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沈黙の侍女と空腹の聖女  作者: あかはる


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第5.5章 白昼の市場と太陽の果実(無垢なる信仰の眼差し)後日談

白昼の市場と太陽の果実 後日談

宮殿の聖域に戻り、ざらざらとした麻の服を脱ぎ捨てた時、全身からどっと力が抜けたのは、フィオーラだけではなかった。隣に立つイリスの顔には、昼間の市場での出来事――特に、あの全てを見透かすような瞳の青年との遭遇――が残した、消えない影が落ちている。


いつもなら、冒険の後はすぐにレシピ本を開き、今日の「獲物」について二人で語り合うのが常だった。けれど、今日の出来事はあまりに生々しく、危険の匂いが濃すぎた。私たちは、どちらからともなく、その儀式を執り行う気にはなれなかった。


部屋には重たい沈黙が流れる。イリスは窓の外を眺め、私はベッドの縁に腰掛けて、ただ、あの青年の冷たい好奇心を思い出していた。


その時、控えめなノックの音が響いた。 「……フィオーラ様、いらっしゃいますか?」 リサの声だった。


「ええ、リサ。どうしたの?」 私が応じると、扉がゆっくりと開き、リサが顔を覗かせた。その顔は、いつもの太陽のような明るさではなく、曇り空のように翳っている。


「あの……お加減は、いかがかな、と……。少し、お疲れのように見えましたので」 彼女は、心配そうに私の顔を覗き込む。だが、その瞳の奥には、心配だけではない、何か別の感情が揺らいでいるのを、私は見逃さなかった。それは、傷ついた小鳥のような、寂しさと不安の色。


はっ、と私は思い出した。 そうだ。昼間の市場へ出かける直前、リサが私にくれた、あの手作りの花の刺繍。 危険な冒険に気を取られていた私は、それをイリスに「隠しておいて」と、あまりにも無神経に頼んでしまったのだ。


「リサ……」 私は、ベッドから立ち上がり、彼女の前に膝をついた。 「ごめんなさい。あなたにもらった、あのお守り……。私、ちゃんと持っていたのに、市場の喧騒の中で、落としてしまったらいけないと思って……」


私は、窓辺に立つイリスに視線を送る。イリスは、私の意図をすぐに理解したようだった。彼女は、懐から、丁寧に折り畳まれた、あの小さな花の刺繍を取り出した。刺繍には、少しも汚れがついていない。彼女が、大切に守ってくれていたのだ。


イリスは、それを私に手渡そうとした。だが、私は、そっと首を横に振る。そして、リサに向き直った。


「あなたからの、大切な贈り物なのに、ごめんなさい。イリスに、預かってもらっていたの」


リサの瞳が、わずかに潤む。 「……わたくし……フィオーラ様は、もう、わたくしの贈り物なんて、いらないのかなって……。イリス様の方が、ずっと……ずっと、大切なんだなって……」 ぽつり、ぽつりと、彼女の小さな唇から、抑えきれなかった本音がこぼれ落ちる。


ああ、なんて酷いことをしてしまったのだろう。 私の軽率な行動が、この純粋な心を、こんなにも深く傷つけていたなんて。


「違うの、リサ!」 私は、彼女の小さな肩を、そっと抱きしめた。 「あなたは、私にとって、妹のような、本当に、本当に大切な子よ。それは、イリスが来てからも、何も変わらない」 私は、彼女の背中を優しく撫でながら、語りかける。


「今日の市場は……少し、危ない場所だったの。だから、あなたのくれたお守りを、絶対に失くしたくなかった。一番安全な場所に、守ってもらっていただけよ」 私は、イリスに、もう一度視線を送った。イリスは、静かに頷くと、リサの前に歩み寄り、その小さな手のひらに、花の刺繍を、そっと乗せた。


イリスの心から、温かい感情が流れ込んでくるのが分かった。 (……ごめんなさい、リサさん。あなたの、フィオーラ様を思う気持ち、とても、綺麗です。私なんかが、預かるべきものでは、ありませんでした)


イリスの、言葉にならない謝罪と敬意。それは、リサの心にも、確かに届いたようだった。 リサは、手のひらの上の刺繍を、宝物のように見つめている。そして、顔を上げると、まだ涙で濡れた瞳で、私たちを交互に見た。


「……本当……?」 「ええ、本当よ」 私は、力強く頷いた。 「リサ。このお守りは、あなたが、私のために作ってくれた、世界で一つだけの宝物だわ。だから……あなたが、一番安全だと思う場所に、飾ってくれないかしら?」


私の言葉に、リサの顔が、ぱっと輝いた。 彼女は、こくりと頷くと、部屋の中を見渡し、そして、私の枕元にある、小さな小物入れを指差した。 「……ここなら、フィオーラ様が眠っている間も、ずっと、お側で見守っていられます」


「ええ、それがいいわ」 私は微笑んだ。


リサは、大切そうに、花の刺繍を小物入れの中にそっと置いた。それは、まるで、小さな儀式のように見えた。 わだかまりが解けた安堵感と、自分の居場所を再確認できた喜びで、リサの顔には、いつもの明るさが戻っていた。


「フィオーラ様、イリス様、あの……ありがとうございました!」 彼女は、深々と頭を下げると、ぱたぱたと、軽い足取りで部屋を出ていった。


扉が閉まると、部屋には再び、私とイリスだけの静寂が戻る。 けれど、先ほどまでの重苦しい空気は、もうどこにもなかった。


私は、イリスに向き直り、静かに頭を下げた。 「……ありがとう、イリス。あなたが大切に持っていてくれたおかげよ」


イリスは、少しだけ照れたように、はにかんだ。 彼女の心から、安堵と、そして、リサの純粋さに触れたことへの、温かい感動が伝わってくる。


私たちは、まだ多くの問題を抱えている。 けれど、今、この瞬間だけは。 失いかけた、小さな絆を取り戻せたことへの、確かな温もりが、私たちの心を、そっと満たしていた。


私は、枕元の小物入れに目をやる。 そこに収められた、小さな花の刺繍。 それは、これから始まる、私たちの過酷な戦いの中で、決して失ってはならない、大切なものを、静かに示しているようだった。

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