第11章:聖女の騎士か、エルフの騎士か
第11章:聖女の騎士か、エルフの騎士か
俺、レイモンドは、自らの持ち場である聖域へと続く廊下に石像のように佇んでいた。 数時間前、この場所で起こったあの悪夢のような出来事。 それを俺は、脳裏から振り払うことができずにいた。
(……あれは、何だったのだ)
俺の信じていた「物語」は完璧だったはずだ。 清らかで無垢なる聖女様。 その聖女様を唆し堕落させようとする、邪悪なる魔女。 俺は聖女様を魔女からお守りする、忠実なる騎士。
だが、俺があの大監獄の最下層で見たものは。 その完璧な物語を根底から、粉々に打ち砕くものだった。
泥と埃にまみれ、牢獄の鉄格子に必死にしがみつく聖女様。 「魔女」に向かって叫んだ、あの理解不能な言葉。
(……パンケーキ?)
意味がわからない。 聖女様が魔女に、なぜあのような執着を。 あんな、まるでただの友人を失うかのような絶望を。
俺が信じてきた「聖女」と「魔女」という単純な二元論は崩壊した。 俺はただ信じたくない一つの現実を、突きつけられていた。 あの二人は俺の知らないところで、俺の物語の外側で、ただならぬ絆で結ばれた「共犯者」であったのだと。
俺の正義が足元から崩れていく。 俺は一体何を守ろうとしていたのか。 この空っぽの廊下で俺は、ただ答えの出ない問いに沈んでいた。
俺が自らの崩壊した物語の瓦礫の中で立ち尽くしていた、その時だった。
ギィ、と。 背後で、あの決して内側からは開くはずのない聖域の扉が、音を立てて開かれた。
「―――っ!」
俺は反射的に剣の柄に手をかけた。 何事だ。 あの中には先ほど騎士団によって、厳重に連れ戻された聖女様がいらっしゃるはず。
扉の隙間から現れたのは、確かに聖女様だった。 だが、その姿に俺は息を呑んだ。
そこに立っていたのは、俺が知る「聖女」ではなかった。 神秘的なヴェールも慈愛に満ちた微笑みも、何もまとっていない。 ただ、その美しい紫色の瞳に必死の、そして何かを覚悟したような強い光を宿した、一人のエルフの少女が立っていた。
彼女は俺をまっすぐに見据えると、震える現実の声で、はっきりと告げた。
「……騎士レイモンド」 「あなたに、頼みたいことがあります」
「イリスを……あの子を、助け出したい」 「力を、貸して」
「―――っ!」 俺は、絶句した。 何を、言っておられる。 今、この方は、自分が何を口にしたのかわかっておられるのか。
「聖女様!」 俺は、反射的に、その場に、膝をついた。 崩れ落ちそうな、自らの「物語」を、必死に、その、いつもの動作で、つなぎ止めるために。
「何を、仰せられるのですか! あいつは、貴女様を惑わせ、その清らかなる魂を汚した、「魔女」ですぞ!」 「この国に、厄災をもたらす、危険な存在です! それを、助け出すなど……そ、それは、反逆でございます!」
俺は必死だった。 必死に「聖女」と「魔女」という、正しい、あるべきはずの物語の配役を、彼女に思い出させようと。 頼むから言ってくれ。 「そうだった。私は、どうかしていた」と。
だが。 彼女は、俺の必死の叫びを、冷たい一言で打ち砕いた。
「……魔女?」
フィオーラは、まるで、世界で一番、愚かな言葉でも聞いたかのように、小さく、首を傾げた。
「あんな、優しい子が?」
そのあまりにも静かな問いかけ。 俺は言葉に詰まった。 優しい? あの不気味な物言わぬ魔女が?
フィオーラは俺のその動揺を見透かしたかのように、続けた。
「……あなた、見ていたでしょう?」
「え……」
「あなたがずっと私たちを見ていたこと。イリスは気づいていたわ」
心臓が大きく跳ねた。 気づかれていた?
「あなたが見ていた、『偶然』」 彼女は一歩俺に近づいた。その紫色の瞳が、俺の嘘を全て暴き立てる。
「厨房で慌てていたあの子。塩の壺を見つけられた、あの『偶然』」 「廊下で大臣が転ばなかった、あの『偶然』」 「書庫で梯子から人が落ちなかった、あの『偶然』」
俺の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。 そうだ、見ていた。 見ていて、そして俺は勘違いをしていた。 あの侍女が俺に気づいてほしくて、健気なアピールを……。
「あれは、全部、イリスよ」
「侍女たちの間で、あの子は『沈黙の福の神』様って呼ばれていたんですって」
フィオーラの声が震え、怒りとどうしようもない後悔の色に染まっていく。
「私だけが知らなかった。一番そばにいた私だけが!」 「あの子はあなたにアピールなんてしていなかった!」 「ただあの子のあの呪われた力が、苦しんでいる人の声を拾ってしまっただけ。ただ優しかっただけ!」
俺の足元が崩れていく。 俺の愚かな恋物語が、粉々に砕け散った。 俺はずっと間違っていたのだ。
「あの子は聖女のそばにいるから、自分が『本物』だから私を苦しめているんだって思い込んで……!」 「あの子はだから……!」
フィオーラの悲痛な叫び。 俺が信じてきた全ての「正義」が、今完全に反転した。
「イリスが、『魔女』として連れ去られた日。リサが泣きながら、私の部屋に来たわ」 「そして、私に、教えてくれたの。『イリス様は、魔女なんかじゃ、ありません』って」
フィオーラの瞳が、潤む。 「あの子が、他の侍女たちから聞いてきてくれたのよ。私たちが、何も知らなかった、あの子の、本当の姿を」
フィオーラの悲痛な叫び。 俺が信じてきた全ての「正義」が今、完全に反転した。
俺の足元が崩れていく。 俺の愚かな恋物語が粉々に砕け散った。 俺はずっと間違っていたのだ。
俺が守ろうとしていた「聖女」という美しき物語。 その物語は、イリスという本当に、か弱く心優しき少女を「魔女」として地下牢に幽閉することで成り立っていた。 俺は、その残酷な舞台装置の一部品に過ぎなかった。
そして今、目の前には。 その物語の中心に据えられた「偽物」であるはずの聖女が。 自らその役割を投げ捨ててでも、たった一人でその「本物」の友を救おうとしている。
どちらが本物の「正義」だ? どちらが俺の守るべき光だ?
「……聖女、様……」
俺の喉から絞り出した声はかすれていた。 俺はまだ彼女を「聖女様」としか呼べない。 俺はまだ、崩れ落ちた物語の瓦礫の中にいた。
俺のそのどうしようもない葛藤を見透かしたかのように。 フィオーラはふっと息を吐いた。 そして彼女は、俺がしがみついていた最後の拠り所を、自らの手で奪い去った。
「……『聖女』としての、命令ではありません」 「わたくしは、もう、聖女では、ありませんから」
「これは、私……」
彼女はそこで一度ためらった。 そして震える声で、俺が決して知るはずのなかった彼女の本当の「名前」を告げた。
「……フィオーラ...としての、たった一つの、お願いです」
レイモンドははっと顔を上げた。 彼が初めて聞く彼女の「名前」。 「聖女様」という役割ではなく、一人の個人としての響き。
彼は目の前の小さな震える少女を見つめた。 この人は「聖女」ではない。 「フィオーラ」という名の一人のエルフなのだ。 彼女は「偽物」だったのかもしれない。 けれど、その友を救おうとする「願い」だけは今、この世の何よりも「本物」だった。
レイモンドはゆっくりと深く、もう一度膝をついた。 だがそれはもはや、「聖女様」に対してではない。
「……御意のままに。フィオーラ様」
彼は初めて彼女を、システム(聖女)ではなく個として呼んだ。 フィオーラはイリスを失って以来初めて、安堵の涙を流した。 こうして彼女の二人目の「共犯者」が誕生したのだ。
俺の、誓いの言葉。 それにフィオーラ様は安堵の涙を流し、その場に崩れ落ちそうになるのを俺は慌てて支えた。 彼女の体は驚くほど軽く、そして冷たかった。この数日間、彼女がいかに追い詰められていたかが痛いほど伝わってくる。
「ありがとう……騎士レイモンド」 ようやく涙が止まった彼女が、か細い声で礼を言った。 「これで……イリスを……」
そうだ。感傷に浸っている場合ではない。 俺は誓いを立てたのだ。この方を、そして彼女が救おうとしているあの侍女を、守り抜くと。 俺はフィオーラ様の肩をしっかりと支え、改めて問うた。
「フィオーラ様。お気持ちはわかりました。ですがこれは、まごうことなき反逆行為。失敗は許されません」 俺は声を潜めた。 「イリス殿は、今、どこに?」
「……大監獄の、最下層」 フィオーラ様の顔が再び恐怖に歪む。 「私が……行った時は、一番奥の牢に……でも、騎士たちが……」
大監獄の最下層。 俺の背筋にも冷たいものが走った。そこは宮殿の中でも最も警備が厳重で、一度入れば二度と日の目を見ることはないと言われる場所。 聖堂騎士団の中でも、特に忠誠心の篤い者だけが、その守りを任されている。
「……無謀、か」 俺は思わず呟いた。 だが、目の前の少女の瞳に宿る、決して諦めない光を見て、その言葉を飲み込んだ。
やるしかないのだ。 俺が信じた、新しい「物語」のために。
やるしかないのだ。 俺が信じた新しい「物語」のために。 そして目の前の、か弱くも気高き少女のために。
俺はまずフィオーラ様を落ち着かせ、聖域へと戻るよう促した。この廊下で立ち話をしているのは危険すぎる。 「しかし……!」 「ご安心ください。必ず策を考えます。今は、何事もなかったかのように振る舞うのです。それが我々の最初の、そして最も重要な任務です」
フィオーラ様は、まだ納得がいかない様子だったが、俺の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、こくりと頷くと聖域の扉の向こうへと姿を消した。
一人残された廊下で、俺は改めて思考を巡らせる。 大監獄最下層。 そこは文字通り、宮殿の闇の最深部。聖堂騎士団の中でも大神官子飼いの、精鋭中の精鋭が守りを固めている。 正面突破は不可能。 秘密の通路? 宮殿の構造を知り尽くした俺でも、最下層へ通じる抜け道など聞いたことがない。
(……情報が、足りなすぎる)
警備の交代時間、内部の正確な構造、そして何より、イリス殿が具体的にどの独房に囚われているのか。 それらを知らずに動くのは、自殺行為に等しい。
(だが、誰に聞ける? この宮殿で、信用できる者など……)
俺の脳裏に、いくつかの顔が浮かび、そして消えた。 騎士団の同僚? いや、彼らは「聖女」の物語の住人だ。この反逆を理解できるはずがない。 侍女たち? 論外だ。
(……待てよ)
俺の思考が、一つの可能性に突き当たった。 情報。この宮殿で、最も多くの「裏」の情報が集まる場所。 それは……。
俺は顔を上げ、厨房へと続く薄暗い通路を睨みつけた。 危険な賭けだ。だが、他に道はない。 俺は決意を固めると、足音を忍ばせ、その闇の中へと歩を進めた。 イリス殿を救い出すための、最初の、そして最も重要な鍵を手に入れるために。
俺は決意を固めると足音を忍ばせ、厨房へと続く薄暗い通路へと歩を進めた。 イリス殿を救い出すための最初の、そして最も重要な鍵を手に入れるために。
深夜の厨房は本来、火の番をする下働きの者以外はいないはずだ。だが、この時間帯は違う。宮殿の裏側で働く者たちが一日の仕事を終え、賄いの残り物をつつきながら、あるいは安酒を酌み交わしながら、しばしの休息と情報交換に興じる、非公式な社交場と化す。 騎士である俺が、こんな時間に、こんな場所にいるのは、明らかに不自然だ。だが、今はそんなことを言っていられない。
通路の角を曲がり、厨房の入り口が見えた。案の定、大きな調理台の周りには、数人の下働きの男たちや、夜勤明けらしい侍女たちが集まり、ひそひそと何かを話し込んでいる。
俺は咳払いを一つして、わざと足音を立てて中へと入った。 「む?」 「……レイモンド様?」 彼らは、予期せぬ闖入者に驚き、一斉にこちらを見た。その顔には、警戒と、好奇の色が浮かんでいる。
「いや、少し、喉が渇いてな。水を一杯、もらえるか」 俺は、できるだけ、平静を装ってそう言った。 彼らは顔を見合わせ、戸惑っている。騎士がわざわざ厨房まで水を取りに来るなど、前代未聞だからだ。
「……は、はい。ただいま」 一番年嵩らしい男が、慌てて水差しを手に取る。 俺は、その男に近づきながら、何気ないふうを装って、本題を切り出した。
「それにしても、今宵は妙に騒がしかったな。何かあったのか? 大監獄の方で、警鐘が鳴ったようだが」 俺の言葉に、彼らの顔色が変わった。 やはり、何か知っている。 俺は、確信した。
「……さ、さあ……何のことやら……」 男は目を泳がせ、しどろもどろに答える。他の者たちも、気まずそうに顔を伏せてしまった。 隠している。間違いなく、何かを知っている。
俺はゆっくりと男から水を受け取ると、それを一口飲んだ。そして、わざとらしくため息をついてみせる。
「そうか。まあいい。だがな」 俺は声のトーンを落とし、彼らにしか聞こえない声で続けた。 「あの警鐘は、聖女様の聖域にまで響いていた。聖女様が、ひどく、お心を痛めておられる」
その一言で、彼らの間に動揺が走った。 彼らは宮殿の最下層で働く者たちだ。聖女様への信仰心は、騎士である俺たち以上に、純粋で、そして強い。
「そ、それは……!」 年嵩の男が、思わずといったように口を開いた。 「……大神官様より、箝口令が……。ですが、聖女様がお心を……」
男は葛藤するように顔を歪め、やがて意を決したように声を潜めた。
「……『魔女』が、捕らえられたのです。例の、聖女様付きの……」 「今、最下層の一番奥の、古い独房に、入れられております」 「警備は……交代制ですが、深夜の当直は、古株のバルタス殿が一人で……あの方は、少々、その……酒癖が悪くて……」
これだ。 俺が求めていた、情報。 俺は礼を言うと、何事もなかったかのように厨房を後にした。 闇の中へと戻る俺の心には、冷たい決意と、そして、かすかな希望の光が灯っていた。
これだ。 俺が求めていた情報。 俺は礼を言うと、何事もなかったかのように厨房を後にした。 闇の中へと戻る俺の心には、冷たい決意と、そしてかすかな希望の光が灯っていた。
一番奥の古い独房。 深夜の当直は、古株のバルタスが一人。 そして、そのバルタスは、酒癖が悪い。
(……使える)
俺の頭の中で、救出計画の骨子が急速に形作られていく。 正面突破が無理ならば、内部から崩すしかない。 あの酒好きの老兵を利用するのだ。
俺は自室へと戻り、騎士の制服を脱ぎ捨てた。そして戸棚の奥から、私服――宮殿の外へ出る時に使う、目立たない外套とズボンに着替える。 懐には数枚の銀貨と、そして兵舎の売店で手に入れておいた、保存用の干し果実をいくつか忍ばせた。これはバルタスへのささやかな「手土産」だ。口止め料も兼ねている。
さらに俺は武器庫へと向かい、通常の長剣ではなく鞘に収めた短剣を一本だけ腰に差した。これから行うのは騎士としての戦いではない。闇に紛れた密やかな潜入。
全ての準備を整え、俺は再び宮殿の地下へと続くあの冷たい階段へと向かった。 今度はもう迷いはない。 俺はもう、「聖女」の物語の登場人物ではない。 俺はフィオーラ様という一人の少女の、そして彼女が救おうとしているイリス殿という、もう一人の少女の、ただ一人の「騎士」なのだから。
俺は再び、宮殿の地下へと続くあの冷たい階段へと向かった。 今度はもう迷いはない。 昼間に一度、フィオーラ様が侵入した経路。だが今回は正面から行くしかない。
地下牢の入り口を守る聖堂騎士は、俺の顔を見ると訝しげな表情を浮かべた。当然だ。持ち場を離れているはずのない俺が、こんな時間に、しかも私服で現れたのだから。
「レイモンド殿? いったい、どうなさった」 「大神官様より、密命だ」 俺は声を潜め、懐から大神官の紋章が刻まれた(ように見える、ただの装飾用の)メダルを一瞬だけ見せた。 「『魔女』の監視体制に、不備がないか確認せよ、と。貴官らは持ち場を離れず、俺が単独で確認する」
聖堂騎士たちは顔を見合わせたが、大神官の名を出されれば逆らうことはできない。彼らは不承不承といった様子で、地下牢へと続く重い鉄の扉を開けた。
俺は足音を忍ばせ、螺旋階段を降りていく。上階の喧騒はもう届かない。ひやりとした空気が肌を刺す。 最下層。そこは宮殿の中でも最も古く、忘れ去られた場所。壁には松明が等間隔に灯されているが、その光は濃い闇に吸い込まれ、足元を照らすのがやっとだった。
長い廊下の突き当たり。一番奥にある、ひときわ頑丈な鉄格子の扉。厨房の男が言っていた独房だ。 そして、その扉の前には案の定、古株の衛兵バルタスが椅子に座り、壁にもたれてうつらうつらと舟を漕いでいた。 彼の傍らには空になった革袋。酒の匂いが、ここまで漂ってくる。
(……よし) 計画通りだ。 俺は息を殺し、バルタスの背後へと、音もなく回り込んだ。
俺は息を殺し、バルタスの背後へと音もなく回り込んだ。 そして、その肩を、軽く、しかし、鋭く叩く。
「ん……? んぅ……?」 バルタスは、うめき声と共に、ゆっくりと目を開けた。焦点の合わない、濁った瞳が、闇の中で俺の姿を捉え、ぎょっと見開かれる。 「ひっ……! だ、誰だ貴様は!」 慌てて椅子から立ち上がり、壁に掛けてあった古びた槍を掴もうとする。
「静かにしろ、バルタス殿」 俺は、低く、しかし、有無を言わせぬ響きで、そう命じた。俺の声に含まれた、騎士としての威圧感に、老兵は怯んだように動きを止める。 「俺は、大神官様の命を受け、極秘裏に、ここの警備状況を確かめに来た者だ」
俺は、懐から取り出した銀貨数枚と、干し果実を、彼の目の前に、ちらつかせてみせた。 「これは、大神官様からの、ささやかな心付けだ。今宵のことは、他言無用。……わかるな?」
銀貨の鈍い輝きと、甘い果実の匂い。バルタスの、濁った瞳に、一瞬だけ、卑しい光が宿った。彼は、ごくりと喉を鳴らし、震える手で、それらを受け取る。 「は、ははぁ……。も、もちろんでございますとも……」
「して、例の『魔女』の様子は?」 俺は、何気ないふうを装い、一番奥の独房を、顎で示した。 「大神官様は、ひどく、ご心配なさっておいでだ。逃げ出すような素振りはないか、と」
「へっ、あの小娘が、ですかい?」 バルタスは、銀貨を懐にしまい込みながら、嘲るように、鼻を鳴らした。 「牢に入れてから、ぴくりとも動きませんや。ただ、死んだように、うずくまってるだけでさ。ま、念のため、鍵だけは、厳重に、ここに……」
彼は、自らの腰に、じゃらりとぶら下げた、古びた鍵束を、叩いてみせた。 俺の、唇の端に、かすかな笑みが浮かんだ。 計画は、最終段階へと、移行する。
「ま、念のため、鍵だけは厳重に、ここに……」
バルタスが、自らの腰の鍵束を、得意げに叩いてみせた、その瞬間。 俺は動いた。 懐から取り出した、油を染み込ませた厚手の布で、背後から、音もなく、彼の口元を、強く、塞ぐ。
「んぐっ……!?」 老兵は、一瞬、暴れた。だが、長年の酒で鈍った体と、騎士である俺との体格差は、歴然としていた。 俺は、彼の体を、椅子ごと、壁へと静かに押し付けると、腰に手を伸ばし、目当ての鍵束を、素早く、しかし、慎重に、外した。
鍵は、手に入れた。 後は、この老兵を、どうするか。 気を失わせる? いや、それでは、交代の衛兵が来た時に、すぐに、騒ぎになる。
俺は、声を、さらに低く、彼の耳元で、囁いた。
「バルタス殿。これは、大神官様からの、さらなる、密命だ」 「貴殿には、今から、ここで、眠っていてもらう。朝まで、何も見ず、何も聞かず。そうすれば、さらなる褒賞が、約束されよう」 「……だが、もし、余計なことを、考えたり、口走ったりすれば……貴殿の、その、酒浸りの老後が、どうなるか。……わかるな?」
俺の、静かな、しかし、絶対的な脅し。 老兵の体から、抵抗の力が、完全に、抜けた。彼は、恐怖に、小さく、頷くことしかできない。
俺は、彼の口から布を離すと、彼を、再び、椅子へと、座らせた。そして、懐の干し果実の一つを、彼の口元へと、押し付ける。 「……これを、しゃぶっていれば、余計なことは、考えずに済むだろう」
バルタスは、まるで、条件反射のように、その甘い塊を、口に含んだ。 俺は、彼に背を向け、鍵束の中から、最も古く、重々しい、一本の鍵を選び出す。
そして、目の前の、冷たい鉄格子へと、その鍵を、差し込んだ。 ギシリ、と。 重い、金属音が、闇の中に、響き渡る。
イリス殿。 今、助けに行く。




