから渡された古い羊皮紙の地図だけが頼りだ。 地図によればこの通路は、最下層のちょうどバルタスが守る区画のすぐ脇へと繋がっているという。
俺は息を殺し闇の中を慎重に進んでいく。 ネズミが壁を引っ掻く音。どこかから滴り落ちる水の音。 その不気味な静寂の中で俺は、ただひたすらにあの光のない瞳を思い出していた。 イリス殿。 必ず助け出す。
俺は息を殺し闇の中を慎重に進んでいく。 ネズミが壁を引っ掻く音。どこかから滴り落ちる水の音。 その不気味な静寂の中で俺は、ただひたすらにあの光のない瞳を思い出していた。 イリス殿。 必ず助け出す。
古い地図に記された通り、通路はやがて行き止まりとなり目の前には湿った石壁だけが立ちはだかった。だが地図によれば、この壁の向こう側こそがバルタスが守る区画のはずだ。 俺は壁を注意深く調べ、わずかに色の違う石を見つけ出すと短剣の柄で軽く叩いた。 ゴトンと低い音が響き、石の一部が内側へと回転する。隠し通路だ。ノアの情報は正確だった。
「……ここね」 俺の後ろから、フィオーラ様の息遣いが聞こえる。彼女もまた、この息詰まるような闇の中で恐怖と戦っていた。 俺は彼女を先に促し、自らもその狭い隙間へと体を滑り込ませた。 石の扉が、背後で、音もなく閉じる。
通路の先は地図通り、バルタスがいるはずの廊下へと繋がっていた。俺は石の隙間から、そっと中の様子を窺う。 いた。バルタスが椅子に座り、壁にもたれて相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てている。 腰には、あの古びた鍵束。
問題は、どうやって彼を起こさずに鍵を手に入れるか。 あるいは、彼が一時的に持ち場を離れる瞬間をどう作り出すか。
俺は懐からノアから受け取ったもう一つの「道具」を取り出した。それは手のひらに収まるほどの小さな革袋。中には嗅いだことのない強烈な刺激臭を放つ粉末が入っていた。 ノアはこれを「眠り猫も飛び起きる、特製の目覚まし粉だ」と笑っていた。
(……これを使うしかないか)
危険な賭けだ。だが、他に確実な方法はない。 俺はフィオーラ様に目配せをし、覚悟を決めた。そして革袋の口を少しだけ開き、隠し通路の隙間からバルタスの顔めがけて、そっと息を吹きかけた。
俺はフィオーラ様に目配せをし覚悟を決めた。そして革袋の口を少しだけ開き、隠し通路の隙間からバルタスの顔めがけてそっと息を吹きかけた。 刺激臭を放つ粉末が闇の中を舞う。
「―――ぶぇっくしょい!!!」
バルタスの魂の底から絞り出したようなけたたましいくしゃみが静寂を切り裂いた。老兵は椅子から転げ落ち、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら激しく咳き込んでいる。
(まずい! 音が大きすぎた!)
俺は隠し通路から飛び出すと、まだ咳き込んでいるバルタスの口を再び布で塞ぎ床に押さえつけた。 「静かにしろ! 衛兵を呼ぶ気か!」 俺の低い声での恫喝に、老兵は必死に首を横に振る。
俺は布を離し、代わりに革袋に残っていた干し果実を全て彼の目の前にぶちまけた。 「……これは大神官様からの『追加』の心付けだ」 俺は彼の耳元で囁いた。 「今から俺はあの独房に入る。貴殿はここで静かに果実でも味わっているがいい。……10分だ。10分だけ何も見ず何も聞かずただここにいろ。そうすればこのことは誰にも知られることはない」
床に散らばった甘い果実と、俺の瞳に宿る有無を言わせぬ脅迫。バルタスは混乱した頭でようやく状況を理解したようだった。彼は震える手で果実を拾い集め、小さくしかし何度も頷いた。
俺は彼に背を向け、腰から奪った鍵束の中からあの古く重々しい鍵を再び選び出す。 そしてイリス殿が囚われている独房の冷たい鉄格子へと、その鍵を静かに差し込んだ。 今度こそ彼女を、この闇から連れ出すために。
俺は彼に背を向け、鍵束の中からあの古く重々しい鍵を再び選び出す。 そしてイリス殿が囚われている独房の冷たい鉄格子へと、その鍵を静かに差し込んだ。 今度こそ彼女を、この闇から連れ出すために。
ギシリと、重い金属音が闇の中に響き渡る。 鍵は開いた。 俺はゆっくりと鉄格子を開け、まずフィオーラ様を中へと促した。そして自らも、音もなく独房の中へと足を踏み入れる。
「イリス……!」 フィオーラ様のか細い声が、闇に響いた。
独房の隅。冷たい石の床に、イリス殿はうずくまっていた。 まるで、外界の全てを拒絶するかのように、膝の間に顔を埋め、小さく、小さく丸まっている。 その姿を見て、フィオーラ様の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
彼女は、震える足で、イリス殿へと歩み寄る。 そして、その冷たい肩に、そっと、手を触れた。
「イリス、私よ。フィオーラよ。迎えに来たわ」
その声に、イリス殿の体が、ぴくりと震えた。 彼女は、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。 その光のない瞳が、フィオーラの姿を捉えた瞬間、拒絶と、そして、どうしようもないほどの罪悪感の色に、歪んだ。
『……どうして』 か細い心の声が、私の頭にも、響いた。 『どうして、来てしまったの……。あなたは、ここにいてはいけないのに……』
その心の声は、拒絶だった。 私が、彼女のすべてを奪った「本物」の私を憎んでいるのだと、そう告げていた。 違う、そうじゃない、と叫びだしたい衝動に駆られる。だが、それよりも早く、イリスの心が、私に突き刺さった。あの日、私が彼女に投げつけた、残酷な言葉の刃だ。
『私が「本物」だから、あなたは私を……!』
イリスの肩が、激しく震える。罪悪感と自己嫌悪が、彼女の心を完全に鎖で縛り付けていた。 『違う!』私は、たまらず叫んでいた。 『違うの、イリス!』
扉の外で、レイモンドが息を呑む気配がした。彼は私たちの「心の声」こそ聞こえないものの、この独房を満たす、張り詰めた絶望の空気は感じ取っているはずだ。彼は、ただ黙って、私たちではない、通路の闇を睨み、警戒を続けてくれている。
私は、汚れた床に膝をつき、イリスの冷え切った両手を掴んだ。 『そうよ! 私は、あなたに嫉妬した!』イリスの体が、びくりと跳ねる。 『あなたが『本物』で、私が『偽物』だって知って、怖かった! 私が『聖女』じゃなくなったら、あなたはもう、私のそばにいてくれる理由がなくなるんじゃないかって……!』
涙が、後から後から溢れてくる。 「私は、ただ……ただ、あなたの『隣』を失うことだけが、怖かったの……!」
ごめんなさい、イリス。 ごめんなさい。
本物とか、偽物とか、そんなこと、本当に、心の底から、どうでもよかったのに。 私は、ただ……。
私は、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。 「私はただ、あなたと二人で、あのパンケーキが、食べたかっただけなのに……!」
その言葉に、イリスの光のない瞳が、ほんのわずかに、揺れた。 パンケーキ。 私たちが交わした、最初の約束。 私たちの、まだ白紙のままの、レシピ本。
私は、あの日の、最初の出会いを、必死に思い出す。 光もろくに届かない、鳥かごの終点 。 絶望の中でうずくまっていた私に、彼女がかけてくれた、あの言葉。
私は、震える唇で、精一杯の笑顔を作った。 そして、あの時とは、救う者と救われる者の立場を逆にして、私の、たった一人の共犯者に、私の、魂の声を、届けた。
『――お腹、すいてない?』
ーーーー
その声は、音の洪水だった。 牢獄の冷たい石壁を伝い、私を苛み続けていた衛兵たちの退屈な思考、他の囚人たちの絶望、そしてバルタスの間抜けな寝息――その全てのノイズを貫いて、たった一つの、澄み切った鈴のような音が、私の心に直接響いた。
あの日と、同じ言葉。 私を、このうるさいだけの世界から、初めて救い出してくれた、温かいスープのような響き。
顔を上げる。 目の前に、フィオーラがいた。 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で、それでも、必死に、私を見ていた。 彼女の心から、奔流のように感情が流れ込んでくる。
嫉妬。劣等感。罪悪感。 そして、その全てを飲み込むほどの、巨大な、たった一つの想い。
(……私を、失うことへの、恐怖……?)
嘘だ。 私が「本物」で、彼女が「偽物」だったのに。 私が、彼女の居場所を、彼女の役割を、彼女の人生を、奪ったのに。 なぜ。
『私はただ、あなたと二人で、あのパンケーキが、食べたかっただけなのに……!』
その、魂からの叫びが、私の心の最も硬い場所を、いともたやすく打ち砕いた。
ああ、そうか。 私も、彼女も、同じだったんだ。 聖女とか、本物とか、偽物とか、そんな役割が欲しかったんじゃない。 ただ、この世界で、たった一人でいい。 自分の心を、分かち合える「誰か」が、欲しかった。 ただ、それだけだったんだ。
「……う……ぁ……」
私の喉から、空気が漏れる、乾いた音がした。 トラウマに縛られ、固く閉ざしていた声帯が、震える。
彼女の温かい涙が、私の冷え切った手に落ちる。 その瞬間、私の内側で、何かが、決壊した。
今まで、私を苦しめてきた、呪い。 他人の感情を、ただ受け止めるだけだった、一方通行の濁流。 それが、今、逆流を始める。
私の中から、光が溢れ出した。 それは、魔獣を鎮めた時のような、制御不能な力の暴走ではない。 厳格で、冷たい、神官たちの魔力でもない。
ただ、どこまでも温かく、そして、優しい、慈愛に満ちた金色の光。
フィオーラとの食べ歩きで、私の中に蓄積された、温かい記憶。 お婆さんのパンの匂い。 港町のシチューの熱さ。 太陽の果実の、目もくらむような甘さ。 そして、今、目の前で私を想って泣いてくれている、たった一人の友人の、温もり。
私の呪いは、祝福へと変わる。 他人の痛みを「受け止める」だけでなく、自らの幸福を、相手に「流し返す」力。 痛みを共感するだけでなく、幸福を共感させる力。
これこそが、「調和の魔法」。
金色の光は、私とフィオーラを包み込み、そして、牢獄の壁を透過して、外へと溢れ出していく。 扉の外で、息を殺していたレイモンドの、張り詰めた緊張の糸が、ふ、と緩むのがわかった。 眠りこけていたバルタスの見る夢が、少しだけ、穏やかなものに変わるのがわかった。
「……フィ……オ……ラ……」
長い、長い沈黙を破り。 私が、この世界で初めて、自らの意志で、紡いだ、最初の言葉。 それは、長い間使われていなかったせいで、ひどく、かすれていたけれど。
「……おなか……すいた、わ……」
その言葉を聞いたフィオーラは、一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、そして、子供のように、わっと声を上げて、泣き出した。
私たちは、薄暗い牢獄の片隅で、ただ、抱き合って泣いた。 離れ離れになっていた、二つの心が、ようやく、もう一度、一つになった。
だが、その奇跡は、招かれざる客をも、呼び寄せてしまった。
同時刻、宮殿の最上階。大神官の私室。 マクシムは、瞑想用の椅子から弾かれたように立ち上がった。 「な……なんだ、この魔力は……!?」 彼の目の前にある、王都全域の魔力流動を示す水晶盤が、今まで見たこともない、強烈な金色の光を放っていた。 しかも、その発生源は、聖域である祈りの間ではない。
「……大監獄……だと……?」
水晶盤が示す座標は、彼が「穢れ」を隔離した、あの忌まわしき場所。 「あの小娘……! あの『魔女』めが……!」 大神官の顔が、怒りと、そして、自らの計算を超えた未知の力への、かすかな恐怖に歪んだ。 「聖堂騎士団! 聖堂騎士団を集めよ! いますぐ大監獄に向かうぞ!」
ウゥゥゥゥン―――!
イリスの光の奔流に応えるかのように、大監獄全体が、耳をつんざくような、甲高い警報音に包まれた。壁に埋め込まれた魔力感知石が、一斉に、血のような赤色へと明滅を始める。
「まずい! 宮殿に感知された!」 扉の外で、レイモンドが、忌々しげに舌打ちするのが聞こえた。 「フィオーラ様、イリス殿! 行くぞ!」
イリスが、私の手を強く握る。 私は、涙で濡れた顔のまま、力強く頷いた。
「立てる?」 『ええ』
イリスは、まだ少し、ふらついていた。だが、その瞳には、もう、あの絶望の闇はない。私と同じ、生きるための、強い光が宿っている。
私たちは、レイモンドの先導で、独房を飛び出した。 バルタスは、床に散らばった干し果実を前に、この世の終わりのような顔で、警報音に震えている。だが、もう彼に構っている暇はなかった。
「こちらだ! 例の隠し通路へ!」 レイモンドが、大監獄の薄暗い廊下を、私とイリスの手を引きながら疾走する。 あの隠し通路まで、あと少し―――
だが、私たちの希望は、その通路の入り口で、無慈悲に断ち切られた。
私たちが走り込んできた廊下の、その向こう側。最下層へと続く唯一の螺旋階段から、複数の、重い足音が、凄まじい勢いで駆け下りてくる。 そして、ついに、最後の敵が、私たちの前に姿を現した。
「―――大神官……!」
レイモンドが、息を呑み、私たちを背後にかばうようにして剣を構える。 階段の踊り場。そこを塞ぐように立っていたのは、あの大神官だった。
彼の顔には、もう、あの柔和な笑みはない。代わりに浮かんでいたのは、自らの計画を、そして、自らの信じる秩序を、土足で踏み荒らされたことへの、激しい怒りだった。
その両脇を固めるのは、大神官直属の、聖堂騎士の中でも、狂信的なまでに彼に忠誠を誓う者たちだ。 彼らの抜いた剣が、赤い警報の光を浴びて、不気味にきらめいている。
大神官の目は、もう、私のことなど、見ていなかった。 ただ、私の隣に立つ、友だけを。 今もなお、その身から、隠しきれない金色のオーラを放つイリスだけを、冷徹な分析の目で見据えている。まるで、予期せぬ性能を発揮し始めた貴重な動力源を見るかのように。
「……なるほど。予想以上の『出力』だ。やはり、これこそが真の『動力源』であったか」
吐き捨てるような、低い声が響いた。 彼の目は、イリスが放った「調和の光」を、脅威であると同時に、システムの根幹を成す力として認識していた。
「だが、理解できん。なぜ『集音装置』たるフィオーラ様が、その『動力源』を守るように立ちはだかる? システムにとって、それは致命的な誤作動だぞ!」
「違う!」 私は、たまらず叫んだ。 「イリスは私の「友人」よ! システムも、偽りの平和も、もういらないの!」
「黙りなさい、フィオーラ様!」 大神官が、初めて私を、鋭い声で制した。 「哀れな……。自らを『装置』と自覚できず、情に流されるとは。だが、もう案ずることはありませぬ。集音装置は代替可能。重要なのは、この『動力源』そのもの。これさえあれば、システムは再構築できる」
彼は、私利私欲で動いているのではない。 彼が信じる、歪んだ「正義」と「秩序」――すなわち、彼が作り上げ、維持してきた「システム」そのもののために、私たちを、本気で、排除するつもりなのだ。 彼は、その手に持った錫杖を、床に、強く突き立てた。
「もはや、問答は無用。反逆者レイモンド、そして誤作動を起こした『集音装置』は排除する。真の『動力源』は、システムのために確保せよ!」 「――かかれ!」
その号令を合図に、聖堂騎士たちが、一斉に剣を抜き放ち、私たちへと、襲いかかってきた。
大神官の冷徹な号令が、大監獄の冷たい石壁に反響する。 赤い警報の光の中、鋼鉄の鎧をまとった聖堂騎士たちが、殺意をむき出しにして、私たちへと襲いかかってきた。 その数、四人。いずれも、大神官直属の、熟練の騎士たちだ。
絶体絶命。 私の心臓が、恐怖に凍り付く。
その時、私たちの前に、一人の男が、立ちはだかった。
「――その行い、神ではなく、私欲にございますな、大神官」
騎士、レイモンドだった 。 彼は、たった一人で、大神官と、精鋭の騎士たちの前に、剣を構えて立っていた 。その背中は、かつての彼が演じていた「聖女の騎士」のそれではなく、ただ、守るべき者たちのために立つ、一人の人間の、覚悟に満ちていた。
「驚きましたな。聖女の騎士ともあろう者が、システムの『部品』を守るとは。正気か?」大神官が、嘲るように言った 。
「俺は、もはや、偽りの聖女の騎士ではない」レイモンドは、静かに、しかし、力強く、宣言した 。 「俺は、我が主君、エルフのフィオーラ様の騎士。そして、彼女が守ると誓った、その友人を、守る者だ!」
「……愚かな。部品に情を移した、不良品めが。ならば、その主君共々、ここで、反逆者として、朽ち果てるがいい!」大神官が、右手を、高く、振り上げた 。 「――やれ!」
命令と共に、聖堂騎士たちが、一斉に、レイモンドへと、襲いかかってきた 。 狭い通路で、火花が散る。 キィィン! という、金属がぶつかり合う、甲高い悲鳴 。
レイモンドは、多勢に無勢ながらも、必死に剣を受け止める。だが、相手は歴戦の騎士たちだ。すぐに体勢を崩され、壁際へと追い詰められていく。
(……レイモンド!)
私が、思わず声を上げそうになった、その時だった。
私の隣で、イリスが、一歩、前に出た 。 彼女は、私の前に立つと、向かってくる聖堂騎士たちを、まっすぐに見据えた 。 そして、ただ、静かに、目を閉じる 。
彼女から、再び、あの金色の光が、放たれた 。 だが、今度の光は、牢獄の扉を開けた時のような、穏やかなものではなかった 。 それは、光というより、波 。 目には見えない、温かい感情の波が、私たちのいる大監獄の最下層、その全てを、一瞬にして、満たしていく 。
「!?」
レイモンドに斬りかかろうとしていた聖堂騎士の動きが、ぴたり、と止まった 。 彼の振り上げた剣が、空中で、微動だにしない 。 彼の瞳は、目の前の敵ではなく、まるで、ありえないものを見たかのように、大きく見開かれていた 。
それは、彼だけではなかった 。 私たちに襲いかかろうとしていた、全ての聖堂騎士が、動きを止めていた 。 ある者は、その場に膝をつき 。 ある者は、自らの剣を、呆然と見つめている 。
彼らの心に、今、何が起きているのか。 イリスと繋がった私の心には、手に取るようにわかった 。
彼女の「調和の魔法」は、彼らの敵意を、強制的に、共感へと変えたのだ 。 彼らは今、感じている。
私たちが、どれほどの恐怖の中にいるのかを 。 レイモンドが、どれほどの覚悟で、ここに立っているのかを 。 そして、私が、どれほど、隣にいる友を、大切に想っているのかを 。
彼らが「動力源」「部品」と断罪しようとしていた少女の心の中にある、深い悲しみと、それでも、誰のことも傷つけたくないと願う、優しい祈りを 。
だが、その魔法の、真の奔流は、大神官、ただ一人へと、注がれていた 。
聖堂騎士たちの動きが止まる。 彼らの心に流れ込んだのは、恐怖、覚悟、友情――そして、彼らが「部品」と断罪しようとした少女の、あまりにも純粋な祈り。 だが、その黄金色の感情の奔流は、彼らを通り抜け、ただ一人、大神官マクシムへと、容赦なく注がれていた。
「ぐ……っ!?」
大神官の体が、見えない力に打たれたかのように、よろめいた。 彼の心に流れ込んだのは、私たちの感情だけではない。 イリスの「調 和」の力は、彼自身が、長年、正義という名の分厚い壁の奥に封じ込めていた、本当の心を、無理やり引きずり出したのだ。
―――燃え盛る故郷。 ―――瓦礫の下で、動かなくなった家族の、冷たい手。 ―――神に見捨てられたと、天を呪った、あの日の絶望。 ―――二度と、あんな悲劇を繰り返してはならない。たとえ、どんな嘘を重ねてでも、この手で、完璧な秩序を作り上げると誓った、若き日の、純粋な祈り。
そして、その祈りが、いつしか、恐怖と支配欲に歪んでしまった、醜い現実。 彼は、鏡を突きつけられたのだ。自らの、魂そのものに。
「あ……ああ……」
大神官の膝が、折れた。 錫杖が、カラン、と乾いた音を立てて床に転がる。 彼は、その場に、ずるずると崩れ落ちた。
その顔は、もはや怒りでもなく、憎しみでもない。 ただ、深い、深い、悲しみに歪んでいた。 失われた過去への執着。叶うはずのない「大戦前の景色」の復元。 その狂気的な願望の根源にあった、あまりにも人間的な、喪失の痛みが、今、むき出しにされていた。
「……なぜ……」 彼の唇から、か細い声が漏れた。 「……なぜ、邪魔をする……。儂はただ、この国を……悲劇から……守りたかっただけなのだ……」
その言葉は、私たちに向けられたものではない。 彼自身が、長年、自分に言い聞かせてきた、悲しい独白だった。
戦いは、終わった。 一滴の血も、流れることなく。 ただ、一つの、温かい光によって、全ての剣は、鞘へと、納められたのだ。
静寂が、戦場だったはずの地下牢を支配していた。 聖堂騎士たちは、剣を床に落とし、自らが加担した狂信の果てに立ち尽くしている。彼らの心は、イリスが流し込んだ共感の光によって、もはや戦意を失っていた。 膝をついた大神官は、まるで迷子のように、声を殺して泣き続けている。彼を長年支配してきた、大戦の亡霊。その呪いが、今、ようやく、解かれようとしていたのかもしれない。
張り詰めていた糸が切れ、私はその場に座り込みそうになる。だが、イリスが、そして駆け寄ってきたレイモンドが、私を支えてくれた。
「……終わった、のか……?」 レイモンドが、信じられないといった様子で呟く。
だが、本当の終わりは、まだ訪れていなかった。 静寂を破り、新たな足音が、階段の上から響いてきた。それは、聖堂騎士たちの重々しい鎧の音ではない。もっと軽く、統率の取れた、冷たい響き。
階段の踊り場に、新たな一団が姿を現した。 大神官の聖堂騎士ではない。宰相直属の、冷静沈着な近衛兵たちだった。そして、その中心には、感情の読めない鉄仮面を浮かべた、宰相オスカーその人がいた。
彼は、この異様な光景を一瞥すると、崩れ落ちた大神官、武器を捨てた聖堂騎士、そして私たち三人を、値踏みするように、ゆっくりと見渡した。彼の思考には、驚きも、怒りも、憐憫すらない。ただ、目の前の状況を分析し、最適な解を導き出そうとする、冷徹な計算だけがあった。
「――大神官様は、長年の心労が祟り、ご錯乱なされたようだ」
宰相は、抑揚のない声で、淡々と告げた。 まるで、最初から用意されていたかのような、完璧な幕引きの言葉。
「丁重に、お部屋までお連れしろ。聖堂騎士団も、持ち場へ戻れ。この件は、宰相である私が、預かる」
近衛兵たちが、音もなく動き出す。 抵抗する気力もない大神官は、両脇を抱えられ、まるで抜け殻のように引きずられていく。聖堂騎士たちも、命令に従い、悄然と階段を上っていった。
あっという間に、地下牢には、宰相と、数名の近衛兵、そして私たち三人だけが残された。
宰相は、崩れ落ちた大神官が連れ去られた方向を一瞥した後、その冷たい視線を、私たちへと向けた。特に、イリスへと。
「……なるほど。これが、報告にあった『動力源』の覚醒か。想定以上の出力だが、制御不能では意味がない」 彼は、イリスの放った「調和の魔法」を、単なる力の暴走として分析していた。
「フィオーラ様、イリス、そして騎士レイモンド。貴殿らは、この国の秩序を著しく乱した。本来であれば、反逆罪として処断されるべき事案だ」 彼の言葉には、何の感情もこもっていない。ただ、事実を述べているだけだ。
「ですが、状況が変わった」 宰相は、続ける。 「大神官マクシムは、もはや国政に関わることはない。そして、この国を覆う『システム』は、新たな局面を迎えた」
彼の視線が、再びイリスを捉える。 「この力……『調和』と言ったか。使い方によっては、国を安定させるための、より強力な『装置』となりうる。無論、厳重な管理下において、だが」
私は、彼の言葉に、背筋が凍るのを感じた。 大神官がいなくなっても、この男がいる限り、私たちは、また別の形の「部品」として、システムに組み込まれるだけなのかもしれない。
「宰相閣下」 レイモンドが、一歩前に出た。 「我々は、もはや、あなた方のシステムに従うつもりはない。フィオーラ様も、イリス殿も、自由だ」
宰相は、レイモンドの言葉を鼻で笑った。 「自由、だと? 騎士よ、感傷で国は治められん。この者たちの力が公になれば、どうなる? 国内は混乱し、諸外国は必ずや、この力を奪いに来るだろう。再び、大戦の悲劇が繰り返されるだけだ」
それは、冷徹な、しかし、否定できない現実だった。 イリスの力は、使い方を誤れば、世界を破滅させかねない、諸刃の剣なのだ。
宰相は、私たちに、一つの提案を持ち掛けた。 それは、取引であり、そして、脅迫でもあった。
宰相の言葉は、冷たい鉄の鎖のように、私たちの足元に絡みついた。 大神官という一つの脅威は去った。だが、目の前に立つこの男は、もっと厄介な存在かもしれない。彼は、感情ではなく、ただ冷徹な計算だけで動く。イリスの力を、利用価値のある「装置」としか見ていない 。
「取引、ですと?」 レイモンドが、警戒を解かずに問い返す。
「そうだ」 宰相は、こともなげに頷いた。 「この『動力源』――イリスの力は、使い方次第で、大神官が作り上げた旧式の『聖女システム』など比較にならぬほどの安定と繁栄を、この国にもたらすだろう。だが、それは諸刃の剣。制御できねば、国を滅ぼす災厄ともなる」
彼の視線が、イリスを射抜く。 「よって、提案しよう。イリス、君には、宮殿の管理下に入ってもらう。我々が、君の力の『正しい使い方』を指導し、管理する。そうすれば、国は安泰だ」
「そして、フィオーラ様、あなたには、引き続き『聖女』の役割を演じていただく。民衆の安定のためには、偶像が必要だ。無論、以前のような窮屈な生活ではない。ある程度の自由は保障しよう。騎士レイモンド、君には、彼女たちの監視役として、引き続き任についてもらう」
それは、巧妙に包装された、終身刑の宣告だった。 結局、私たちは、役割という名の檻から、逃れることはできないのか。
「……お断りします」
凛とした声が、静寂を破った。 声の主は、私だった。自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。
宰相の眉が、わずかに動く。 「……聞き間違いかな、フィオーラ様? これは、命令だ」
「いいえ」 私は、首を横に振った。 「私たちは、もう、あなた方の『部品』ではありません」 私は、隣に立つイリスの手を、強く握った。彼女もまた、怯えることなく、宰相をまっすぐに見つめ返している。
「イリスの力は、『動力源』なんかじゃない。ましてや、誰かに管理されるための『装置』でもないわ」 私は、イリスが放った、あの温かい光を思い出す。 「それは、人の心を繋ぎ、分かり合わせるための、希望の光です。力で無理やり平和を作るのではなく、皆が手を取り合えるように、助けるための力」
「綺麗事だな」 宰相が、冷ややかに吐き捨てる。 「理想だけでは、国は守れん。現実は、もっと残酷だ」
「いいえ」 今度は、イリスが、静かに口を開いた。 それは、まだ少しだけ、辿々しいけれど、確かな意志を持った、彼女自身の言葉だった。
「……本当の現実は、あなたが思っているよりも、もっと、温かいものだと、私は信じます」 彼女は、宰相の目を、まっすぐに見つめた。 「……私も、かつては、世界を呪っていました。聞こえすぎる他人の心が、ただ、うるさくて、怖かったから。でも、フィオーラが教えてくれた。美味しいものを一緒に食べる喜び。誰かのために、何かをしてあげたいと思う、温かい気持ち。……そういう、ささやかな幸せこそが、本当の『平和』なのだと」
イリスの言葉に、宰相は、何も答えなかった。 だが、彼の鉄仮面のような表情が、ほんのわずかに、揺らいだのを、私は見逃さなかった。彼にも、かつては、守りたい誰かがいたのかもしれない。失われた過去の温もりが、一瞬だけ、蘇ったのかもしれない。
「……ならば、どうするというのだ」 長い沈黙の後、宰相が、絞り出すように言った。 「その理想とやらで、この国を、どう守るつもりだ? 力に目が眩んだ者たちが、いつ、襲ってくるとも限らんのだぞ」
「話し合います」 イリスが、きっぱりと答えた。 「私の力は、相手の心を聞き、そして、こちらの心を伝えるためのもの。……時間はかかるかもしれません。でも、きっと、分かり合えると、信じています」
宰相は、深く、息を吐いた。 彼の、怜悧な計算機のような頭脳が、高速で回転しているのがわかった。 イリスの力の危険性。利用価値。そして、彼女たちの持つ、予測不能な「理想」という名の変数。
やがて、彼は、一つの結論に達したようだった。
「……よかろう」 意外な言葉に、私たちは息を呑んだ。 「ただし、条件がある」 宰相は、三つの指を立てた。
「一つ。君たちの存在と力は、当面の間、秘匿とする。公になれば、混乱は避けられん」 「二つ。力の行使は、国家の危機に関わる場合、及び、我々が要請した場合に限る。個人的な感情で、軽々しく使うことは許さん」 「三つ。騎士レイモンド、君が、引き続き、彼女たちの監視役兼連絡役を務めること。何かあれば、即座に私に報告せよ」
それは、完全な自由ではなかった。 だが、大神官が目指した「管理」とも違う。 ある種の、危ういバランスの上に立った、共存の道。
「……わかりました」 私は、イリスと、レイモンドの顔を見た。二人とも、静かに頷いている。 「その条件を、受け入れます」
宰相は、満足したのか、あるいは、諦めたのか、小さく頷くと、近衛兵たちに合図を送った。 「……我々は、戻る。後の処理は、レイモンド、君に一任する」 彼は、私たちに背を向けると、一度も振り返ることなく、階段を上り、闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、私たち三人だけだった。 警報の音は、いつの間にか止んでいた。 赤い光も消え、壁の魔力石は、再び、静かな青い光を取り戻している。
まるで、長い、長い悪夢から、ようやく覚めたかのようだった。
「……終わった、のね」 私が呟くと、イリスが、こくりと頷いた。 レイモンドが、安堵のため息をつき、壁に寄りかかる。
私たちは、顔を見合わせた。 そして、誰からともなく、笑い出した。 最初は、小さな笑い声だった。 だが、それは次第に大きくなり、大監獄の冷たい廊下に、いつまでも、いつまでも、響き渡った。
私たちの、本当に長い、長い夜が、ようやく、明けたのだ。




