第8章 空っぽの玉座
貧民街から戻った夜、私は自室の寝台でぐったりと意識を失っているイリスの寝顔を、ただ見つめていた。 彼女の顔は血の気を失い、まるで美しい石膏像のように静かだった。
私の心に後悔と、どうしようもないほどの無力感が、嵐のように吹き荒れる。 イリスは、私のために、自らの魂を削った。 なのに、私は、彼女が苦しんでいる間、ただ、その体を支えることしかできなかった。 私には、力がない。 聖女という名前だけの、空っぽの器。
(……力が、欲しい)
私は、生まれて初めて心の底から、そう願った。 イリスを守るための、力が。 彼女と、二人で、この嘘の世界に、立ち向かうための、本当の力が。
私は、夜明けの光が差し込む窓辺に立ち、固く、固く、拳を握りしめた。 その小さな手の中で、何かが、変わろうとしていた。 聖女という役割を担うだけの少女が、初めて、自らの意志を持った、その瞬間だった。
私たちの、本当の戦いは、今まさに始まろうとしていた。 そして、その目的地は決まった。 ノアという男が指し示した、嘘の中心。
王立古文書館――その最深部に位置する、禁書庫。
そこは宮殿という鳥かごの中に作られた、もう一つの鳥かご。歴史という名の亡霊を決して外に出さないための、厳重な檻だ。王族と、大神官のような一部の高位神官しか立ち入りを許されない、禁忌の領域 。
『……どうやって、入るの、イリス?』
フィオーラの心からの問いかけに、私はすぐには答えられなかった。
まずは敵を知らなければならない。私はそれからの数日間、祈りの間で目を閉じ、意識の全てを「聞く」ことに集中させた 。
私の精神は、宮殿中に張り巡らされた蜘蛛の巣となる。侍女たちの噂話も、衛兵たちの退屈な思考も、今は全て無視する。ただひたすらに、「古文書館」「禁書庫」「鍵」「警備」という言葉に思考が触れた者だけを、慎重に釣り上げていくのだ 。
―――古文書館の正門は、三名の聖堂騎士が常時警護している 。
――――禁書庫の扉は、魔力で封印された特殊な錠前が使われているらしい 。
―――大神官だけが、その錠前を開ける鍵を持っている 。
―――夜間の巡回は、一時間に一度。寸分の狂いもなく行われる 。
絶望的な情報ばかりが、私の頭の中に蓄積されていく。
正攻法での潜入は不可能。まるで、鉄壁の城塞だった。
私の心に、じりじりと、焦りが広がっていく。
焦りと無力感に苛まれる私に、フィオーラが心配そうに声をかけてくる。
『イリス、大丈夫?』
その心からの響きは、私のささくれ立った心を、優しく撫でた。
『何か、手伝えることはない?』
その言葉に、私は、はっとした。
そうだ。私は、一人で戦っているのではない。私の隣には、世界で一番、信頼できる共犯者がいるのだ。
私は、警備の厳重さという、堅固な壁ばかりを見ていた。けれど、どんな鉄壁の城にも、人間が作ったものである限り、必ず、どこかに、綻びがあるはずだ。
『フィオーラ』
私は、彼女の心に、問いかけた。
『どんな些細なことでもいい。思い出せることはないですか? 古文書館について、誰かが何か、話しているのを聞いたことは?』
私の問いかけに、フィオーラはしばらく記憶を探るように、美しい眉を寄せ、目を閉じていた。
そして、やがて、はっとしたように、顔を上げた。
『そういえば……』
彼女の心に、一つの、遠い記憶が、蘇る。
『昔、古文書館の埃っぽさに、侍女たちが不平を言っていたわ。でも、一番奥の部屋だけは、なぜかいつも空気が澄んでいて、涼しい風が入ってくると……』
涼しい風。
その言葉が、私の頭の中で、一つの、確かな可能性と、稲妻のように結びついた。
鉄壁の城塞に空いた、たった一つの、小さな孔。
私は、見つけたのだ。
私は興奮を抑え、見つけたばかりの、か細い希望の糸を、フィオーラの心へと慎重に届けた。
『フィオーラ、風です。涼しい風が入ってくる、ということは』
『……どこか、外と繋がる穴がある、っていうこと!?』
私の言葉の続きを、フィオーラが、瞬時に理解した。
そうだ。どんなに厳重な警備も、どんなに強力な魔法の錠前も、ただの「風の通り道」までは、警戒していないはずだ。
私はさらに意識を集中させ、古文書館の修繕を担当する、年老いた宮大工の思考を探り当てた。彼の心の奥底に眠る、宮殿の隅々まで知り尽くした、古い記憶の引き出しを、そっと開ける。
(……まったく、昔の作りは頑丈でいかん。禁書庫の北側にある通風孔の格子なんざ、もう何十年も、誰も触っておらん。錆びついて、開けることもできんだろうに……)
あった。
鉄壁の城塞に空いた、たった一つの、忘れ去られた抜け穴。
私は、ゆっくりと目を開けた。目の前には、心配そうに私を見つめるフィオーラの顔。
『私たちの、潜入経路が、見つかりました』
私の、静かな、しかし、確信に満ちた心からの宣言。
それに、フィオーラの瞳が、再び、冒険の始まりを告げる、輝かしい光を宿した。
私たちの、最も危険で、そして、最も重要な任務の、最初の糸口が、確かに、掴まれたのだ。
私たちの潜入経路は、ただ一本。天を突く中央塔の三階、禁書庫の北壁に設置された、古い通風孔。
だが、そこへ至る道は、決して床の上にはなかった。
『……屋根を、伝っていくの?』
フィオーラの心に、信じられないといった響きと、それ以上の、冒険への期待が混じる。
『ええ。それしかありません』
私は、心の中で描き上げた宮殿の立体図を彼女と共有する。聖域の塔の窓から、隣接する建物の屋根へ。そして、月光を遮る尖塔の影を縫うようにして、中央塔の壁面へ。それは、軽業師でも躊躇するような、危険な空中散歩だった。
計画は立った。だが、問題は山積みだった。まず、何十年も放置され、錆びついた格子戸を開けるための「道具」。
それからの数日間、私は宮殿の影で、ささやかな泥棒になった。厨房から、肉を捌くための丈夫な金属の串を一本。馬小屋から、古いが頑丈な麻の縄を。そして、衛兵の鎧を整備する部屋から、油の染みた布切れを一枚。これらが、私たちの唯一の武器だった。
潜入の決行は、三日後の夜と定めた。月のない、新月の夜だ。
そして、決行前夜。フィオーラは、聖女としての権威を、初めて、私たちの目的のために使った。彼女は侍女長を呼びつけると、毅然とした、しかし聖女らしい弱々しさを含んだ完璧な演技で、こう告げたのだ。
「近頃、どうにも、祈りの妨げとなる気配を感じます。今夜は、より深く、精神を集中させたい。夜明けまで、何人たりとも、この聖域に繋がる廊下に、立ち入らせないように」
絶対的な命令。彼女もまた、この危険な任務の、覚悟を決めた共犯者だった。
全ての準備が整った、その夜。
私たちは、夜の闇に溶け込むよう、侍女服を染め直した黒い服に着替えていた。床には、私たちのささやかな「道具」――金属の串、麻の縄、油布が、決戦を待つ武器のように、静かに並べられている。
部屋の静寂が、やけに重く感じられた。
『……少し、怖い』
ぽつりと、フィオーラの心が震えた。それは、これまでどんな冒険の前にも見せなかった、偽らざる恐怖の色をしていた。
私も、同じだった。指先が、氷のように冷たい。
『ええ、私も怖いわ』
私は、正直な気持ちを彼女に送る。
『でも、このまま、何も知らないまま、あの部屋で、ただ怯えて過ごす毎日に戻ることの方が、もっと怖い。私たちは、もう一人じゃない。一緒よ。何があっても』
私の言葉に、フィオーラは黙って頷いた。彼女の瞳に、再び強い光が灯る。
私たちは、もう引き返せない。
やがて、宮殿に真夜中を告げる鐘の音が、重く、重く、響き渡った。
私は縄と道具を体に巻き付け、窓の鍵に、そっと手をかけた。
部屋の外に一歩踏み出した瞬間、夜の冷気が、肌を突き刺すように私たちを迎えた。
眼下に広がるのは、吸い込まれそうなほどの闇。聖域の塔の窓枠に立った私たちの足は、恐怖ですくみそうになる。
『……本当に、行くのね』
フィオーラの震える心が、私に伝わってくる。
『ええ』
私は短く応じると、先に窓枠を乗り越え、すぐ下の屋根へと音もなく降り立った。そして、手を伸ばして、彼女が続くのを助ける。
私たちの、月明かりだけを頼りにした、危険な空中散歩が、今、始まった。
屋根瓦は、夜露に濡れて滑りやすくなっている。私たちは、猫のように四つん這いになりながら、慎重に棟の影を進んでいった。
フィオーラは、慣れない体勢と、足がすくむような高さへの恐怖で、何度も瓦を滑らせそうになる。そのたびに、私は彼女の手を強く握り、無言で励ました。
私の意識は、常に、眼下に広がる宮殿の庭へと向けられていた。そこにいる、衛兵たちの思考を探るために。
(……今夜は冷えるな。早く交代の時間にならんものか)
(……ん? 何か、物音がしたか? いや、風の音か……)
その思考を拾った瞬間、私はフィオーラの体をぐっと押さえつけ、近くにあった煙突の影に、ぴったりと身を潜めた。心臓が、早鐘のように鳴り響く。
眼下の庭を巡回していた衛兵が、怪訝そうに、私たちがいる屋根の上を、見上げた。
永遠のように長い、数秒。
やがて、彼は興味を失ったように、再び巡回に戻っていく。
安堵の息を漏らす暇もなく、私たちは、再び、移動を開始した。
恐怖と緊張で、体中の感覚が麻痺しそうだ。だが、私の心は不思議と冷静だった。隣に、同じ恐怖を分かち合う友がいる。その事実だけが、私を支えていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
恐怖と緊張で研ぎ澄まされた感覚の中では、時間の流れさえもが歪んで感じられた。
やがて、私たちの目の前に目的地である中央塔の巨大な石壁が立ちはだかった。
他の建物とは一線を画す、無骨で威圧的なまでの存在感。ここがこの宮殿の「記憶」が眠る場所なのだと、壁そのものが物語っているようだった。
そして見上げるほどの高さの壁面に、それはあった。
月明かりに赤黒い錆の色が不気味に浮かび上がる、古びた鉄格子の通風孔。
何十年も誰にも触れられることなく忘れ去られていた、宮殿の小さな綻び。
私たちのたった一つの入り口。
私たちは息を整え、その壁と、そして遥か頭上にある目標を見上げた。
第一関門は突破した。
だが、本当の戦いはここから始まるのだ。
通風孔は、私たちの頭上、手を伸ばしても到底届かない高さにあった。
私は体に巻き付けていた縄を解き、その先端に結わえた金属の串を見つめる。これを、格子の上にある窓枠の僅かな突起に引っ掛けなければならない。
一投目。金属が石壁に当たり、乾いた音を立てて落ちる。静寂の中で、その音は心臓に突き刺さるほど大きく響いた。
二投目。また失敗。焦りが、手のひらにじっとりと汗を滲ませる。衛兵の交代時間が、刻一刻と近づいてくる。
『……貸して』
私の心に、フィオーラの静かな声が響いた。
彼女は縄を受け取ると、一度、二度、小さく回転させる。そして、まるで踊るような、しなやかな動きで、空へと放った。
カツン、と小さな音を立てて、金属の串は、寸分の狂いもなく、目標の突起に引っかかった。
私が驚いて彼女を見ると、彼女は『昔、リボンを投げて遊んだことがあるの。それと似てるわ』と、少しだけ得意げに心で笑った。
私は先に、縄をよじ登る。聖女の繊細な指では登れないだろうと思ったが、フィオーラは歯を食いしばり、必死の形相で私の後に続いた。
三階の壁面に設けられた、二人並ぶのがやっとの狭い足場。私たちは、ようやくそこにたどり着いた。
最後の難関、錆びついた鉄格子が、目の前で、不気味に口を開けていた。
私は懐から油布を取り出し、錠前と蝶番に念入りに油を染み込ませていく。そして、もう一本の金属の串を、鍵穴へと慎重に差し込んだ。
中の錆びついた部品を、一つ、また一つと、探り当てるように動かしていく。
じりじりと、時間だけが過ぎていく。焦りと緊張で、指先の感覚がなくなっていく。
(……ダメか)
諦めかけた、その時。
カチリ、と。今までで一番確かな手応えが、金属の串を通して私の指に伝わった。
私は渾身の力を込めて、格子を引いた。
―――ギィイイッ!
静寂を切り裂いて、鉄が擦れる耳障りな音が響き渡った。
しまった、と思った。私たちは身を固くし、息を殺す。眼下の衛兵が、怪訝そうにこちらを見上げたのがわかった。
だが、幸運にも、彼はそれをただの風の音だと思ったらしい。すぐに巡回に戻っていく。
私たちは、安堵の息を漏らした。
目の前には、禁書庫へと続く、漆黒の闇が広がっている。埃と、古い紙の匂いが、中から流れ出してきた。
私は、フィオーラの方を一度だけ振り返り、そして、何も言わずに、その闇の中へと身を滑り込ませた。
通風孔の中は、私の想像を絶する空間だった。
一寸先も見えない完全な闇。狭く、埃っぽく、体を動かすたびに肌がざらついた石に擦れて痛む。私たちは、まるで墓所の中を這い進む、名もなき虫になったかのようだった。
『……大丈夫、イリス?』
後ろから続くフィオーラの心が、不安げに震える。
『ええ。もう少しの辛抱です』
私は彼女を励ましながら、意識は、この通風孔の下に広がる世界へと向けていた。
私の精神は、石の床を透過し、階下の様子を手に取るように感じ取ることができた。
規則正しい足音。聖堂騎士たちの、寸分の乱れもない、鋼のような思考。
(……第三層、西側廊下、異常なし)
(……今宵も、静かな夜だ)
彼らの頭上、わずか数寸の闇の中で、二人の侵入者が息を殺していることなど、知る由もなく。
やがて、私たちの進む先に、ぼんやりとした光が見えてきた。
通風孔の、終点。禁書庫へと繋がる、最後の格子だ。
私は、格子の隙間から、慎重に中の様子を窺う。
……人の気配はない。思考の波も感じられない。あるのは、巨大な窓から差し込む月の光に照らされた、静寂だけ。
内側の格子は、外側と違って、簡素な留め金で止められているだけだった。私は油布で音を殺しながら、慎重にそれを外す。
音もなく床に降り立ち、フィオーラの手を取って、同じように下へと導いた。
そして、私たちは、息を呑んだ。
そこは、ただの書庫ではなかった。
高い、高い天井。月の光が差し込む巨大な窓。そして、壁という壁を埋め尽くし、天にまで届きそうなほど、どこまでも高く積まれた、無数の書物。
まるで、知識でできた、巨大な聖堂。あるいは、忘れ去られた神々の、墓標の森。
千年分の宮殿の秘密が、この部屋の埃と共に、静かに眠っている。
私たちは、その圧倒的な光景の前に、しばらく言葉もなく立ち尽くしていた。
私たちの旅の、終着点。
この国を覆う、巨大な嘘の始まりが、このどこかにあるのだ。
私たちの捜索が始まった。
広大な禁書庫の中、目的の書物がどこにあるのか見当もつかない 。私たちは手分けして、高い書架に並ぶ古文書の背表紙を一つ一つ指でなぞっていった 。
時間は、刻一刻と過ぎていく。私の心の耳には、階下を巡回する聖堂騎士の、規則正しい足音が聞こえていた。次の巡回まで、もう、あまり時間はない。焦りが、じりじりと私たちの心を蝕んでいく 。
どのくらい探しただろうか。私の心に、フィオーラのかすれた声が届いた。
『……あった、イリス!』
彼女が指差した先、書庫の最も奥まった一角に、他の書物とは明らかに違う、豪奢な装飾の施された書架があった 。そこには、『歴代聖女聖典』と記された、同じ装丁の書物が年代順に並べられている 。
そして、その一番左端。最も古く、革の表紙が擦り切れた一冊に、色褪せた金文字でこう記されていた。
『初代聖女』
これだ。
私たちは息を呑んでその分厚い書物を書見台の上に乗せ、そっとページを開いた 。全ての嘘の始まりが、今、私たちの目の前で、その重い口を開こうとしていた。
古文書特有の、インクと羊皮紙の匂い。フィオーラはそこに記された古代文字を、震える指でなぞりながら、囁くような声で、私の心にだけその内容を読み上げていく。
『……大戦の終結後、国は疲弊し、人々の心は憎しみと不安に満ちていた……』
最初は、ありふれた歴史の記述だった。だが、読み進めるうちに、その内容に私たちは違和感を覚え始めた。
『……その時、現れたとされる初代聖女。だが、聖典にその名は記されていない。ただ、「神の共感」を持つ、名もなき少女であったと……』
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
神の共感。エンパス。
それは、私の呪われた力と、あまりにも、似すぎていた。
フィオーラの声が、わずかに、震え始める。
『……少女は、強大な魔法を使ったわけではない。ただ、そこにいるだけで、人々の心の不協和音を、無意識のうちに調律し、平穏をもたらした。だが、その力はあまりに繊細すぎた。少女は、人々の憎悪や苦痛を一身に受け、常に苦しんでいたという……』
それは、まるで、私のことを書いているかのようだった。
他人の感情に苛まれ、世界を「うるさい」と感じていた、私の呪われた半生そのもの。
私は、息を呑んだ。
そして、フィオーラの震える声が、ついに、決定的な一文を読み上げた。
その一文が、私たちの、そして、この国の全ての嘘を、白日の下に、晒した。
私は息を呑んだ。そしてフィオーラの震える声が、ついに決定的な一文を読み上げた。
その一文が、私たちの、そしてこの国の全ての嘘を白日の下に晒した。
『……名もなき少女の夭逝後、為政者たちはその「奇跡の調律」を再現するため、一つのシステムを構築した。国民の「祈り」という想念を集め、それを増幅させるための「器」、あるいは「音叉」として、限定的な共感能力を持つ長命種のエルフを、玉座に据えたのだ、と……』
音叉。
器。
―――偽物。
フィオーラの心の声が、ぷつりと、途切れた。
禁書庫に、死のような沈黙が落ちる。
階下を巡回する聖堂騎士の足音さえもが、もう、聞こえなかった。




