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沈黙の侍女と空腹の聖女  作者: あかはる


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第5章 白昼の市場と太陽の果実

私たちの夜の冒険は、すっかり習慣となっていた 。レシピ本も、少しずつではあるが、着実にページが埋まってきている 。その事実に満足していた私とは対照的に、フィオーラの好奇心は、留まるところを知らなかった 。


『ねえ、夜の街はもうたくさん探検したわ』


ある晴れた日の午後、窓から差し込む光を浴びながら、彼女が私の心に直接話しかけてきた 。


『私、昼間の街が見てみたい! 太陽の下で、人々が笑い合っているところを! それに、昼間にしか開いていない市場があるって、侍女たちが噂しているのを聞いたの。色とりどりの果物やお花が並んでるんですって!』


その声は、危険など微塵も考えていない、無邪気な光に満ちていた 。


(昼間に? 無謀すぎる……)


私の最初の反応は、完全な拒絶だった 。

夜の闇は、私たちの最高の隠れ蓑だ 。しかし、全てが白日の下に晒される昼間では、フードを被っているだけではすぐに怪しまれる 。特に、陽光の下で輝く彼女の銀髪や、人間とは一線を画すその存在感は、隠しようがない 。



『お願い! 一度でいいの。太陽の光を浴びながら、何かを食べてみたいのよ』


その懇願は、あまりにも切実だった 。

鳥かごの中から、決して手の届かない外の輝きを眺め続ける彼女の孤独を、私は誰よりも知っている 。

……断ることなど、できるはずもなかった 。




その日から、私の「軍師」としての本当の挑戦が始まった 。

私は丸一週間をかけて、宮殿の昼間の動きを徹底的に観察した 。衛兵の交代時間、貴族たちの謁見スケジュール、使用人たちの動線。夜とは比べ物にならないほど複雑で、隙のない警備体制 。

そして、たった一つの、しかし完璧な好機を見つけ出した 。

週に一度、王都最大の商家から、厨房へ一週間分の食材がまとめて納品される日 。その時間帯だけ、宮殿の裏門は慌ただしい人の出入りでごった返し、衛兵たちの注意も、荷を運ぶ商人たちとのやり取りに完全に奪われる 。ほんの数十分だけ生まれる、秩序の中の混沌。ここしかない 。




『計画は立ちました。ですが、条件があります』 私は計画の全容をフィオーラに伝えた後、二着の着古した厨房下働きの服と、つばの広い麦わら帽子を彼女の前に置いた 。

『これを着て、決して顔を上げてはいけません。帽子で常に顔と耳を隠すこと。そして、何があっても、私の側から離れないこと。約束できますか?』 私の真剣な声に、フィオーラはごくりと喉を鳴らし、真剣な顔で頷いた 。




そして運命の日。ざらざらとした麻の服に着替えた私たちは、厨房へと続く薄暗い通路で、その時が来るのを息を殺して待っていた 。

やがて、遠くから聞こえてくる。荷馬車の車輪が石畳を転がる、けたたましい音 。

私たちの、最も危険な冒険の幕が、今、上がろうとしていた 。



荷馬車が裏門に到着すると同時に、厨房周辺は一気に戦場のような喧騒に包まれた 。商人たちの怒鳴り声、食材の入った木箱が地面に置かれる音、忙しなく行き交う使用人たちの足音 。今だ、と私はフィオーラの袖を引いた 。



私たちは顔を伏せ、猫背気味に、他の下働きたちの流れに紛れ込んだ 。

案の定、私たちのすぐ横を通り過ぎた厨房長が、厳しい声を張り上げた 。

「おい、そこの二人! ぼさっとするな、手を動かせ!」 びくり、とフィオーラの肩が震える 。私は慌てて、彼女の前で深々と頭を下げて見せた 。

厨房長が他の者に注意を移した隙に、私たちは荷を運び終えた商人の一団に紛れ、ごった返す裏門をすり抜けた 。



宮殿の分厚い壁が完全に背後になった瞬間、私たちの目の前に、全く新しい世界が広がった 。

太陽の光が、白い石畳をきらきらと照らし、道行く人々の活気ある話し声が、まるで音楽のように響いている 。夜の静かな街とは、まるで違う。世界そのものが、生きていると叫んでいるようだった 。

 

『すごい……!』 フィオーラの心から、圧倒されたような声が届く 。

『明るい……! こんなにたくさんの人がいて、みんな、笑ってる……! 夜とは、匂いも音も、色も、全部が違うのね!』 彼女は帽子のつばの下で、夢中になって首を左右に動かしている 。

その純粋な感動とは裏腹に、私の頭は、何百という人々の思考の洪水で割れそうになっていた 。



市場の喧騒の中、ひときわ私たちの目を引いたのは、山のように果物が積まれた、色鮮やかな一角だった 。フィオーラの指が、その中でも一際目を引く、燃えるような橙色をした果実を指差した 。

屋台の女主人は、「おや、お嬢ちゃん、お目が高いね。それはこの季節にしか採れない『陽光の実』だよ」と笑いかけた 。

私が銅貨を払い、フィオーラがその果実を嬉しそうに受け取った、その瞬間だった 。

ブン、と羽音を立てて、一匹の大きな蜂がどこからともなく現れた 。蜂は、屋台に並ぶ他の甘い果物には目もくれず、まるで意志を持っているかのように、フィオーラが持つ『陽光の実』の周りだけを執拗に飛び回り始めたのだ 。

『きゃっ! あっちに行って!』 フィオーラは慌てて手を振るが、蜂はしつこく彼女に付きまとう 。女主人が布で追い払ってくれたことで、蜂はどこかへ飛んでいったが、私の心には、またあの小さな違和感が芽生えていた。なぜ、彼女だけを狙うのか 。



私たちは市場の隅にある噴水の縁に腰掛け、改めてその果実に向き合った 。

フィオーラが皮をむくと、甘酸っぱい香りがふわりとあたりに広がる 。そして、一口 。

途端に、彼女の心から、今まで感じたことのないほどの、純粋で、強烈な歓喜の感情が流れ込んできた 。

『――! なにこれ、太陽を、食べてるみたい……!』



甘いものを食べた後は、しょっぱいものが欲しくなる。私の目当ては、市場の隅で湯気を立てる、煮込み料理の屋台だ 。しかし、その屋台へ向かう途中、事件は起きた 。

「わっ!」

人混みを避けようとしたフィオーラが、前方から歩いてきた青年に、こつんとぶつかってしまったのだ 。

「っと、わりぃ。……ん?」

青年は舌打ちしかけて、私たちの姿を見て、興味深そうに目を細めた 。歳は私たちとそう変わらないように見えるが、その瞳には貧民街で生き抜いてきた者特有の、鋭い光が宿っている 。

まずい、と思った 。

彼は、獲物を品定めするような目で、私たちを頭の先からつま先まで、一瞥でなめ回すように見た 。

そして、フィオーラの帽子の隙間から覗く銀髪と、私のあまりに場違いな落ち着き払った様子を交互に見ると、にやりと口の端を吊り上げた 。

「へえ……。ま、お互い様だ。気をつけな、嬢ちゃんたち。市場は、迷子を探す狼もうろついてるんでな」 彼はそれだけ言うと、人混みの中へと巧みに姿を消した 。

フィオーラは何を言われたのかわからず、きょとんとしている 。だが、私の背筋は、本物の危険信号に凍り付いていた 。

今の青年の心は読めた 。悪意はなかった。だが、そこには鋼のように冷たい好奇心があった 。『面白い獲物を見つけた』と、彼の心は確かにそう告げていたのだ 。


パイの温かさが胃に収まっても、私の心は冷えたままだった 。

あの青年の、全てを見透かすような瞳が、脳裏に焼き付いて離れない 。

『……帰ります』

私は、きっぱりと彼女に伝えた 。

『え、もう?でも、まだ太陽は高いのに……』

『帰ります。今すぐに』

私の声には、自分でも驚くほどの、有無を言わせぬ響きがあった 。


市場からの帰り道は、行きとはまるで違っていた 。色とりどりの露店も、活気ある人々の声も、今は全てが私たちを暴き出すための脅威にしか見えない 。

ようやく聖域の私室に戻り、ざらざらした麻の服を脱ぎ捨てた時、全身からどっと力が抜けた 。



『……ごめんなさい』 フィオーラが、しょんぼりとした声で謝る 。

『私、はしゃぎすぎたわ。あなたに、怖い思いをさせたのね』 私は何も答えず、ただ静かに首を横に振った 。



その夜、私たちはレシピ本を開くことはなかった 。

冒険の記録を記すには、今日の出来事はあまりに生々しすぎた 。

私は彼女に、昼間の世界の輝きを見せてあげたかった 。

けれど、忘れていたのだ。光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた、濃くなるということを 。

そして、その影の一つは、間違いなく、私たちの存在に気づいてしまった 。

私たちの秘密の冒険は、もう、ただ楽しいだけの遊びではいられなくなったのだ 。



昼間の市場での一件以来、私たちの冒険はぴたりと止まった 。

あの青年の、全てを見透かすような瞳。その記憶が、私の中に消えない染みとなって残っていた 。私たちの秘密は、もはや盤石ではない 。その恐怖が、私たちを聖域という名の鳥かごに縛り付けていた 。

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