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沈黙の侍女と空腹の聖女  作者: あかはる


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第7章 嘘つきたちの情報収集

嘘つきたちの情報収集

第7章 嘘つきたちの情報収集


恐怖に汚された「最後の晩餐」。

その、あまりにも苦い味が、私に、本当の意味で、戦う覚悟を与えてくれた。

嘘つきの聖女と、沈黙の軍師。二人の嘘つきによる、世界の嘘を暴くための、危険な密約が交わされた、あの夜から。


私たちの日常は、その姿を、完全に変えた。


もう、フィオーラの心から、「次は、どんな美味しいものを食べに行こうか?」という、無邪気な声が聞こえてくることはない。

代わりに、彼女の心に灯っていたのは、不安と、そして、私への絶対の信頼が入り混じった、静かで、しかし、燃えるような決意の炎だった。


『イリス、どうすればいい?』


部屋の中、二人きりになると、フィオーラは、いつも、そう、私の心に問いかけてくる。

私は、答えない。

まだ、答えを、持っていなかったからだ。


「反撃のための、情報」。

口で言うのは、簡単だ。

だが、誰が、その情報を、持っているというのか。

この、嘘で塗り固められた宮殿の中で、一体、誰を、信じればいいというのか。


私は、焦っていた。

フィオーラの、その、か細い決意の炎が、息の詰まるような、この檻の中で、消えてしまわないうちに、次の一手を、見つけ出さなくてはならない、と。

私は、来る日も、来る日も、意識の網を、宮殿中に張り巡らせた。

だが、聞こえてくるのは、忠誠と、欺瞞と、保身に満ちた、上辺だけの思考ばかり。


答えは、ここには、ない。

ならば、行くしかないのだ。

あの、光の当たらない、澱んだ場所へ。

全ての真実と、嘘が、流れ着くという、王都の、最深部へ。


その夜、私はついにフィオーラに次なる作戦計画を告げた。


『フィオーラ。私たちが行くべき場所がわかりました』


私の静かな、しかし確信に満ちた心の声。それにフィオーラは、ごくりと息を呑んだ。


『私たちが向かう先は、王都の光が生み出す最も暗い影―――貧民街です』


『貧民街……ですって?』


フィオーラの心に驚きと、そしてかすかな恐怖の色が浮かぶ。彼女が聖女として、その清らかな足で決して踏み入れることのない場所。物語の中でしか聞いたことのない、混沌と貧困の世界。


『公の記録には残らない情報、権力者たちが隠したい秘密。その全てがこの淀んだ街の裏路地に流れ着くのです』


私は彼女の心をまっすぐに見つめ返し、言葉を続けた。


『衛兵たちの思考の中から、私は一人の男の噂をいくつも拾い上げました。この街で最も腕の立つ、「情報屋」の噂を。彼ならきっと、答えを知っているはずです』


フィオーラは黙り込んだ。

彼女の心の中では未知の場所への恐怖と、しかしこのままではいられないという焦りが、激しくせめぎ合っていた。

やがて彼女は、あの「最後の晩餐」の味のしないスープの記憶を思い出したのだろう。


彼女は私の目をまっすぐに見つめ返した。

その瞳にはもう、一片の迷いもなかった。


『わかったわ、イリス』


その心からの声は静かで、しかし鋼のように強かった。


『あなたが行くべきだと言うのなら、私はどこへでも行く。たとえそれが、どんなに暗くて危険な場所だとしても』


嘘つきの聖女と沈黙の軍師。

私たちの本当の反撃が、今始まろうとしていた。


私たちの次なる脱走計画は、今までとは比較にならないほど慎重を極めた。

目的は、もはや「食べ歩き」ではない。宮殿という名の巨大な嘘に立ち向かうための、武器を探す旅だ。


夜の闇に紛れ、私たちは、王都の南へと向かう。

壮麗な貴族街を抜け、賑やかな大通りを過ぎ、やがて、道の両脇に立ち並ぶ建物が、次第に、その背を低くし、みすぼらしくなっていく。

空気も、変わった。花の香りが消え、湿った土と、どこか、腐敗したものの匂いが、鼻をつき始める。


フィオーラは、私のローブの袖を、きゅっと、固く握りしめていた。その心は、恐怖と、そして、自分の無力さを恥じる、複雑な響きを奏でていた。私は、彼女の、その震える手を、もう一度、強く、握り返した。


『大丈夫です、フィオーラ。私が、います』


私の頭の中は、かつてないほどの、混沌に満ちていた。

宮殿のノイズが、計算された悪意や嫉妬の囁きだとしたら、ここのそれは、もっと、剥き出しの、生きるための、獣のような叫びだった。

ひどい悪臭と、人々の猜疑心に満ちた思考のノイズ。その中を、私たちは、フードで顔を深く隠し、足早に、進んでいった。


やがて私の心の羅針盤が、一つのひときわ淀んだ思考の溜まり場を指し示した。

衛兵たちが噂していた場所。寂れた酒場だ。

合言葉を告げれば、店の主人が情報屋の元へと通してくれるという。


私たちは、その今にも崩れ落ちそうな粗末な木の扉の前に立った。

扉の向こう側からは、下品な笑い声と怒声と、そして絶望に満ちた暗い思考がごちゃ混ぜになって漏れ出してきている。


フィオーラの心が、恐怖にきゅっと縮こまるのがわかった。

私は彼女の手を、もう一度強く、強く握りしめる。

そして、覚悟を決めてその混沌への扉をゆっくりと押し開いた。


カラン、と。場違いに乾いたベルの音が鳴る。

酒場の中の全ての視線が、一斉に私たちへと注がれた。

好奇、侮蔑、そして獲物を見つけたかのような飢えた光。

そのあまりにも剥き出しの感情の奔流に、私は一瞬眩暈を覚えた。


だが、私は引かなかった。

フィオーラを促し、カウンターの奥で無感動な目でこちらを見つめる店の主人へと、まっすぐに向き合わせる。

そして、彼女にだけ聞こえるように、心で強く命じた。


『フィオーラ。言うのです。あの言葉を』


フィオーラは、ごくりと唾を飲み込むと、震える唇で、しかし、凛とした声で、はっきりと告げた。


「―――月は、今夜も、濁っているか」


フィオーラのか細くも凛とした声。

その場違いな響きに、酒場の中のざわめきが一瞬だけぴたりと止んだ。


カウンターの奥にいた店の主人は、その生気のない瞳をほんの少しだけ細めた。

彼は何も言わない。ただ、じろりと私たちを頭の先からつま先まで、品定めするように見つめている。

その心に浮かぶのは侮蔑と、そしてほんのわずかな好奇の色。


(……どこぞのお貴族様の、お遊びか? それにしては肝が据わっている。特に、後ろの黙っている娘の方……)


彼の視線が、私の顔を探るように突き刺す。

私はフードの下で、表情を一切変えなかった。


やがて主人は、ふんと鼻を鳴らすとカウンターに置いていた汚れた布巾を、無造作に肩にかけた。


「……ついてきな」


短くそれだけを告げると、彼はカウンターの奥にある粗末な木の扉へと向かっていく。

酒場の客たちはもう私たちへの興味を失ったかのように、再び自分たちの下品な喧騒へと戻っていった。


私たちは顔を見合わせ一つ頷くと、その薄暗い扉の向こう側へと足を踏み入れた。

扉の向こうはカビと埃の匂いが充満する、狭い通路だった。

私たちの本当の反撃の、最初の扉が今、開かれようとしていた。


扉の向こうはカビと埃の匂いが充満する、狭い通路だった。

店の主人は私たちを一度も振り返ることなく、その通路を奥へと進んでいく。やがて、通路の突き当たりにあるもう一つの分厚い鉄製の扉の前で足を止めた。


主人は扉を三度、不規則なリズムで叩く。

しばらくの沈黙の後、扉の内側から「かん」という重いかんぬきが外れる音がした。


ギィ、と重い鉄の扉がゆっくりと内側へと開かれていく。


扉の向こうに広がっていたのは酒場の喧騒とは打って変わって、書斎のような静かな空間だった。

壁という壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされ、床には羊皮紙の巻物が無造作に積み上げられている。部屋の中央にある大きな執務机の上では、一人の青年がランプの灯りを頼りに分厚い本を熱心に読み耽っていた。


私たちの気配に気づくと、青年はゆっくりと本から顔を上げた。

その顔を見て、私は息を呑んだ。


あの時の青年だ。

昼間の市場で私たちにぶつかってきた、あの全てを見透かすような鋭い瞳を持った青年だった。

青年はまるで私たちの来訪をずっと待ちわびていたかのように、にやりと口の端を吊り上げた。

その表情に、私の心臓がどくんと嫌な音を立てる。


「ようこそ、聖女様と、その物言わぬ軍師殿。―――いや、市場以来だな、嬢ちゃんたち」


彼の楽しげで、そして全てを見透かしたような声。

その言葉に、フィオーラの心が驚きに大きく震えた。


『……どうして私たちのことを……!』


「驚いたか? ま、それが商売なんでな。俺はノア。見ての通り、この街のしがない情報屋だ」


ノアと名乗った青年は、椅子に座ったまま尊大な態度で私たちを見上げていた。


「それにしても大した度胸だ。まさか聖女様自ら、こんなドブ鼠の巣までお越しになるとはな」

「で? 何が知りたい? この国の嘘の始まりか? それともあんたを狙ってる、もう一匹の鼠のことかい?」


彼のあまりにも的を射た問いかけ。

私は確信した。

この男は敵だ。

だが同時に、今の私たちにとって唯一答えをくれる可能性のある、危険な、危険な協力者なのだと。


私はフードの下で、表情を一切変えなかった。

だが、私の心の中はかつてないほどの速度で思考を巡らせていた。


(……いつ気づかれた? 市場での接触だけでは私たちの正体まではわかるはずがない。どこかから情報が漏れていた……? それともこの男は、私たちが想像している以上の情報網を……?)


私の内なる動揺を、ノアは見逃さなかった。

彼は楽しげに椅子を、ぎぃと軋ませる。


「そんなに警戒するなよ、軍師殿。あんたらの秘密はまだ誰にも売っちゃいない。もっとも、高く買ってくれる相手には心当たりがあるがな」


彼の視線がちらりと、部屋の隅に積まれた異国の地図へと向けられる。

帝国。私の脳裏に、あの船乗りたちの噂話が蘇った。


「さて、取引と行こうか」


ノアは机の上に両肘をつき、指を組んだ。その瞳が初めて、商売人の冷たい光を宿す。


「あんたらの知りたいこと。多分、この国の成り立ちについてだろ? 面白い話だ。だがタダでくれてやるほど、俺もお人好しじゃあない」


彼の心からの響きは、どこまでも乾いていた。

同情も共感も何もない。ただ等価交換の原則だけが、そこにあった。


「俺の要求は一つだけだ」


ノアは、にやりと笑った。

その笑みが、私たちの本当の地獄の始まりを告げていた。


彼は椅子に座ったまま、その鋭い瞳でフィオーラではなく、まっすぐに私を射抜いた。


「金や権力には興味がねえ。俺が欲しいのは、あんたのその特別な『耳』だ」


彼は扉の僅かな隙間から、外の騒がしい酒場を顎でしゃくってみせた。


「あそこにいる一番奥の席で一人で飲んでる痩せた男が見えるか? 『蛇のサイラス』。俺と同じ情報屋だが、先日俺との取引でちょいとズルをしやがった」


彼の声のトーンが一段低くなる。


「奴が俺からくすねた『品物』をどこに隠したのか。それをあんたの力で読み取ってもらいたい」


『ふざけないで!』


フィオーラの心から、怒りに満ちた絶叫が迸った。


『イリスの力をあなたの汚い仕事に使うつもり!? 彼女は道具じゃないわ!』


そのあまりにも気高い反論。

それにノアは、心底おかしいといったように肩をすくめてみせた。


「道具、ね」


彼の声はどこまでも冷たかった。


「ここでは誰もが何かの道具さ、聖女様。生きるためのな。あんたらの知りたい情報と彼女の才能、どっちが価値があるか。選ぶのはあんたらだ」


私の呪われた力。

それは私の心を無慈悲に蝕む劇薬。

他人の汚れた思考を無理やりこじ開ける行為。それは私にとって、自らの魂を切り刻むのと同じことだった。


けれど、目の前には私を必死に庇おうとしてくれるたった一人の友人。

そして、私たちの背後には容赦なく迫ってくるこの国の巨大な嘘。


私はゆっくりと一度だけ頷いた。

そのあまりにも重い頷き。

それが私たちの最初の取引の成立を意味していた。


『……イリス、だめ!』


私のあまりにも重い頷き。

それを見てフィオーラが、悲痛な叫びを上げた。


『あなたの心をそんなことに使ってはいけないわ! あなたがどれほど苦しむか……!』


そうだ。

フィオーラは知っているのだ。

あの琥珀色のケーキを食べた夜、私の心の闇にほんの少しだけ触れてしまったから。

他人の剥き出しの思考に触れることが、私にとってどれほどの苦痛であるかを。


『……大丈夫です、フィオーラ』


私は彼女の震える心に、できる限り穏やかな響きを送った。


『これは私たちの戦いなのですから』


私はゆっくりと立ち上がった。

そしてノアの全てを見透かすような冷たい瞳を、まっすぐに見つめ返す。


私は覚悟を決めた。

これから自らの魂を切り刻む、その覚悟を。

私は静かに目を閉じた。

そして意識の全てを、扉の向こう側、酒場の一番奥の席に座る痩せた男へと集中させた。


私の呪われた力が獲物を求めて、その見えない牙を剥く。

さあ始めよう。

私たちの最初の取引を。


冷たい汚泥の中に無理やり頭から突っ込むような感覚。

それが私の力の始まりだった。


扉の向こう側、酒場の喧騒は急速に遠のいていく。

代わりに私の頭の中に、たった一つの強烈な不協-和音が鳴り響き始めた。

『蛇のサイラス』。その男の心の中。


そこは蛇の巣だった。

猜疑心、嫉妬、劣等感、そして底なしの物欲。それらがとぐろを巻いた無数の毒蛇のようにうごめき、絡み合っている。

私がその領域に足を踏み入れた瞬間、全ての蛇が一斉に鎌首をもたげ、私という招かれざる侵入者に牙を剥いた。


『誰だ』

『何を嗅ぎ回る』

『殺す』


思考の断片が鋭い刃物となって、私の精神をずたずたに切り刻んでいく。

頭が割れるように痛い。

吐き気がこみ上げてくる。

全身から冷たい汗が噴き出した。


『……イリス!』


フィオーラの悲痛な叫びが遠くに聞こえる。

けれど私にはもう答える余裕はなかった。

私はこの汚泥の海の中で、ただ一つの小さな硬い真実の粒を探し当てなくてはならないのだから。


私は歯を食いしばり、さらに深く、深く、彼の心の闇へと潜っていく。

やがて、その汚泥の一番奥底にそれはあった。

『古い暖炉の、三番目の煉瓦の裏』。

誰にも見つけられるはずがないという、彼の歪んだ優越感にまみれた小さな、小さな記憶の粒。


―――見つけた。


私は全ての力を振り絞り、その汚泥の海から浮上した。


「―――はっ……!」


意識が現実へと引き戻される。

私の体はがくがくと震え、立っていることさえままならなかった。

目の前ではフィオーラが泣きそうな顔で、私の体を必死に支えてくれている。


私は震える指でノアの机の上にあった羊皮紙の切れ端と炭のペンを引き寄せた。

そしてそこに、たった一言だけを書き記す。


『暖炉。三番目の煉瓦』


私の仕事は終わった。

私はそのまま、糸が切れた人形のようにフィオーラの腕の中へと崩れ落ちた。


ノアは糸が切れた人形のようにイリスと、彼女を必死に抱きしめるフィオーラを、ただ無感動な瞳で見下ろしていた。

彼の心に浮かぶのは同情でも罪悪感でもない。ただ目の前で起こった現象に対する、冷徹な分析だけだった。


(……なるほどな。他人の精神に深く潜行する分、術者への反動フィードバックも凄まじいか。燃費の悪い諸刃の剣、てとこか)


彼はゆっくりと机の前に歩み寄ると、イリスが最後の力を振り絞って書き残した羊皮紙の切れ端をつまみ上げた。


『暖炉。三番目の煉瓦』


その文字を満足げに一瞥すると、彼はふんと鼻を鳴らした。


「仕事は上々、てとこか」


そのあまりにも無慈悲な一言。

フィオーラの心に、怒りの炎が燃え上がった。


『あなた……! イリスに、なんてことを……!』


フィオーラの怒りに震える心の叫び。

それにノアは、心底うんざりしたように肩をすくめてみせた。


「取引だろ、聖女様。そっちの軍師殿はあんたのためにその役目を果たした。大した忠義じゃないか」

「だから俺も、約束は守る」

「あんたらの知りたい答えは、そこにある」


ノアの突き放すような声。

私はぐったりと意識を失いかけているイリスを抱きしめながら、彼が指差した方向を悔しげに睨みつけた。

だが、彼が指差していたのは本棚ではなかった。

窓の外、遥か遠く。夜の闇にそびえ立つ、宮殿の巨大な中央塔だった。


「この国の始まりの嘘。聖女システムの本当の設計図。そんなもんが、こんなドブ鼠の巣にあるとでも思ったか?」


ノアは心底おかしいといったように、喉を鳴らして笑った。


「答えはいつだって嘘の中心にあるもんだ。あんたらの住んでる、あの鳥かごの中さ。王立古文書館……その最深部。大神官様しか入れねえっていう、禁書庫の中にな」


禁書庫。

その言葉の響きが、私の心に絶望的なまでの壁となって立ちはだかる。


「ま、せいぜい頑張るこったな、聖女様」


ノアはもう私たちへの興味を失ったかのように、椅子に深く座り直し、再び読みかけの本へとその視線を落とした。


私は唇を強く噛み締めた。

イリスが自らの魂を削ってまで手に入れてくれたのは、答えそのものではなかった。

次なる絶望的なまでの挑戦状だったのだ。


私はイリスの体を力の限り支え起こした。


『帰りましょう、イリス』


私の震える心からの声。


『私たちの本当の目的地が、わかったわ』


その言葉に、イリスのまぶたがぴくりとわずかに動いた気がした。

私たちの本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。


ノアの部屋を出た私たちは再び、あの下品な喧騒に満ちた酒場の中を通り抜けた。

行きとは違い、もう誰も私たちに関心を払う者はいなかった。

私の腕の中ではイリスが、ぐったりと人形のようにその身を預けている。彼女の心は今は、嵐が過ぎ去った後のように静まり返っていた。あまりにも静かすぎた。


貧民街の汚泥のような闇の中を、私は必死に歩いた。

イリスのほとんど意識のない体を、引きずるようにして。

行きにはあれほど私を苛んだ、人々の剥き出しの思考のノイズ。

その全てからイリスを守るように、私は彼女の体を強く、強く抱きしめた。


『ごめんなさい、イリス』


私の心に、後悔の涙が溢れた。


『私がもっと強ければ。あなたのその優しい力を、こんなことに使わせずに済んだのに』


けれど、後悔だけでは何も変わらない。

イリスが自らの魂を削って、私たちのためにこじ開けてくれたこの細い、細い道。

私はもう、決して引き返さない。


宮殿の高い壁が見えてきた時。

私は安堵ではなく、新たな戦場へと戻ってきたのだという強い緊張感を覚えていた。

私たちの本当の敵は、あの冷たい壁の中にいるのだから。


聖域の自室に戻った時、東の空が白み始めていた。

私はイリスの体をそっと寝台に横たえる。彼女の顔は血の気を失い、まるで美しい石膏像のように静かだった。

そのあまりにもか弱い寝顔を見ていると、私の胸に今まで感じたことのない激しい感情が込み上げてきた。


怒り。

そして、どうしようもないほどの無力感。


イリスは私のために自らの魂を削った。

なのに私は彼女が苦しんでいる間、ただその体を支えることしかできなかった。

私には力がない。

聖女という名前だけの、空っぽの器。

イリスを守ることも、この国の嘘と戦うことも私一人では何もできない。


(……力が、欲しい)


私は生まれて初めて、心の底からそう願った。

イリスを守るための力が。

彼女と二人でこの嘘の世界に立ち向かうための、本当の力が。


私は夜明けの光が差し込む窓辺に立ち、固く、固く拳を握りしめた。

その小さな手の中で、何かが変わろうとしていた。

聖女という役割を担うだけの少女が、初めて自らの意志を持った、その瞬間だった。


私たちの本当の戦いは、今まさに始まろうとしていたのだから。

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