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第6章 最後の晩餐

昼間の市場での一件以来、私たちの冒険はぴたりと止まった。

あの青年の全てを見透かすような瞳。その記憶が私の中に消えない染みとなって残っていた。私たちの秘密はもはや盤石ではない。その恐怖が私たちを聖域という名の鳥かごに、固く縛り付けていた。


冒険を失った日常はひどく色褪せて見えた。フィオーラは再び窓の外を眺めるだけの物言わぬ人形に戻ってしまった。私の頭の中は以前にも増して、意味のない宮殿のノイズで満たされる。だがそのノイズは、もはやただの不協和音ではなかった。その中には明らかに私たちを探るような、冷たく粘着質な「視線」がいくつも混じっているのを感じた。


宮殿はもはや安全な場所ではなかった。かつては退屈なだけの鳥かごだったが、今は監視の目が光る檻そのものだ。息が詰まる。フィオーラの心が日に日に光を失っていくのが、痛いほど伝わってくる。


(……このままでは、ダメだ)


私の心に焦りが生まれる。

このままこの息苦しい檻の中で、二人で恐怖に怯えながら心が死んでいくのを待つだけなのか。

それだけは嫌だった。


私は覚悟を決めた。

「これが最後になるかもしれない」という覚悟で、もう一度だけフィオーラをあの輝かしい冒険に誘うのだ。私たちの失われた楽園を取り戻すために。


その夜、私はいつになく真剣な顔でフィオーラに心で語りかけた。


『フィオーラ。行きましょう。私たちの冒険に』


私の突然の提案。それにフィオーラは、驚いたように顔を上げた。

その瞳に一瞬だけ、かつての輝きが戻る。


『……でもイリス。危険だわ』

その声は震えていた。


『ええ、危険です。だからこそ行かなくてはなりません。これが私たちの最後の晩餐になるかもしれないのですから』


私の悲壮なまでの決意。それがフィオーラの心を動かした。彼女は黙って、しかし力強く一度だけ頷いた。


私たちが向かったのは、初めての夜に訪れたあのパン屋へと続く道だった。

だが夜の街はもう、私たちの知っている心躍る冒険の舞台ではなかった。

道の隅の暗がりが、まるで誰かが潜むための息を殺した闇に見える。すれ違う人々の何気ない視線が、私たちを品定めする鋭い刃のように感じられる。私の頭の中は周囲の思考を探ることで張り詰め、切れかかっていた。


私たちは路地裏にある小さなスープの屋台を見つけ、その隅の席に身を隠すように座った。

運ばれてきた湯気の立つ野菜のスープ。かつてなら、その温かさと優しい味に心から幸福を感じられたはずだった。


フィオーラは必死に、いつものように楽しそうな笑顔を作ろうとしていた。

『……温かいわね、イリス』

だが、その心からの響きは空虚だった。


私もスプーンを口に運ぶ。

スープは熱かった。けれど、少しも温かくはなかった。

それはただの味のない熱い液体。恐怖という名の冷たいスパイスが、全てを台無しにしていた。

美味しいも、楽しくも、嬉しくもない。


その時、私ははっきりと悟った。

もう戻れないのだと。ただ逃げているだけでは、あの輝かしい冒険の時間は二度と戻ってはこないのだと。

私たちのささやかでかけがえのない楽園は、すでに恐怖に汚染され失われてしまったのだ。


屋台からの帰り道、私たちの間に言葉はなかった。

部屋に戻り、フィオーラがぽつりと私の心にだけ聞こえる声で呟いた。

『……スープ、何の味もしなかったわね』

その声は絶望に濡れていた。


私はそんな彼女の前に、まっすぐに立った。

そして今度こそ、本当の決意を彼女の心に告げた。


『ええ、そうですね。だからもう、逃げるのはおしまいです』

『取り戻しに行きましょう。私たちが心から「美味しい」と感じられる、あの世界を』


私の言葉に、フィオーラがはっとしたように顔を上げる。


『ただ逃げるだけではどこまでも追われるだけ。私たちに必要なのは逃走じゃない。反撃するための "情報" よ』

『フィオーラがなぜ狙われるのか。それを知らなくてはならない』

『……私たちの "食べ歩き" はもう終わり。これからは真実を探るための "情報収集" よ』


恐怖に汚された「最後の晩餐」。

そのあまりにも苦い味が私に、本当の意味で戦う覚悟を与えてくれたのだ。

嘘つきの聖女と沈黙の軍師。二人の嘘つきによる、世界の嘘を暴くための危険な密約が交わされた瞬間だった。

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