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沈黙の侍女と空腹の聖女  作者: あかはる


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第2章 レシピのない逃走計画

私があなたに世界を教えてあげる、なんて豪語していたのはどこの誰だったか。どうやら私たちの役割は、とっくの昔に逆転してしまっているらしい。

そんなやり取りをしながら、人混みの中を進んでいた、その時だった。

乾いた、何かが擦れるような音が、真上から聞こえた。

それは、街の喧騒にかき消されてしまうほど小さな音。けれど、私の呪われた聴覚は、その音に含まれた明確な「悪意」の響きを、聞き逃さなかった。

咄嗟に、私はエルフの腕を力任せに引き寄せ、自分の体で庇うように強く抱きしめる。

ガシャン!

硬いものが砕ける、耳障りな音。私たちのすぐ足元、ほんの一歩先のエルフが立っていたはずの場所に、屋根から剥がれ落ちたらしい灰色の瓦が、粉々になって散らばっていた。



『わ、びっくりした……! 危なかったわね』

私の腕の中で、エルフが呑気な声を響かせる。まるで、道端の小石につまずいた程度の認識のようだ。

けれど、私の背筋には、真冬の夜風に晒されたような、冷たい汗が流れていた。

風は、吹いていなかった。屋根の上に、人影もなかった。まるで、建物そのものが悪意を持って、彼女を狙いすましたかのように……。これは、本当に、ただの偶然なのだろうか。

私の心に浮かんだ疑念を、彼女の次の言葉が、いともたやすく吹き飛ばす。

『ねえ、今度はあっちに行ってみましょうよ! 何か、すっごくいい匂いがする!』

エルフはもう瓦のことなどすっかり忘れ、次の興味の対象へと心を躍らせている。その鼻先は、くんくんと獲物を探す子犬のように、香ばしい香りのする方角を向いていた。

しかし、私の中では、先ほどまでの高揚感が急速に冷めていくのを感じた。この賑やかな大通りが、今はただ、無数の牙を隠し持った、危険な場所のように思えた。

彼女を守らなくては。安全な場所へ。

私は人混みを避け、慎重に裏路地へと彼女を導いた。この喧騒の中、私の能力は人の善意と悪意を敏感に感じ取ってしまう。だからこそわかる。どこが安全で、温かい場所なのか。

やがて、私の心の羅針盤が、一つの穏やかな心の光を捉えた。



やがて、賑やかな大通りから一本外れた、静かな小道にたどり着いた。その一角に、ひっそりと佇む一軒の店があった。

看板には、にっこりと笑うパンの絵が、拙いながらも温かいタッチで描かれている。窓から漏れるランプの明かりは、まるで母親が子供の帰りを待つかのように優しく、扉の隙間からは、焼き立ての小麦と、バターの溶ける甘い香りが、私たちの空腹をこれでもかと刺激してくる。

店主であろう、腰の曲がったお婆さんの、穏やかで、ひだまりのように温かい心の声が聞こえる。

ここなら、大丈夫。

『着きました。私たちの最初の食卓です』

私がそう心で伝えると、エルフはごくりと唾を飲み込み、期待に満ちた紫色の瞳で、その小さな店の扉を、まるで宝箱でも見るかのように見つめていた。



カラン、とドアベルが素朴な音を立てた。

店内は、外から見た通りこぢんまりとしていたが、大きな石窯の残り火でじんわりと温かい。壁の棚には、売り物であろう数種類のパンが並んでおり、その香ばしい匂いが部屋中に満ちていた。宮殿の冷たい大理石とは違う、木の床と温もりのある空間。

「あらあら、こんな夜更けに、どうしたんだい?」

カウンターの奥から、柔和な顔立ちのお婆さんが出てきた。私たちの汚れた旅装束を見ても、顔をしかめる素振りもない。ただ、その深い皺の刻まれた瞳が、迷子の小鳥でも見るかのように、心配そうに私たちを見つめている。

私の頭の中には、彼女の温かい心の声が、清らかな泉の水のように流れ込んでくる。

(おやまあ、可愛いお客さんだこと。こんなに冷え切って…… お腹を空かせているんだろうねぇ)

その声は、今まで私が聞いてきたどんなノイズとも全く違う、ひだまりのような優しさを持っていた。

エルフは私の後ろに隠れ、どうしていいかわからない様子で固まっている。私が口をきけないと察したのか、お婆さんは困ったように笑うと、優しく首を横に振った。

「まあ、いいさ。言葉なんていらない時もある。ちょうどスープが残ってるんだ。パンと一緒に食べていくだろう?」



お婆さんは、店の隅にある小さなテーブルに私たちを座らせると、すぐに湯気の立つ木の器を二つ運んできてくれた。ごろごろと野菜の入った、素朴な色のスープ。それから、棚から取り出した黒パンを無造作に厚切りにして、一切れの白いチーズを添えてくれる。宮殿では決して出てこない、生活の匂いがする食事だった。

エルフは、目の前の食事を信じられないといった様子で、ただじっと見つめている。

『……食べて、いいの?』

心細げな声が、私の頭に響く。私はこくりと頷き、まず自分がスプーンを手に取った。

スープを一口すする。野菜の優しい甘みと、岩塩だけの素朴な味付け。けれど、冷えた体には何よりのご馳走だった。

それを見て、エルフもおずおずとパンを手に取った。そして、小さな口で、ひとかじり。

次の瞬間、彼女の紫色の瞳が、驚きに大きく、大きく見開かれた。

挿絵(By みてみん)


『な……っ、なに、これ……!』

私の心に、衝撃を受けた声が、まるで雷のように鳴り響く。

『ただのパンなのに、温かい……! それに、噛めば噛むほど、小麦の甘い味がする! スープも、宮殿のものとは全然違う! いろんな野菜の味がして、複雑で、それでいて、すごく優しい……!』

彼女は夢中になって、パンをスープに浸しては頬張る。その一心不乱な食べっぷりは、聖女の威厳など微塵も感じさせない、ただの腹ペコの少女のものだった。

「ふふ、そんなに美味しいかい。たくさんお食べ」

私たちの様子を見ていたお婆さんは、店の隅から小さな椅子を引いてくると、テーブルの向かいに腰掛け、嬉しそうに目を細めている。その皺だらけの顔は、まるで久しぶりに孫に会えたかのような、純粋な喜びに満ちていた。



その、何の裏もない、ただ温かいだけの笑顔。

それを見たエルフは、スープに浸したパンを口に運ぼうとしたまま、ふと動きを止めた。そして、私の心にだけ、ぽつりと、呟きが届いた。

『……誰も、私のことを「聖女様」って見ないのね』

その声は、寂しさを帯びてはいなかった。むしろ、長い間背負ってきた、重い、重い荷物をようやく下ろすことができたかのような、深い安堵の色に染まっていた。

そうだ。ここは、国の安寧を祈るための、冷たくて神聖な祈りの間じゃない。

お腹を空かせた見ず知らずの子供に、温かいスープを差し出してくれる優しい人がいる、ただのパン屋だ。

崇拝も、畏敬も、期待もない。ただ、一人の空腹の少女として、ここにいることが許される場所。

エルフがずっと求めていたのは、きっとこういう時間だったのだ。



あっという間に器を空にした私たちを見て、お婆さんは満足げに頷いた。

私が代金を支払おうと、懐から用意していた銅貨を差し出すと、彼女は「代金なんていいよ」と皺だらけの手をひらひらと振って笑った。だが、私はその手に、無理やり銅貨を握らせる。

これは、施しではない。私たちは、対等な客として、この温かい時間と食事をいただいたのだから。それが、宮殿の外の世界の、ルールのはずだから。

私の意図を汲んでくれたのか、お婆さんは困ったように笑いながらも、その銅貨を受け取ってくれた。

店を出ようとすると、お婆さんは小さな紙袋を私に手渡した。中には、朝食用にと、まだほんのり温かい丸パンが二つ入っていた。

最後まで優しい心の声に見送られ、私たちは温かいパンの匂いと共に、再び夜の街へと踏み出したのだった。



パン屋の温かい光を背に、私たちは再び暗い夜道へと戻った。

来た時とは違い、私たちの間には満ち足りた沈黙が流れていた。エルフは私の隣で、紙袋に入った温かいパンを宝物のように抱え、少しだけ弾むような足取りで歩いている。その心から伝わってくるのは、子供のような興奮ではなく、もっと深く、じんわりと広がっていくような満足感だった。

『ねえ』

不意に、穏やかな声が私の心に届く。

『あのパン、私の長い、長い人生の中で、一番美味しいものだったわ』

その言葉には、一切の誇張がなかった。宮殿で出される、どんな高価な食材を使った料理よりも、あのお婆さんがくれた素朴なパンとスープが、彼女の世界を塗り替えてしまったのだ。

『誰かが私を見て、何も期待しないなんて、初めてだった。ただの、お腹を空かせた子供として見てくれた。それが、なんだか……くすぐったくて、嬉しかったの』

彼女の純粋な喜びが、清らかな泉のように私の心に流れ込んでくる。いつも私を苛むノイズの濁流を、その澄んだ流れが洗い清めてくれるようだった。



大通りに戻ると、先ほどまでの喧騒はだいぶ落ち着いていたが、まだいくつかの屋台が店じまいの準備をしていた。その時、私たちの鼻先を、バターと砂糖が焦げる、抗いがたいほど甘い香りがくすぐった。

香りの元に目をやると、そこは焼き菓子の専門の屋台だった。スープとパンをあれだけ食べたというのに、エルフの食欲は尽きることがないらしい。彼女は屋台の棚に並んだ、粉砂糖がかけられた三日月の形をしたお菓子に、すっかり心を奪われていた。

私は心の中で小さくため息をつきながらも、屋台の前に立つ。眠たそうにしていた人の良さそうな店主から、エルフが指差した菓子を一つ買い求め、小さな紙袋に入れてもらった。ずっしりとした、温かい重みが手に伝わる。

「ありがとうね。おやすみ、お嬢ちゃんたち」

店主の優しい声に見送られ、私たちは再び歩き出す。エルフは、私が持つ紙袋を宝物でも見るような目で見つめていた。

『私、忘れたくないわ』

彼女は立ち止まり、夜空を見上げた。

『今日のことを、全部。スープの味も、パンの匂いも、このお菓子の甘い香りも。ねえ、私たちの冒険を、どこかに書き記しておかない?』

それが、後に私たちの宝物となる「レシピ本」のアイデアが生まれた瞬間だった。

私は静かに頷く。

こうして、ささやかな共犯者二人は、温かいパンとお菓子の入った袋を手に、自分たちの居場所である、あの冷たい鳥かごへと続く道を再び歩き始めたのだった。



宮殿の敷地へと続く、薄暗い坂道。

街の喧騒はもう遠く、聞こえるのは自分たちの足音と、夜の虫の声だけ。私の心は、不思議なほどの静けさに包まれていた。彼女の満ち足りた幸福感が、まるで分厚い防音壁のように、私を世界のあらゆるノイズから守ってくれている。

高く、高くそびえる宮殿の壁が見えてきた。

数時間前まで、私の終の棲家に見えた絶望の象徴。けれど今は、違うものに見えた。あれは、私たちが還るべき場所。私たちの秘密を隠し、次の冒険を計画するための、二人だけの城だ。

行きに通った、あの監視役の騎士が立つ角が近づく。

私は自然と身構え、彼の心の声に意識を集中させた。行きずりの偶然か、あるいは意図的な黙認か。その真意を確かめるために。

彼の背中は、行きと寸分違わず、月を見上げている。

その心に耳を澄ませた瞬間、私は、はっきりとその声を聞いた。

(……お戻りになられたか。ご無事で、何よりだ)

その安堵に満ちた響きに、私は確信する。彼は敵ではない。

私たちのささやかな冒険を、意図的に見逃し、そして、その無事を祈ってくれていたのだ。

声には出さず、心の中でだけ、彼に向かって深く頭を下げた。このことは、まだエルフには黙っておこう。それは、彼女の軍師である私の、最初の切り札なのだから。



東の通用口の扉は、私たちが去った時と同じように、静かに開いた。眠りこけるハンス爺さんの横をすり抜け、私たちは無事に宮殿の内部へと帰還する。

光の届かない、がらんとした祈りの間。

エルフは名残惜しそうに古着のフードを脱ぐと、私からお菓子の入った紙袋を受け取り、宝物のようにそっと両手で包み込んだ。

『ふふ、明日の朝が楽しみね!』

彼女は上機嫌で鼻歌を歌うと、その紙袋を前室のテーブルの上に、ほとんど無造作にぽんと置いた。その無防備さに、私は少しだけ肝を冷やす。

だが、今は何も言うまい。

冷たい石造りの部屋の真ん中で、お婆さんがくれたパンと、街で買った焼き菓子だけが、確かな温もりと、世界の優しい味を放っている。

私たちの、レシピのない最初の逃走計画は、こうして静かに幕を下ろしたのだった。

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