宰相1
「盤上の駒」
その日、宰相オスカーの執務室には、珍しい客人が招かれていた。 男の名は、エリオット・グレイ。隣国アルビオン王国から派遣された特使、というのが表向きの肩書だったが、オスカーはその男の真の顔を知っていた。アルビオンが誇る、最も有能で、最も危険な密偵の一人である。
「これはこれは、宰相閣下。本日はお時間をいただき、恐悦至極に存じます」 エリオットは、洗練された物腰で、完璧な笑みを浮かべていた。だが、その瞳の奥には、獲物を探る蛇のような冷たい光が宿っている。
「遠路ご苦労。して、アルビオンの『特使殿』が、この私に何の用かな?」 オスカーは、執務用の巨大なデスクに腰掛けたまま、表情一つ変えずに問いかけた。彼の執務室は、華美な装飾を排した、機能性だけを追求した空間だ。壁一面を埋め尽くす書棚には、法律や経済に関する書物が整然と並び、彼の思考そのものを体現しているようだった。
「単刀直入に申し上げましょう」 エリオットは、オスカーの冷淡な態度にも動じず、切り出した。 「我がアルビオン王国は、貴国との更なる友好関係を望んでおります。つきましては、両国の交易における関税の大幅な引き下げ、及び、我が国が開発した最新の魔導蒸気機関の技術供与を、ご提案させて頂きたい」
破格の条件だった。通常の外交交渉であれば、国中が沸き立つほどの申し出だ。 だが、オスカーは眉一つ動かさない。 「……見返りは?」
「はは、さすがは閣下。話が早くて助かります」 エリオットは、楽しそうに笑った。 「見返りは、ささやかな情報で結構。『平和の魔法』……貴国を護るという、その奇跡の魔法について、少しばかりご教示願いたいのです」
やはり、それが目的か。オスカーは内心で呟いた。 アルビオンは、我が国の力の源泉であり、最大の外交カードでもある『平和の魔法』の秘密を探ろうとしている 。この男は、そのために送り込まれた先兵だ。
「平和の魔法は、我が国の最高機密。軽々しく他国にお話しできるものではない」 オスカーは、淡々と答える。
「もちろん、承知しております。ですが、閣下」 エリオットは、身を乗り出した。 「その『魔法』、本当に盤石とお考えですか? 我々が掴んでいる情報によれば、近年、その力には陰りが見え始めているとか。維持には莫大なコストがかかり、国内の不満も高まっている……。いつ暴発してもおかしくない、危険な『装置』である、と」
探りを入れてきている。アルビオンの諜報網は、思った以上に深く食い込んでいるらしい。だが、核心には至っていない。オスカーは、エリオットの言葉から、彼らが掴んでいる情報の精度と限界を冷静に分析していた。
「あるいは、閣下。我々と手を組む、という選択肢もございますぞ?」 エリオットは、声を潜めた。 「貴国のその『不安定な装置』を、我が国の技術で『安定化』させるお手伝いができるかもしれません。無論、その暁には、相応の『配当』を頂戴いたしますが……。例えば、システムの中枢に関わる人物……『聖女』ご本人を、より安全な場所へお移しするとか」
聖女の簒奪、あるいは亡命の示唆。エリオットは、揺さぶりをかけてきているのだ。もし、オスカーがシステムや現体制に不満を抱いているなら、この提案に乗るかもしれない、と。
だが、オスカーにとって、聖女はただの「政治的装置」 。システムは「秩序を維持するための道具」 。そこに個人的な感情や忠誠心は、一切存在しない。あるのは、国益とパワーバランスの計算のみだ 。
「……面白い提案だ」 オスカーは、初めて、かすかに口の端を上げたように見えた。だが、その目は笑っていない。 「だが、アルビオンは、少し焦りすぎているようだ。『平和の魔法』を持つ我が国に対し、貴国がどれほどの脅威を感じているか、よくわかる」
「……と、仰いますと?」 エリオットの完璧な笑みが、わずかに引きつった。
「その『最新の魔導蒸気機関』とやら。我が国の諜報部によれば、実用化にはまだ程遠い、試作段階の代物だとか。むしろ、開発の遅れを取り戻すために、我が国の技術者を欲しがっている、と聞いているが?」 オスカーは、エリオットが切り札として提示した技術供与が、実はアルビオン側の弱みであることを見抜いていた。
「……!」 エリオットの表情から、余裕が消える。
「そして、『装置の安定化』。確かに、多少の調整は必要かもしれん。だが、それは、この国の内政問題だ。他国にとやかく言われる筋合いはない。……むしろ、貴国の密偵が、我が国の内部で嗅ぎまわっていることの方が、よほど『不安定要素』ではないかな?」 オスカーの言葉は、静かだったが、明確な脅迫の色を帯びていた。
「もし、貴殿のような有能な『特使殿』が、我が国のどこぞで、不慮の『事故』にでも遭われたら……それは、国際問題にはなるまい。むしろ、アルビオンが我が国に対し、敵対的な諜報活動を行っていたという、動かぬ証拠となりましょうな」
エリオットは、完全に沈黙した。目の前の男の、底知れない冷徹さを、ようやく理解したのだ。この男は、交渉相手ではない。ただ、利用するか、排除するか、その二択でしか物事を見ていない。
「……本日は、有意義な意見交換ができました、宰相閣下」 やがて、エリオットは立ち上がり、再び完璧な笑みを取り繕った。 「いただいた提案は、本国に持ち帰り、検討させていただきます」
「そうかね。良き返事を期待している」 オスカーは、席を立とうともせず、淡々と応じた。
エリオット・グレイが執務室を去った後、オスカーは、部下である諜報部の長官を呼びつけた。
「アルビオンの密偵、エリオット・グレイの監視レベルを上げろ。接触してきた我が国の役人も全てリストアップし、泳がせておけ」 「……よろしいのですか? 排除せずとも」
「ああ」 オスカーは、こともなげに頷いた。 「利用価値があるうちは、生かしておく。奴には、こちらが掴ませたい『情報』を、本国に持ち帰ってもらわねばならんからな。……それに」 彼は、窓の外、遠くに見える宮殿の尖塔――その奥に存在するであろう「システム」の核心――に目を向けた。
「あの男を泳がせておけば、いずれ、本当に『掃除』すべきネズミが、向こうから炙り出されてくるかもしれん」
彼の思考は、常に二手、三手先を読んでいる。感情に左右されず、ただ、国家という巨大な盤の上で、最も合理的で、最も効率的な一手を打ち続ける。 それが、宰相オスカーという男だった。彼の前では、他国の有能な密偵さえも、盤上の駒の一つに過ぎなかった 。




