第10章:ただ、パンケーキが食べたかった
第10章:ただ、パンケーキが食べたかった
聖域から音が消えた。
イリスが連れ去られてから、どれほどの時が経っただろうか。 私、フィオーラは窓辺の椅子に座り、あの日イリスと出会う前の私がそうしていたように、ただぼんやりと虚空を見つめていた。
「物言わぬ人形」。 私は完璧に、それに戻っていた。
食事はリサが、怯えたような、けれど必死の優しさを浮かべた顔で毎日運んできてくれる。私はそれに一度も手をつけなかった。 空腹は感じなかった。 ただ、胸の真ん中にぽっかりと、あまりにも大きすぎる穴が空いていて。そこから冷たい風が、ひゅうひゅうと吹き抜けていくだけだった。
(……さよなら、私の、たった一人の、共犯者)
あの日のイリスの、最後の心の声。 あの全てを諦めたような、穏やかな微笑み。 それが私の脳裏に、何度も、何度も繰り返し再生される。
(私のせいだ)
私が「偽物」だったから。 私がイリスの優しさに甘え、「本物」の彼女に醜い嫉妬をぶつけたから。 私がリサを突き放したから。 私の弱さが、イリスを「魔女」にした。
(……でも、わからない)
私の死んだ心の片隅で。 たった一つだけ、どうしても解けない疑問が燻り続けていた。
(……あの大神官は、イリスが「本物」だと知っていたはず。なのに、どうして?) (どうして「本物」のイリスを「魔女」として牢獄に連れて行き、「偽物」の私をこうして玉座に残しておくの……?)
そのあまりにも不合理な矛盾。 その答えは、やがて檻の主自らが私の前に運んできた。
イリスが連れ去られてから三日目の昼下がり、その男は現れた。 扉が開き、大神官マクシムが、まるで主を失った小鳥を慈しむかのような、偽りの悲しみを浮かべた顔で部屋へと入ってきた。
「おお聖女様。なんという、おいたわしいお姿に……」
私は答えない。 ただ死んだ瞳で、彼を見つめ返した。 私の心に渦巻く、たった一つの疑問をぶつけるために。
(……どうして) 私の声にならない心の問い。 (イリスが「本物」だと知っていたのに。どうして私を、残したの)
大神官はまるで、私のその問いに答えるかのように、ゆっくりと首を横に振った。
「聖女様。貴女はまだ、何もご理解なさっていない」
彼は私に一歩近づいた。
「貴女は勘違いをしておられる。あの侍女は「本物」などではございません。あれはただの不安定な『部品』です」 「そして貴女もまた、かけがえのない『部品』なのです」
彼は窓辺に立つと、眼下に広がる平和な王都を指し示した。
「この『平和の魔法』とは、国民一人一人の『聖女様への祈り』という膨大な燃料によって稼働する、巨大な装置」 「そして貴女こそが、その国民の祈りを集めるために玉座に据えられた、最も重要な『集音装置』なのです」
「集音装置」と彼は言った。
『では、あの侍女は?』 大神官は初めて、心の底から満足げな冷たい笑みを浮かべた。
「あれは、貴女が集めた燃料を使い、国に満ちる不協和音を調律するための『動力源』ですよ」 「だが、あの動力源はトラウマを抱え、制御が利かない欠陥品だった。だから地下で適切に『管理』する必要があったのです」
「お分かりかな、聖女様。動力源は隠すことができる。だが、国民の祈りを集める美しい『顔』であり『集音装置』である貴女は、玉座にいなくてはならない」 「システムはこれで完璧に安定した。貴女は何も心配なさらず、これまで通りただ美しく、そこで祈っていてくださればよいのです」
大神官が満足げに部屋を去っていく。 扉が、無慈悲に閉ざされた。
私はその場に崩れ落ちた。 全身から力が抜けていく。 絶望が、私の最後のか細い希望さえも食い尽くしていった。
(……偽物ですらなかった……)
私はただの「部品」だったのだ。 イリスも「部品」。 私たちは友人でも共犯者でもなく、ただ大神官の巨大な装置を動かすためだけの歯車に過ぎなかった。 イリスが連れ去られたのも、私のためですらない。 ただシステムが不安定だったから。 ただ、それだけ。
(……意味が、ない)
何もかも無意味だ。 私がここにいる意味も。私が聖女である意味も。 私がイリスと出会ったことさえも。
私は床を這った。 もう何も考えたくなかった。 早くこの意識を終わらせてしまいたい。
その指先が、棚の一番奥、イリスが隠してくれていた一冊の古い手帳に触れた。
「……っ!」
私たちのレシピ本。
震える手でそれを引きずり出す。 ページを開く。 そこには私たちの拙い文字で、あの輝かしい冒険の記憶が溢れていた。
『お婆さんのスープ:心が温かくなる味』 『海の怪物の宝物シチュー:世界一の宝物の味』
ページをめくるたび、私の乾ききったはずの瞳から涙が溢れてシミを作っていく。 イリスの笑顔が蘇る。 イリスの心の声が聞こえる。
(……大神官は何もわかっていない)
彼は私を「集音装置」だと言った。 イリスを「動力源」だと言った。
(……ふざけないで)
私の心の奥底で、小さな小さな炎が灯った。
(聖女だって、偽物だって、部品だって、どうでもいい) (私は、ただ……)
私の脳裏に、イリスが前世の記憶だと嬉しそうに語っていた、まだ食べたことのない黄金色のお菓子の姿が浮かんだ。
(……私はただ、イリスとパンケーキが食べたかっただけなのに)
そのあまりにも純粋な「食欲」と「友情」。 それこそが私の何百年も生きてきた中で、初めて見つけた、たった一つの本物の「願い」だった。
嫉みも劣等感も罪悪感も、全てがその純粋な「願い」の前に消え去った。 フィオーラの瞳に、かつてないほど強く燃えるような光が宿った。
『待ってて、イリス。私が必ず助け出す』
彼女はイリスがいない今、初めて自らの意志で自らの力だけで立ち上がった。 軍師から教わった全ての知識を総動員して。 彼女はたった一人で、この聖域から脱出する計画を立て始める。
決意は、固まった。 だが、どうやって? イリスがいない、私一人で。 『イリスなら、どうする?』 私は、私の心に、問いかけた。
答えは、すぐに出た。 彼女は「軍師」だった。彼女が最初にするのは、いつだって、徹底的な「情報収集」と「分析」。
私には、イリスのように、衛兵の心の声を聞くことはできない。 けれど、私には「目」がある。そして、イリスと過ごした冒険の日々で、培われた「記憶」がある。 イリスは、私に、教えてくれていた。 『あの衛兵は、いつも交代時間の三分前に、持ち場を離れる癖があるわ』 『あの扉の鍵は、古いから、油を差していない。開ける時には、必ず、軋む音がするの』
私は、物言わぬ人形のふりをしながら、全てを、観察し始めた。 リサが食事を運んでくる、その背後。廊下を通過する、衛兵の足音の間隔。 鐘の音。扉の軋む音。遠くで聞こえる、誰かの話し声。 私の頭脳が、イリスの「耳」の代わりとなって、聖域の、完璧な地図と、タイムテーブルを、構築していく。
私は、レシピ本を広げた。 だが、私が見ていたのは、もう、料理のページではない。 その、裏表紙。 イリスが、いつか、「練習だから」と、退屈しのぎに、私にだけ、見せてくれた、この聖域の、完璧な、見取り図。 彼女が残してくれた、最高の「攻略本」だった。
計画は、決まった。 聖域の扉は、夜間、外から施錠されている。だが、見張りの衛兵は、交代で、仮眠所へと下がる。 その、わずか、五分の間。
私は、イリスが道具(金属の串)を使っていたのを、思い出していた。 私には、そんな技術はない。 ならば、どうするか。
私は、リサが運んできた、手つかずの食事を、使った。 真夜中の鐘が鳴り、衛兵の足音が、廊下を遠ざかっていく。 交代の衛兵が、階段を上がってくるまでの、わずかな間。
私は、銀の水差しを、力任せに、床へと叩きつけた。 ガッシャーン! 聖域中に、派手な、破壊音が、響き渡る。 すぐに、遠くから、複数の慌てた足音が、こちらへと向かってくるのが、わかった。
「聖女様!?」「何事だ!」
衛兵たちが、慌てて、鍵を開け、部屋へと、飛び込んでくる。 私は、寝台のカーテンの影に、息を殺して、潜んでいた。 衛兵たちが、部屋の奥で、割れた水差しを見て、狼狽している、その隙に。
私は、開け放たれた、扉から。 猫のように、静かに、廊下へと、滑り出した。
イリスのいない、初めての、たった一人の、脱走。 ぞくぞくするような、恐怖。 けれど、それ以上に、私の心を、燃え上がらせる、熱い、熱い、高揚感。
(待ってて、イリス)
あなたの、たった一人の共犯者が。 今、迎えに行く。
聖域の外は息が詰まるほどの静寂だった。 イリスがいない。その事実がこれほどまでに世界を恐ろしいものに変えてしまうなんて。 私にはイリスのように、衛兵たちの心の声を「聞く」ことはできない。 私が今頼れるのは、ただ一つ。 イリスが私に教えてくれた「記憶」だけ。
(……中央階段の衛兵は、鐘が鳴ってから五分後に必ず巡回ルートを外れる) (……西の渡り廊下は、月の光が柱の影を一番長く伸ばす場所)
イリスがいつか、退屈しのぎのゲームのように私に教えてくれた宮殿の攻略法。 その無駄話にさえ思えた一つ一つの知識が、今私の命綱となっていた。
私は影から影へと走った。 心臓が耳元で、うるさいくらいに鳴り響いている。 怖くて足がすくむ。 けれどそのたびに、イリスの最後のあの穏やかな微笑みを思い出す。 私が今立ち止まるわけにはいかない。
角を曲がった、その瞬間。 一人の侍女が私とは反対側から歩いてくる。 まずい。 私は咄嗟に、近くにあった甲冑の重い影へと身を滑り込ませた。 侍女は何も気づかない。 ただ私の数歩先を、通り過ぎていく。
(……イリス) 私は冷たい鉄の匂いの中で、初めて心の底から理解した。 あのうるさい世界の中で彼女が毎晩、どれほどの恐怖と緊張をたった一人で引き受けてくれていたのかを。 彼女が私を守ってくれていたように。 今度は私が、彼女を守る番だ。
私の目的地はわかっている。 イリスが「魔女」として連れ去られたのだ。行き先はただ一つ。 宮殿の地下深くに広がる大監獄。 その最下層。 かつて本物の「魔女」や「異端者」を幽閉したという、聖域とは正反対の不浄の場所。
地下へと続く階段の入り口。 そこは宮殿の他のどの場所よりも、厳重な警備が敷かれていた。 二人の屈強な聖堂騎士が、鉄の門番のように微動だにせず立っている。 イリスが教えてくれた、どんな「癖」も彼らには通用しそうにない。
(……どうする)
私は柱の影で息を殺し、考える。 イリスならどうする? 彼女ならきっと、彼らの「心」の隙を突いたはず。 私にはそれができない。 ならば、私にできるやり方で。
私は階段を引き返し、先ほどの甲冑が並ぶ大広間へと戻った。 そして、その一番端に置かれていた巨大な儀礼用の盾を、ためらうことなく床へと突き倒す。
ガッシャーン!
宮殿の静寂を切り裂く、凄まじい金属音。 すぐに遠くから、複数の慌てた足音がこちらへと向かってくる。
「何事だ!」「侵入者か!?」
案の定、地下牢の入り口を守っていたあの二人の聖堂騎士が、血相を変えて大広間へと駆け込んできた。 私は彼らが飛び出してきた、そのがら空きの入り口へと一目散に走った。 背後で騎士たちの怒声が聞こえる。
(ごめんなさい、イリス) (あなたのスマートなやり方とは程遠いけれど)
私は地下へと続く冷たい石の階段を、転がるように駆け下りていった。
(必ず、助け出すから)
地下へと続く階段は、螺旋状に、どこまでも、どこまでも、暗闇の底へと続いていた。 空気は、一歩、踏み出すごとに、冷たく、そして、湿ったものに変わっていく。宮殿の上階を満たしていた、焚かれた香の匂いとは、似ても似つかない。カビと、古い石と、そして、何百年もの間に、ここに、打ち捨てられてきた、人々の、絶望の匂い。
(……イリスは、こんな、暗くて、寒い場所に……)
私の心臓が、恐怖と、怒りで、きりきりと痛む。 私は、ドレスの裾が、汚れるのも構わず、手すりにしがみつきながら、冷たい石の階段を駆け下りていった。
やがて、階段は終わり、ひらけた場所へと、出た。 そこは、ぼんやりとした松明の光に照らされた、長い長い廊下だった。 廊下の、両脇には、分厚い、鉄格子のはまった、無数の、独房の扉が、まるで、墓標のように、並んでいる。
ここが、大監獄。 聖堂騎士団の、厳格な思考が、この、冷たい空気の中を、支配している。「魔女」を幽閉する、最下層。それは、きっと、このさらに、奥。
私は、息を殺し、壁の影に、身を潜めた。 遠く、廊下の曲がり角から、二人の衛兵の話し声が聞こえる。 イリスが、いない。 私には、彼らが何を考え、いつこちらを向くのか、わからない。 本当の、孤独。本当の、恐怖。
私はただ待った。 衛兵の足音が、遠ざかっていく、一瞬の隙を。 そして、彼らが角を曲がった瞬間。 私は、再び闇の中を駆け出した。 最下層へと続く、もう一つの、階段を探して。
階段はまるで、地の底へと続いているかのようだった。 湿った冷気が頬を撫でる。もう上階の人々の気配は一切感じられない。 聞こえるのは自分の荒い息遣いと、恐怖に早鐘を打つ心臓の音だけ。
やがて階段が終わり、目の前に一本の長い廊下が現れた。 上階の牢獄とは明らかに空気が違う。 等間隔に松明が焚かれてはいるが、その光はまるで分厚い闇に吸い込まれていくかのように頼りない。
ここが最下層。 「魔女」を幽閉するという忘れ去られた場所。
(……イリス)
私は壁伝いにゆっくりと進んだ。 恐怖で奥歯がカタカタと鳴る。 もしここにイリスがいなかったら? もしイリスが私に気づいてくれなかったら? 弱気な考えが次々と頭をよぎる。
その時だった。 廊下の一番奥。 他の独房とは明らかに違う、ひときわ頑丈で分厚い鉄格子の扉。 その小さな窓の向こう側に、私は、見慣れた黒い影が床にうずくまっているのを見つけた。
「……イリス!」
私は声にならない声で叫んだ。 そして鉄格子へと駆け寄った。
「イリス!」
私は冷たい鉄格子に両手を叩きつけた。 ガシャンと、牢獄の静寂を破る甲高い音が響き渡る。
「イリス、私よ! フィオーラよ! 迎えに来たわ!」
私の必死の呼びかけ。 それに、独房の隅でうずくまっていた黒い影がぴくりと震えた。 イリスがゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。
松明の頼りない光が、彼女の顔をぼんやりと照らし出した。 その顔を見て、私は息を呑んだ。 血の気は失せ頬はこけ、そしてあのいつも静かな光を宿していた瞳は、まるで燃え尽きた炭のように何の光も映してはいなかった。 彼女はただ生きて息をしているだけの、人形になってしまっていた。
「……どうして」
イリスの唇が、かさかさの音を立てて動いた。 それは私の心に届くテレパシーではない。 現実のひどくかすれた声だった。
「どうして来たのですか。聖女様」
その響き。 「フィオーラ」ではない。「聖女様」という冷たい壁。 私の心臓が、まるで氷のナイフで突き刺されたかのように痛んだ。
「帰ってください」
イリスはそう言うと、再び顔を伏せ膝の間にうずめてしまった。 明確な拒絶だった。
明確な拒絶だった。 私の心臓が、まるで氷のナイフで突き刺されたかのように痛んだ。 「帰ってください」 「聖女様」 その二つの言葉が、私とイリスの間に決して越えることのできない、深くて冷たい絶望の谷を作り出した。
「……ふざけないで!」 私は叫んだ。冷たい鉄格子をありったけの力で握りしめる。指の間に固い鉄の感触と、イリスの冷たい絶望が伝わってくる。
「何を言っているの! 『聖女様』ですって!? 私の名前を呼んで! イリス!」 私の必死の叫び。 それにイリスは、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げた。 その光のない瞳が、初めて私をまっすぐに捉えた。 そして今度ははっきりとした心の声が私の頭に響いた。
『……もう、やめましょう、フィオーラ』
その声は冷たかった。 『あなたは「偽物」だった。私は「本物」だった。私の存在があなたから、全てを奪ったの』 『私が、いなければ。あなたは本当の聖女様でいられた。リサを傷つけることもなかった』 『私が、いなくなったから。今、システムは安定している。あなたは玉座に戻れる。……それで、いいじゃない』
それは彼女がこの暗い牢獄の中で、たった一人たどり着いた歪んだ自己犠牲の答えだった。 彼女は私のためを思って? 私のために自ら、この闇を選んだというのか。
「……馬鹿、言わないで」
私の喉から、絞り出すような声が漏れた。 怒りと悲しみと、そしてどうしようもないほどの愛しさが、ぐちゃぐちゃになって込み上げてくる。
「あなたが本物? 私が偽物? ……そんなこと、どうでもいい!」 私は鉄格子に額を、強く打ち付けた。
「私が聖女に戻れる? 誰がそんなこと望んだの!?」 「私は、ただ……!」 「私はただ、あなたとパンケーキが、食べたかっただけなのに!」
私の魂の叫び。 聖女でもエルフでもない。 ただ一人の友人を失いたくないという、たった一つの本物の願い。 そのあまりにも場違いな叫びが、牢獄の冷たい静寂に響き渡った。
フィオーラの魂の叫び。 そのあまりにも場違いで、子供じみていて、それでいて何よりも本物の「願い」が、牢獄の冷たい静寂に響き渡った。
イリスはうずくまったまま、ゆっくりと顔を上げた。 その光を失っていたはずの瞳が、驚きと、そして理解できないものを見るかのように激しく揺れていた。
(……パンケーキ?)
(何を言っているの、この人は。私は「偽物」のあなたを苦しめた。私はあなたから全てを奪ったのに。あなたは今、私のためにここまで来て……パンケーキ、ですって?)
イリスの罪悪感と自己犠牲でがんじがらめになっていた心。 その堅い、堅い氷の壁に。 フィオーラのそのあまりにもまっすぐで、純粋すぎる「食欲」が、初めて小さな、小さな亀裂を入れた。
「……あなた、は……」 イリスのかすれた声が漏れた。 彼女が何かを言い返そうとした、まさにその瞬間。
ダンダンダン! 廊下の奥から、複数の重い足音と怒声が、一気に近づいてきた。
「こっちだ! あの忌々しい破壊音は!」 「侵入者だ! 聖女様が危ない!」
(……!) イリスの顔が、一瞬にして絶望に変わった。 (まずい、見つかる! あなたがここにいるのがバレたら!)
『フィオーラ、早く逃げて! 今すぐに!』 イリスの必死の心の叫び。
「いやよ!」 フィオーラは鉄格子を掴んだまま叫び返した。 「あなたを置いて逃げるくらいなら!」
「―――いたぞ!」
廊下の曲がり角から松明の眩しい光と共に、三人の聖堂騎士が姿を現した。 彼らは剣を抜き、殺気立った顔でこちらへと駆け込んでくる。 そして、その光の中に信じられないものを見たかのように、足を止めた。
「……せ、聖女、様?」
彼らの崇拝すべき聖女が。 その高貴なドレスを埃と泥にまみれさせ、あろうことか大監獄の最下層。 「魔女」が幽閉されている独房の鉄格子に、必死にしがみついている。
騎士たちはあまりの現実離れした光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
騎士たちはあまりの現実離れした光景に、ただ呆然と立ち尽くしていた。 崇拝すべき聖女様が、なぜこんな不浄の場所に?
その、ほんの一瞬の硬直。 その隙を、私は見逃さなかった。 イリスが私を守ってくれたように。 今度は私がイリスを守る番だ。
私は鉄格子を掴んだまま、騎士たちの方をゆっくりと振り返った。 そして私の何百年という人生の中で、初めて自らの意志で、「聖女」の仮面を完璧に被った。
「……何をしているのです」
私の声。 それは恐怖に震える、ただのエルフの声ではない。 全てを見下し、全てを支配する、絶対的な「聖女」の冷たい響きだった。
「ひっ……!」 騎士たちが、そのありえないほどの威圧感に怯んだ。
「この魔女がわたくしをここまで誘い込んだのです」 「その忌わしき力でわたくしの心を惑わせようと……!」 「早く! わたくしをこの不浄なる場所から聖域へとお返ししなさい!」
私の堂々とした嘘。 騎士たちはその迫力に完全に呑まれた。 「は、はい! ただちに!」 「魔女め、聖女様に何ということを……!」
騎士たちが私を「保護」するために駆け寄ってくる。 私は彼らにその身を任せる直前、もう一度だけ牢の中のイリスを見つめた。
イリスは顔を上げていた。 その光のなかった瞳に、ほんのわずかだが光が戻っていた。 私のあの突拍子もない「パンケーキ」の叫びと、今の必死の「嘘」。 その二つの本当の「願い」が、彼女の凍りついた心を確かに揺さぶっていた。
私は彼女にだけ、心でそっと告げた。 『待ってて、イリス』 『今のは嘘。必ず、必ず助けに来る』 『二人でパンケーキを食べるのよ』
騎士たちに腕を引かれ、聖域へと連れ戻されていく。 イリスの姿が暗闇の中へと遠ざかっていく。
私は無力だった。 たった一人では何もできなかった。 あの鉄格子を開けることも。彼女の手を取ることさえも。 私のたった一人の脱走は、こうして失敗に終わった。
だが私の心は折れてはいなかった。 むしろあの絶望の底で、より強く、硬く燃え盛っていた。
(……わかったわ、イリス) (私一人ではダメなのね) (ならば―――あなたのあの「騎士」を、私の共犯者にしてみせる)
私の本当の戦いは、今始まったばかりだった。




