聖女侍女編6
「聖女様のささやかな変化」
それは、フィオーラとイリスが、夜の冒険をすっかり日常のものとし、レシピ本のページを着実に増やしていた頃のことだった。
宮殿の片隅で、一人の少女が、敬愛する主の姿に、小さな、しかし、見過ごすことのできない変化を感じ取っていた。
幼い侍女、リサである。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
ある朝、フィオーラの公務用のドレスの背中の編み上げを手伝っていた時、いつもより、ほんの少しだけ、紐を締めるのに力が必要な気がしたのだ。
「あら? 少し、きつくなったかしら、この服」
フィオーラ自身は、そう言って、無邪気に笑うだけだった。
気のせい、かもしれない。
リサは、一度は、そう思った。
だが、その日から、彼女の、敬愛する主とその腹心の侍女を見る目に、無意識の「観察」が加わってしまった。
注意して見れば、変化は、明らかだった。
聖女様の、いつもは雪のように白い頬が、近頃、ほんのりと、健康的な血色を帯びている。
イリス様の、いつもは影のように静かな佇まいに、どことなく、満ち足りたような、穏やかな丸みが加わっている。
そして何より、お二人は、朝になると、決まって、何か、とても幸福な秘密を共有しているかのような、輝く笑顔を、交わすのだ。
リサの心に、一つの、純粋な疑問が、芽生えた。
(……もしや、宮殿の食事が、お二人の、お体に、合っていないのでは……?)
聖女様の、そして、その片腕であるイリス様の、ご健康を損なうようなことがあってはならない。
それは、この宮殿における、何よりも、重大な関心事のはずだ。
リサは、数日間、一人で悩み続けた。
そして、ついに、意を決した。
敬愛する主君に、無礼を承知で、直接、お伺いを立てるしかない、と。
その日の午後。
お茶の時間、自室で、フィオーラとイリスが、二人きりで談笑(もちろん、心の中だけで)している、その時を、見計らって。
リサは、深呼吸を一つすると、震える声で、切り出した。
「あの、聖女様……」
フィオーラとイリスの視線が、一斉に、彼女へと注がれる。
「大変、申し上げにくいのですが……」
リサは、ごくりと、唾を飲み込んだ。
「近頃、聖女様も、イリス様も、少し……その……お顔が、ふっくらと……されていませんか?」
純粋な、あまりにも純粋な、健康を気遣う、少女からの問いかけ。
その瞬間。
フィオーラとイリスの、輝くような笑顔が、ぴしり、と。
寸分違わず、全く同じ表情で、凍りついた。
(((バレた!?)))
二人の、完璧にシンクロした、無音の絶叫が、部屋の中に、木霊した。
もちろん、その声は、心配そうな顔で、ただ、こてん、と首を傾げる、リサの耳には、届かない。
まず我に返ったのは、私だった。
軍師としての私の頭脳が、この絶体絶命の危機を乗り越えるための唯一にして最善の言い訳を、瞬時に弾き出す。
『フィオーラ、合わせるのです! 最近の宮殿の食事が原因だと!』
私の切迫した心の声。
それを受け取ったフィオーラは、さすがというべきか。一瞬で聖女の仮面を被り直すと、慈愛に満ちた、しかしどこか悩ましげな完璧なため息を一つついてみせた。
「……ああリサ。やはり、あなたにはわかってしまいましたか」
「えっ」とリサは息を呑む。
「そうなのです。近頃料理長が私の健康を気遣うあまり、少し栄養価の高い食事を用意してくれていて……。残すのは作ってくれた者に申し訳ないですからね。聖女として、感謝の心で全ていただいているのです」
私もその隣で、さも忠義心から毒味役として同じものを食べておりますとでも言いたげに、神妙な顔でこくこくと頷いてみせる。
私たちの完璧な連携。
それに純粋なリサが、疑いを持つはずもなかった。
彼女の瞳はみるみるうちに、尊敬と、そして感動の色に潤んでいった。
「まあ、聖女様……! なんてお優しい……! そしてイリス様も、なんて忠義深い……!」
リサは自分の浅はかな疑問を恥じるように、顔を真っ赤にしている。
そして何かを決意したように、ぐっと胸を張った。
「でしたら聖女様! 今後その栄養価の高いお食事、わたくしが喜んで毒味役を代わらせていただきますわ!」
(((えっ)))
今度は別の意味で、私たちの心の声が完璧にシンクロした。
このあまりにも純粋で、そしてありがた迷惑な申し出。
「そ、それは、なりません、リサ!」
フィオーラが思わず、素の慌てた声で叫んだ。
そしてはっと我に返ると、「……あなたのその優しい気持ちだけで、十分ですよ」と、聖女の笑みでどうにかその場を取り繕う。
私たちはその後、あの手この手でどうにかリサを部屋から送り出すと、その場に二人してへなへなと崩れ落ちた。
『……危なかったわね、イリス』
『……ええ、本当に』
顔を見合わせ、私たちはどちらからともなく笑い出した。
やがてフィオーラは、何かを思いついたようににやりと悪戯っぽく笑った。
『……イリス。私たちの、聖なる任務……もう少し、ペースを上げたほうが、いいかもしれないわね』
『……と言いますと?』
『運動のためよ!』
フィオーラは自信満々に、そう言い放った。
どうやら私たちの夜の冒険は、まだまだ終わることはなさそうだった。
リサからの純粋すぎる指摘は、私たちの心に深く、深く突き刺さった。
その夜、私たちは聖域の自室で緊急作戦会議を開いていた。
議題はもちろん、一つだけ。
『いかにしてリサに、これ以上の増量を悟られないか』である。
『……やはり運動ね、イリス!』
フィオーラは腕を組み、真剣な顔でそう結論付けた。
『そうよ! 私たちの冒険は、美味しいものを食べるという神聖な任務であると同時に、心身を鍛えるための過酷な訓練でもあったはずよ! 歩いて消費する! これこそが完璧な解決策だわ!』
『……フィオーラ。それはただ、摂取カロリーと消費カロリーがとんとんになるだけで、痩せるということには……』
私のあまりにももっともな心での指摘。
しかしフィオーラは、それを得意げな笑顔で一蹴した。
『いいえイリス! 運動量を、摂取量を上回らせればいいのよ!』
その日から私たちの夜の冒険は「聖女様のダイエット大作戦」という新たな名を得て、その様相を一変させた。
以前の私たちは、一つの目的地に着くとそこでゆっくりと食事を楽しんでいた。
だが、今の私たちにそんな余裕はない。
『イリス急いで! あのパイを三分で食べ終えるわよ!』
『食べた後はすぐに次の目的地へ早足で移動! カロリーが体に吸収される前に燃焼させるの!』
『見てイリス! あの串焼き屋までここから五十歩もあるわ! 素晴らしい有酸素運動よ! ご褒美に一人二本ずつ食べましょう!』
私たちの冒険は、もはや「食べ歩き」というよりは「食べ走り」とでも言うべき過酷なものへと変貌していた。
私たちは来る日も来る日も、夜の王都を駆け巡った。
運動のために食べ、食べるために走る。
その無限のループ。
数週間後。
私たちはいつものように作戦を終え、聖域の自室で息を切らしていた。
その疲れ切った私たちの前に、リサが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「聖女様! イリス様! お聞きしたのですが、近頃毎晩、過酷な鍛錬を積んでおられると……!」
どこからか私たちの夜の「食べ走り」が、なぜか「秘密の武術訓練」として侍女たちの間に伝わっているらしい。
まずい、と私とフィオーラは顔を見合わせる。
だがリサは、そんな私たちの心配など気にも留めず満面の笑みを浮かべた。
「その、鍛錬の成果なのですね……!」
彼女は私たちの顔をじっと見つめ、憧れの眼差しでそう言った。
「お二人とも、以前にも増して、ますますお顔がつやつやと健康的に輝いていらっしゃいますわ!」
(((……増えてる!?)))
私たちの心の絶叫が、またしても完璧にシンクロした。
どうやら私たちの過酷なダイエット計画は、まだ始まったばかりのようだった。




