第9章:魔女の烙印
第9章:魔女の烙印
あの禁書庫から戻って以来、私たちの聖域は墓所のような沈黙に支配されていた。
もうフィオーラの楽しげな心の声が、私の頭に響くことはない。 彼女は窓辺の椅子に座り、あの日禁書庫で真実を知る前の彼女がそうしていたように、ただぼんやりと虚空を見つめているだけだった。 だが、その内面は以前の「退屈」とは似ても似つかない、激しい嵐が吹き荒れていた。
嫉妬。劣等感。 そして何よりも、「偽物」の自分にはもう「本物」のイリスがそばにいてくれる理由がないのではないかという、彼女を失うことへの絶望的な恐怖。
そのあまりにも人間的で醜く、そして痛々しい感情の奔流が、私の心に絶え間なく流れ込んでくる。 私はどうすることもできず、ただその嵐に耐え続けていた。 真実を知ってしまった私たちは、もうあの日の無邪気な共犯者には戻れなかったのだ。
私は、朝の冷たい水で顔を洗い、どうにか、心の平静を装おうとした。 そして、いつものように、フィオーラの朝食が乗った盆を、テーブルへと運ぶ。
(……フィオーラ、朝食のお時間です)
私の、ぎこちない心からの呼びかけ。 それに、窓辺で虚空を見つめていたフィオーラの肩が、ぴくりと、小さく震えた。 彼女は、ゆっくりとこちらを振り返る。 美しい紫色の瞳。だがそこに宿っていたのは、もうかつての私への絶対の信頼の光ではなかった。 冷たい、冷たい、諦観と、私への、痛々しいほどの、嫉妬の色だった。
彼女の唇が震え、そして、あの日以来初めて、私に向かって心を開いた。
『……そうよね』
『「本物」のあなたには、私のこの惨めな気持ちなんて、わかるはずがないものね』
その、あまりにも残酷な響き。 私の心臓が、氷の手で鷲掴みにされたかのように痛んだ。 私は必死に言葉を紡ぎ出す。
『ごめんなさい、フィオーラ……。私は、そんなつもりじゃ……』
私の、罪悪感に満ちた謝罪。 だが、その言葉こそがフィオーラの、最後の理性の糸を、断ち切った。
『……! "そんなつもり"じゃない、ですって? やめて!』
彼女の、悲痛な心の叫びが、部屋の空気を、切り裂いた。
『あなたの、その優しさが! その、「本物」の余裕が、私を、もっと、惨めにするんじゃない!』
フィオーラは、テーブルに置かれた朝食には目もくれず、再び、窓の外へと顔を背けてしまった。 拒絶。 私の存在そのものが、今彼女を、深く、深く、傷つけている。 私は、ただその場で、立ち尽くすことしかできなかった。
そんな息の詰まるような冷たい沈黙の日々が、数日続いた。 私はフィオーラに必要最低限の心での呼びかけしかできず、彼女もまた私に応えることはなかった。
ある日の午後、扉を叩く控えめなノックの音がした。
(……聖女様、リサです。おやつの時間ですので、お茶をお持ちいたしました)
リサの純粋で何の疑いも持たない、優しい心の声。 その音は今のこの嘘と裏切りに満ちた聖域には、あまりにも不釣り合いに輝いて聞こえた。
私は返事をすることのできないフィオーラの代わりに、扉を開ける。 リサは銀の盆を手に、にこやかな笑顔で部屋へと入ってきた。 だが彼女はすぐに、部屋に漂う異常なまでの冷たい空気に気づいたようだった。
「……あの、聖女様?」
窓辺に座り人形のように虚空を見つめるフィオーラ。 そしてその隣で、まるで石になったかのように動かない私。 リサの心に、戸惑いと純粋な心配の色が浮かんだ。
「聖女様、近頃とてもお辛そうです……」
リサはお茶をテーブルに置くと、恐る恐るフィオーラのそばへと歩み寄った。
「わたくしに何かできることは、ありませんか……?」
そのあまりにも無垢な信仰心。 敬愛する「聖女様」をただ純粋に案じる、少女の優しさ。 だがその優しさこそが、今のフィオーラにとっては最も残酷な刃だった。
フィオーラはゆっくりとリサの方を向いた。 その瞳はもう、かつてリサに向けていた優しい光を宿してはいなかった。 そこにあったのは嫉妬と自己嫌悪で、ぐちゃぐちゃに歪んだ一人の哀れなエルフの姿。
リサのそのあまりにも純粋な信仰心。 「聖女様」と呼びかけ心からの心配を寄せるその無垢な姿は、今のフィオーラにとって鏡そのものだった。 こんなにも清らかな心で信じてくれている対象が、自分は「偽物」なのだという残酷な現実を、容赦なく突きつけてくる。 リサが優しければ優しいほど、フィオーラは自分の醜さと嘘に耐えられなかった。
(この子が本来仕える「聖女様」は、私じゃない。私の隣にいる、この「本物」なのよ……!)
フィオーラの悲痛な心の叫びは、私、イリスにだけ、突き刺さる。
『あなたには、わからないでしょ!』 『「本物」のあなたが、この「偽物」の私の、惨めな気持ちなんて!』
だが、フィオーラの苦しみは心の中だけでは収まらなかった。 抑えきれない自己嫌悪は、ついに現実の刃となって、最も向けてはならない相手へと突き刺さった。
「……もう、いい」
フィオーラの唇から、氷のように冷たい実際の声が漏れ出た。
「……え?」
リサの笑顔が凍りつく。
「わたくしのお世話など、もう、必要ありません」 「下がって」
それはリサが生まれて初めて聞く、敬愛する聖女様からの明確な拒絶の言葉だった。
「……っ!」 リサの大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。 彼女は、何が起こったのか理解できないまま深く、深く傷つき、震える声で「……申し訳、ございません」とだけ言うと、部屋を逃げるように飛び出していった。
(……私が、いなければいい)
イリスの心が、自己犠牲という名の重い諦念に完全に沈み切った、まさにその瞬間だった。 ドン、と。 部屋の扉が、許可もなく乱暴に開け放たれた。
「―――!」 驚きに顔を上げるフィオーラの前に、聖堂騎士団の重々しい鎧の姿。 そして、その中心に立つ大神官マクシムが、悲痛な、芝居がかった顔でゆっくりと入室してきた。彼のその手には、水晶を先端につけた、奇妙な儀礼用の杖が握られていた。
(……待っていたのだ。この瞬間を) イリスにはわかった。彼は、私たちの絆が完全に断絶したこの時を、待っていたのだ。
「やはり」 大神官は、杖の水晶を部屋全体に向けながら、厳かに告げた。 「この聖域に、強い邪気の淀みを感じた。聖女様のお心を乱す、不浄なる何かが、この部屋にある」
彼の視線、そして、水晶の杖が、ぴたりと、ある一点を指し示した。 それは、先ほどリサが運び、手つかずのままテーブルの上に残されていた、おやつの乗った銀のお盆だった。
「これか」 大神官が、杖の先で、そのお盆に触れる。 フィオーラの心に、リサの泣き顔と、混乱が浮かんだ。 『リサのお皿が……どうして……?』
「聖女様、お下がりください」 大神官は、芝居がかった仕草でフィオーラを下がらせると、杖の水晶を、銀のお盆に、さらに強く押し当てた。 「この地に溜まりし穢れよ。神の御名において、その姿を、現せ!」
彼がそう詠唱すると、水晶が、不気味な紫色の光を放ち始めた。 そして、何もないはずのお盆の上から、まるで燻るように、黒い靄が、ゆらりと立ち上ったのだ。 それは、大神官が密かに仕込んでいた、古い怨念の欠片だった。
「しまった! 封じられていたものが……!」 大神官が、わざとらしく叫ぶ。 黒い靄は、まるで生き物のように、この部屋で最も心の弱っていた者――フィオーラへと、その触手を伸ばした。
『きゃあああああっ!』 フィオーラの心から、絶叫が迸る。 怨念は、彼女の心の奥底に眠る、嫉妬、劣等感、そして、イリスへの愛憎の入り混じった、醜い感情を、無理やり、こじ開け、増幅させていく。
『やめて、やめて、見ないで! 私の、こんな、汚い心を!』
フィオーラの、狂乱した心の叫びが、イリスの頭の中に、濁流となって流れ込んできた。 そして、その、あまりにも強烈な、負の感情の奔流が、引き金となった。
イリスの頭の中で、何かが、ぷつり、と切れる音がした。 忘れようとしても忘れられなかった、あの日の記憶が、鮮明に蘇る。 荷馬車の暴走。骨が砕ける激痛。人々のパニック。そして、私を罵る、無数の声。
『化け物』『化け物』『化け物』!
「―――っ!」
イリスはこめかみを押さえ、その場にうずくまった。 痛い。気持ち悪い。頭が割れそうだ。 イリスの心の叫びと、フィオーラの絶望が、共鳴し、増幅し、そして、ついに、制御不能の力となって、現実世界へと、溢れ出した。
ガシャン! ビリビリッ! 部屋中の燭台が、カタカタと一斉に揺れ始め、壁のタペストリーが風もないのに不気味にはためく。 そして、ついに、聖域の、あの巨大な窓ガラスが、彼女たちの、耐えきれぬ心の叫びと共鳴するように、甲高い音を立てて、粉々に、砕け散った。
大神官は、その凄まじい光景を、満足げに、見つめていた。 彼が待っていたのは、この、決定的な「証拠」だったのだ。
彼は、砕け散った窓と、怨念に当てられて気を失いかけたフィオーラを指差し、聖堂騎士団に向かって、厳かに、宣言した。
「見よ! 聖女を唆し、その心を乱した魔女が、ついに、その本性を現した!」 「侍女イリスを、拘束せよ!」
聖堂騎士団が、重い足音を響かせ、イリスへと殺到する。 その冷たい鉄の腕が、彼女の細い肩を、乱暴に掴んだ。
「―――っ!」
その瞬間。 フィオーラの頭の中で、今まで嵐のように吹き荒れていた、嫉妬と、劣等感の黒い靄が、一瞬にして、吹き飛んだ。
(いや)
さっきまで、イリスを傷つけていた、醜い自分。 あれは、嘘だ。 イリスが「本物」だから、憎かったんじゃない。 イリスが「本物」だから、私なんかのそばから、いなくなってしまうのが、ただ、怖かっただけだ。
(いやだ)
失う。 今、ここで、本当に? 私が、この手で、彼女を、突き放したせいで?
(いやだ、とらないで!)
後に残ったのは、たった一つの、あまりにも、原始的で、純粋な感情。 私の、たった一人の、共犯者を。 私の、たった一人の、友人を。 この冷たい鉄の手が、私から奪っていく。
『―――やめてっ!』
怨念に当てられ、意識が朦朧としていたはずのフィオーラの心から、絶叫が迸った。
『その子に、触らないで!』
フィオーラの、魂の叫び。 それは、大神官の命令でも、騎士の忠誠心でもない、ただ、たった一人の友人を守りたいという、純粋な、生の感情だった。 その、あまりにも強烈な「意志」の光は、彼女の体を蝕んでいた、怨念の黒い靄を、一瞬にして、吹き飛ばした。
騎士たちが、怯んだように、足を止める。 大神官が、忌々しげに、眉をひそめた。
フィオーラは、ふらつく足で、立ち上がると、捕らえられたイリスの前に、立ちはだかった。 まるで、傷ついた雛を守る、親鳥のように、小さな、しかし、決して、屈しない姿で。
「……彼女は、魔女なんかじゃ、ないわ」
初めて、大神官の目を、まっすぐに見据え、フィオーラは、震える、現実の声で、告げた。
「彼女は、私の、侍女。私の、たった一人の……友人よ」
その、あまりにも気高く、そして、愚かな抵抗。 大神官は、その言葉を聞くと、ふっと、息を漏らした。 それは、笑いですらなかった。ただ、純粋な、憐れみ。 まるで、道理のわからない、幼い子供を、諭すかのような。
「……友人、でございますか」
大神官は、厳かに、杖を、床に、とん、と突いた。
「聖女様。貴女は、ご自分の、お立場を、忘れたか」 「貴女は、この国の、平和の象徴。その貴女が、あのような、得体の知れぬ力を持つ者を、庇い立てなさるか」
彼は、砕け散った窓ガラスを、杖の先で、指し示す。
「あれこそが、証拠。あれこそが、貴女の清らかなる魂を、汚染し、この国に、厄災をもたらす、魔女の力」
「いいですか、聖女様」
大神官は、一歩、フィオーラへと、歩み寄る。 その瞳には、もう、柔和なの面影は、微塵もなかった。 ただ、システムを管理する者の、冷徹な光だけが、宿っていた。
「貴女は鳥かごの中で、ただ美しく祈っておればよいのです」 「それ以外のことは、全て、この私が、取り除いて差し上げますから」
大神官の、その、あまりにも、冷徹な宣告。 それは、フィオーラの、か細い抵抗の意志を、システムという、絶対的な力で、粉々に打ち砕いた。
「な……」
フィオーラは、言葉を失い、その場に、立ち尽くす。 彼女の心に、本当の、どうしようもない、無力感が、押し寄せた。 この男には、勝てない。 この男が、この国の「ルール」そのものなのだから。
大神官はもう、フィオーラなど見てはいなかった。 彼は騎士たちに、冷たく命じる。
「何をしておる。魔女を連れて行け」
騎士たちが、今度こそためらうことなく、イリスの両腕を掴んだ。 イリスは、もう抵抗しなかった。 うつむいたまま、人形のように、なされるがままになっている。
『……これで、いい』イリスの心から、諦めと、そして、どこか、安堵したかのような、静かな声が、フィオーラにだけ、届いた。
『私が、いなくなれば、あなたは、もう、苦しまなくて、済むのだから』
「……っ、いや!」
フィオーラは、最後の力を振り絞り、手を伸ばした。 だが、その手は、もう、届かない。 イリスは、騎士たちに引きずられるように、聖域の扉へと、連れて行かれる。
扉が、開け放たれ、イリスの体が、その向こうの、暗い廊下へと、消えようとした、その瞬間。 イリスは、最後に一度だけ、フィオーラを振り返った。 その顔に、浮かんでいたのは、罪悪感でも、諦めでもない。 ただ、あの、初めて出会った日のような、穏やかで、優しい、微笑みだった。
そして、フィオーラの心に、最後の、ささやきが、届いた。
『……さよなら、私の、たった一人の、共犯者』
パタン。 重い扉が閉ざされた。 フィオーラの目の前から、光が消えた。
聖域には、砕け散った窓から吹き込む、冷たい風の音と、フィオーラの、声にならない絶叫だけが残された。 彼女は、生まれて初めて、本当の、本当の、孤独の底へと、突き落とされた。




