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聖女侍女編5

「琥珀色の果実と涙の味」


『イリス、イリス! 見て、これ!』

昼下がり、聖域の自室でレシピ本をめくっていた私の心に、フィオーラの弾むような声が響いた。 彼女が指差していたのは、王都の地図。私たちがまだ足を踏み入れたことのない、職人たちが多く住む、西の地区だった。

『この地区にね、百年以上も続く、古いお菓子屋さんがあるんですって。侍女たちが噂していたわ。夜になると、ランプの灯りが、まるで宝石箱みたいに綺麗なお店なんだそうよ』

その紫色の瞳は、もうすっかり、まだ見ぬお菓子への期待で満ち満ちている。 名前で呼び合うようになってから、フィオーラは、以前にも増して、素直に、そして、表情豊かになった気がする。

『……危険では、ありませんか? 職人街は、道が入り組んでいると聞きます』

私の心配を、彼女は「大丈夫!」という、太陽のような笑顔で一蹴した。

『イリスがいてくれれば、どんな迷路だって、私たちの遊び場になるわ!』

その、絶対的な信頼。 それが、私にとって、どれほどの喜びであり、そして、どれほどの勇気になるか。 フィオーラは、きっと、まだ知らない。


その夜。 私たちが忍び込んだ職人街は、今まで訪れたどの場所とも、違う顔をしていた。

石畳の道は、迷路のように細く、そして入り組んでいる。 けれど、そこには貧民街のような淀んだ空気も、市場のような猥雑な喧騒もない。 聞こえてくるのは、夜遅くまで続く工房から漏れる、心地よい槌の音や、機織りの音。空気は、どこか、なめした革と、木の屑の匂いがした。

『すごいわ、イリス……』

フィオーラは、ガラス工房の窓に顔を押し付け、職人が作り出す、炎の芸術に、すっかり心を奪われている。

私の心は、不思議と、穏やかだった。 この街の住人たちの思考は、とても静かで、そして、一途なのだ。自らの仕事に対する、誇りと、愛情に満ちている。その、調和の取れた心の音は、私の頭を、少しも、かき乱さなかった。

私は、数少ない夜警の思考を読み、最短で、そして、最も安全な道を選ぶ。

やがて、入り組んだ路地を抜けた先、小さな広場に面して、一軒のお店が、ぽつりと、温かい光を放っているのが、見えた。

噂通り、まるで、闇夜に忘れられた、小さな宝石箱のような、美しい店だった。 あれが、私たちの、今夜の目的地だ。


カラン、と。扉につけられた真鍮のベルが、澄んだ音を立てた。 一歩、店の中に足を踏み入れた瞬間、私たちは、息を呑んだ。

そこは、まさしく、お菓子の宝石箱だった。 磨き上げられたガラスのショーケースの中には、色とりどりの砂糖菓子や、艶やかなチョコレートが、ランプの光を浴びて、きらきらと輝いている。 空気は、砂糖とバターが焦げる甘い匂いと、果物を煮詰めた、芳醇な香りで満たされていた。

「……いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、柔らかな声がした。 店の主であろう、白い髭をたくわえた老紳士が、私たちを見て、穏やかに微笑んでいる。

『……イリス、見て。全部、宝石みたい……』

フィオーラの心から、うっとりとした、ため息のような声が届く。 私たちは、ショーケースに吸い寄せられるように、近づいた。

その中でも、ひときわ私たちの目を引いたのは、一つの、素朴な焼き菓子だった。 黄金色に焼かれたパウンドケーキの中に、まるで、琥珀の宝石が、いくつも埋め込まれているかのように、透き通った色の果実が、きらきらと、輝いていた。

『……私、あれがいいわ』

フィオーラが、指をさす。 私たちの、今夜の宝物が、決まった瞬間だった。


私が、身振り手振りで、その琥珀色のケーキが欲しいと伝えると、老紳士は、にこりと、深い皺の刻まれた目元を和ませた。

「お目が高い。それは、うちで百年、受け継がれてきた特別な製法で作ったものです。日持ちするように、たっぷりの洋酒に漬け込んだ果実を使っておりましてな。……少々、大人向けの、深い味わいですかな」

洋酒。大人向け。 その言葉の意味を、私たちは、まだ、本当の意味で、理解していなかった。ただ、老紳士の語る「百年」「特別」という響きに、フィオーラの期待は、ますます高まっていくばかりだった。

私たちは、丁寧に紙箱に詰められた宝物を手に、店を出た。 宮殿への帰り道、フィオーラの心は、もう、お菓子のことで、いっぱいだった。

『イリス、早く帰りましょう! 早く食べたいわ!』 『どんな味がするのかしら! きっと、琥珀の味がするのよ!』

(琥珀に、味はありません、フィオーラ……)

私の、冷静な心でのツッコミも、彼女の興奮の前では、無力だった。

私たちは、誰にも見つかることなく、無事に、聖域の自室へと帰還する。 今夜の冒険も、大成功。 そのはずだった。 この、美しい宝箱を開ける、その瞬間までは。


『さあ、イリス! 開けて、開けて!』

フィオーラは、テーブルの上に置かれた箱を前に、まるで誕生日のプレゼントを待つ子供のように、目を輝かせている。

私が、丁寧に結ばれたリボンを解き、箱の蓋を開けた瞬間。 ふわり、と。 今まで嗅いだことのないような、芳醇な香りが、部屋いっぱいに広がった。 甘い、けれど、ただ甘いだけではない。焼かれた小麦とバターの香りに、果実の蜜のような香りと、そして、私たちの知らない、どこか、胸の奥をくすぐるような、不思議な香りが混じり合っていた。

私が、ケーキを二切れ、お皿に取り分ける。 琥珀色の果実は、ランプの光を受けて、内側から、淡い光を放っているかのようだった。

私たちは、顔を見合わせ、同時に、フォークを手に取った。 そして、最初の一口を、口に運ぶ。

「……!」

口の中に広がったのは、衝撃的な味だった。 しっとりとした、濃厚なバターの風味。それに続く、果実の、凝縮された甘みと、ほのかな酸味。 そして、最後に。 舌の上を、ぴりり、と刺激する、不思議な感覚と、体の芯が、じんわりと、温かくなるような、初めての感覚。

『……なに、この味!』

フィオーラの心から、驚きと、興奮に満ちた声が、迸った。

『甘いのに、ぴりりとして、体が、ぽかぽかしてくる……! これが、「百年」の味なのね!』

私たちは、その、あまりにも複雑で、奥深い、「大人」の味の虜になって、夢中で、二口目、三口目と、ケーキを頬張るのであった。


私たちは、その魅惑的なケーキを、一切れ、また一切れと、夢中で食べ進めた。 半分ほど食べ終えた頃だろうか。私の体に、奇妙な変化が起きていることに、気づいた。

いつも私の頭を悩ませる、思考の洪水。その、不快なノイズが、まるで、分厚い壁の向こう側へと遠ざかっていくように、静かになっていくのだ。 世界が、心地よく、穏やかになる。 同時に、体の芯から、ぽかぽかと、血が巡るような、温かい感覚。

「ふふ……ふふふ……」

向かいを見ると、フィオーラは、もっとわかりやすい変化を遂げていた。 彼女の、雪のように白い頬は、ほんのりと、上気して、桜色に染まっている。その紫色の瞳は、普段よりも、潤んで、とろりとしていた。

『ねえ、イリス……なんだか、楽しいわ……!』

彼女の心から届く声は、どこかふわふわとして、呂律が回っていない。

『このケーキ、魔法のケーキなのね! 食べると、世界が、きらきらして見えるわ……!』

そう言って、彼女は、何がおかしいのか、くすくすと、一人で笑い転げている。 その、あまりにも無防備で、楽しげな姿。 つられて、私も、ふふ、と笑みを漏らした。 頭が、少しだけ、ふわふわする。

(……なんだか、おかしい)

けれど、私の理性の片隅で、小さな、小さな警鐘が、鳴り始めていた。 これは、ただの、ケーキを食べた時の、幸福感とは、何かが違う、と。


私の脳裏に、あの店の老紳士の言葉が、不意に蘇った。

『日持ちするように、たっぷりの洋酒に漬け込んだ果実を使っておりましてな。……少々、大人向けの、深い味わいですかな』

洋酒……。 私の、前世の記憶の、さらに奥底。そこに、忘れ去られていた知識が、一つ、浮かび上がってくる。 アルコール、という言葉。酔う、という現象。

(……洋酒……お酒……! そうか、これは……!)

私は、血の気が引いていくのを感じた。 私たちは、ただのお菓子を食べていたのではなかったのだ。

『フィオーラ、大変です! このお菓子には、お酒が……!』

私の、焦りに満ちた心の声。 だが、それを受け取ったフィオーラは、きょとん、と、子供のように、首を傾げた。

『お酒? それがどうかしたの、イリス?』

彼女は、心の底から、わかっていないのだ。 自分が今、どれほど、無防備で、危険な状態にあるのかを。

『美味しいわよ、これ! あなたも、もっと食べなさいな!』

そう言って、彼女は、琥珀色の果実を一つ、フォークで掬うと、私の口元へと、無邪気に運んでくる。

もう、手遅れだった。 私たちの、理性のタガは、もう、外れかかっているのだから。


フィオーラの無邪気な勧めを、私は、もう、断ることができなかった。 差し出されたフォークから、琥珀色の果実を、一口、受け入れる。 甘くて、苦くて、そして、温かい。その味が、私の最後の理性を、ゆっくりと、溶かしていく。

やがて、フィオーラの、楽しげだった笑い声が、ぴたりと、止んだ。 彼女は、潤んだ瞳で、じっと、私の顔を見つめていた。

『ねえ、イリス……』

その心からの響きは、先ほどまでの、ふわふわとした響きとは違う。もっと、ずっと、切実で、そして、心細い響きだった。

『イリスは、ずっと、私の隣にいてくれる……?』

その、あまりにもまっすぐな問いかけに、私は、胸が、締め付けられるような、甘い痛みを感じた。 私は、何も言わずに、こくりと、力強く頷く。そして、彼女の、少しだけ冷たい手を、両手で、ぎゅっと、包み込んだ。

(はい、もちろんです、フィオーラ)

私の心からの誓い。 けれど、フィオーラの瞳に浮かんだ不安の影は、消えなかった。 彼女は、おもむろに、私の体を、小さな子供のように、ぎゅうっと、強く、強く、抱きしめた。

『……いなくならないでね、イリス』

その声は、震えていた。


私の腕の中で、フィオーラの、か細い心の声が、途切れ途切れに、響いた。

『……みんな、いなくなってしまうの』

『私が、ようやく、その人の癖とか、好きなもののことを覚えた頃には、もう、みんないなくなってる』

『最初は、侍女たちが、私の前から去っていく。次は、騎士たちが。王様だって、いつの間にか、知らない顔になってる。私だけが、ずっと、ずっと、この部屋に、取り残されていくの』

それは、私が初めて聞く、彼女の、本当の心の叫びだった。 何百年という、永い、永い時を生きてきた彼女が、その胸の奥に、ずっと、ずっと、しまい込んできた、孤独という名の、古い傷。

『だから、もう、誰とも、仲良くなるのはやめようって、決めていたのに……』

『イリスが、ぜんぶ、壊しちゃった』

それは、非難の響きではなかった。 ただ、どうしようもなく、愛おしいものを見つけてしまった、戸惑いと、そして、それを、いつか失うことへの、深い、深い、恐怖の色をしていた。


フィオーラの、何百年分もの孤独。 その、あまりにも重い痛みが、私の心に、ずしりとのしかかる。 私は、ただ、彼女の小さな背中を、優しく、優しく、撫でてやることしかできなかった。

その時だった。 私の頭の中で、何かが、ぷつり、と切れる音がした。

アルコールによって、無理やり、静かになっていた、私の世界。 その、偽りの静寂が、終わりを告げたのだ。

ざあ、と。 今まで聞こえなかった、宮殿中の人々の心の声が、決壊したダムの水のように、一気に、私の頭の中へと、なだれ込んできた。 それは、いつもの、ただのノイズではなかった。 眠りによって、理性のタガが外れた、人々の、剥き出しの感情。 悪夢にうなされる騎士の恐怖。故郷を思う侍女の郷愁。明日の仕事を憂う料理人の不安。 その全てが、何のフィルターもなく、私の意識を、めちゃくちゃに、かき混ぜていく。

「―――っ!」

私は、こめかみを押さえ、その場にうずくまった。 痛い。気持ち悪い。頭が、割れそうだ。

『イリス……?』

腕の中で、フィオーラが、心配そうに、私の名前を呼ぶ。 けれど、私にはもう、彼女の澄んだ声さえも、この濁流の中から、聞き分けることが、できなくなっていた。


その、思考の濁流は、私に、忘れようとしても忘れられなかった、あの日の記憶を、呼び覚ました。

幼い私が、街で目撃した、荷馬車の暴走事故。 怪我をした人の、骨が砕ける、激しい「痛み」。 周囲の人々の、絶叫と、逃げ惑う「パニック」。 その全てが、今の、この宮殿のノイズと重なり合い、私の中で、一つの、巨大な怪物となって、暴れ出す。

『化け物だ!』 『あの子のせいだ!』

違う、違う、違う!

私は、両手で、強く、強く、頭を抱えた。 全身が、まるで熱病に浮かされたかのように、がたがたと震え出す。

やめて、やめて、やめて!

私の、心の叫びと、共鳴するように。 テーブルの上に置かれていた、ティーカップが、カタカタと、微かな音を立てて、震え始めた。 開かれたままだったレシピ本のページが、風もないのに、ぱらぱらと、勝手に、めくれていく。

『イリス、どうしたの!? 何が起きているの!?』

フィオーラの、恐怖に染まった声が、遠くに聞こえる。 けれど、私にはもう、答えることが、できなかった。

私は、再び、あの日の、孤独な、化け物に戻ってしまったのだから。


『イリス! イリス、しっかりして!』

フィオーラは、私の肩を必死に揺さぶる。けれど、私の耳には、もう、彼女の優しい声は届かない。 頭の中は、過去の絶叫と、現在のノイズが混じり合った、地獄の釜のような混沌。

「どうしよう、どうしよう……!」

フィオーラは、狼狽えた。 アルコールで、思うように働かない頭。目の前で、原因不明の苦痛に苛まれる、たった一人の友人。そして、カタカタと震え続ける、部屋の調度品。

彼女は、どうすればいいのか、わからなかった。

『イリスの心を、聞かせて……!』

言葉では、もう、届かない。 ならば、と。フィオーラは、生まれて初めて、自らの意志で、その力の使い方を、模索した。 他者の感情に、ただ、共鳴するだけだった、自らの、か弱い「音叉」としての力。 それを、無理やりに、イリスの心の扉に、叩きつける。

その瞬間。

フィオーラの頭の中に、凄まじい奔流が、叩きつけられた。

―――骨が砕ける、誰かの激痛。燃えるような、恐怖。耳をつんざく、絶叫。そして、無数の声が、一つの言葉を、告げていた。

『化け物』『化け物』『化け物』『化け物』『化け物』―――!

「―――ひっ!」

フィオーラは、あまりの衝撃に、思わず、私から手を離してしまった。 今のは、何? あれが、イリスが、ずっと、一人で、抱え込んできた、世界の本当の姿だというの?


あまりの衝撃に、フィオーラは、思わず、私から手を離してしまった。

今のは、何? あれが、イリスが、ずっと、一人で、抱え込んできた、世界の本当の姿だというの?

今まで、イリスの心は、私にとって、静かで、穏やかな、澄み切った湖だった。 けれど、今、私が垣間見てしまったのは、その湖の底に、ずっと、ずっと、沈められていた、古戦場の光景。 痛みと、恐怖と、憎しみの、おぞましい記憶の奔流。

「……っ、いや……!」

フィオーラは、震える手で、自らの口を覆った。 アルコールで火照っていたはずの体が、急速に冷えていく。 怖い。 今まで感じたことのない、本能的な恐怖が、彼女の心を支配した。

けれど。

目の前で、うずくまり、小さく震え続ける、私の姿。 あの、地獄のような奔流に、たった一人で、飲み込まれそうになっている、私の、たった一人の友人の姿。

フィオーラの心の中で、恐怖よりも、ずっと、ずっと強い感情が、燃え上がった。

(……助けたい)

彼女は、もう一度、震える手を、私の肩に、そっと、置いた。 そして、今度は、逃げないと、固く、固く、誓った。


どうすれば、この嵐を、鎮められる? どうすれば、この、地獄の釜の底から、イリスを、救い出せる?

言葉は、届かない。 ならば、と。フィオーラは、目を閉じた。 そして、自らの記憶の、一番、奥深く。その、輝くような宝箱を、開いた。

思い出すのは、私たちの、冒険の味。

初めて訪れた、あのパン屋さんの、石窯の、じんわりとした温かさ。 お婆さんがくれた、野菜の優しい甘みが溶け込んだ、スープの味。 港町で食べた、魚の串焼きの、ぱりぱりと香ばしい皮の食感。 井戸の縁で、二人で分け合った、熱々のミートパイの、スパイシーな香り。

フィオーラは、その、温かくて、美味しくて、幸せな記憶だけを、必死に、必死に、束ねていく。 そして、自らの、か弱い「音叉」の力を、今度は、彼女の心に、音楽を「聞かせる」ために、全力で、鳴らした。

私の、絶叫とノイズで満たされた、暗黒の世界に。 不意に、一つの、温かい光が、差し込んだ。

(……パン、の、匂い……?)


私の、暗闇の世界。 そこに、次々と、温かい光が灯っていく。

パンの匂いだけじゃない。 野菜の甘い味がする、あのスープの温かさ。 チーズがとろける、しょっぱいパイの味。

それは、フィオーラの心の音。 私が、この世界で、唯一、「心地よい」と感じられる、優しい音楽。

うるさい、うるさい、うるさい! 私の頭の中で、過去の亡霊たちが、まだ、叫んでいる。 『化け物』と、私を罵る声がする。

けれど、私は、その声から、耳を塞いだ。 そして、必死に、必死に、フィオーラの奏でる、温かい音楽の方へと、手を伸ばす。

その、温かい光を、掴もうと。

すると、どうだろう。 あれほど、私の心を支配していた、憎悪と恐怖の濁流が、少しずつ、勢いを失っていく。 遠ざかっていく。

カタカタと震えていた、ティーカップの音も、止んだ。 私の、体中の震えが、ゆっくりと、ゆっくりと、収まっていく。

私は、恐る恐る、顔を上げた。 目の前には、フィオーラがいた。 アルコールと、そして、必死の形相で、顔を真っ赤にしながら、私の肩を、強く、強く、掴んでいた。


『……イリス!』

私の意識が、はっきりと、彼女の姿を捉えたのを、確認して。 フィオーラの心から、安堵の響きが、ほとばしった。

『よかった……! 本当に、よかった……!』

彼女は、そう言うと、私を掴んでいた腕の力を、ふっと抜いた。 緊張の糸が切れたのだろう。彼女は、そのまま、私の肩に、こてん、と、額を預けた。 その体は、まだ、小刻みに、震えている。

『……大丈夫、イリス?』

私の心にだけ届く、か細い声。 私は、まだ、少しだけ、ぼんやりとする頭で、ゆっくりと、頷いた。

そして、生まれて初めて、自らの意志で、私の、心の傷の、ほんの一欠片を、彼女に、見せることを決めた。

『……怖かった、です』

私の、途切れ途切れの心の声。

『みんなの声が、とても、痛くて……』

フィオーラは、何も言わなかった。 ただ、私の言葉に、静かに、耳を傾けてくれていた。 そして、私の肩に乗せた額に、ぎゅっと、力を込めた。

まるで、「私は、ここにいるよ」と、言ってくれているかのように。


フィオーラは、ゆっくりと、私の肩から顔を上げた。 アルコールのせいではない、熱に潤んだ瞳で、まっすぐに、私の瞳を、見つめ返した。

『私が、いるわ』

その心からの声は、もう、震えていなかった。 聖女でも、子供でもない。一人の、友としての、力強い響きだった。

『私がいるわ、イリス。あなたの、隣に』

彼女は、私の手を、もう一度、強く、強く、握りしめた。

『この世界が、あなたにとって、どれほどうるさくて、痛い場所なのか、少しだけ、わかった気がする。だから、約束するわ』

『これからは、私が、あなたの聞きたい、美味しい音だけを、一緒に、見つけてあげる』

パンが焼ける音。スープが煮える音。市場の、活気あるざわめき。 そして、優しい人の、温かい心の声。 その全てを、私が、あなたのために。

その、あまりにも、力強くて、優しい約束。 私の心の、一番、奥深く。凍てついていた何かが、ぽろり、と、音を立てて、剥がれ落ちた。


私は、ただ、一言だけ、心で返した。

『……はい、フィオーラ』

たったそれだけの言葉に、私の、ありったけの感謝と、信頼と、そして、友情を込めて。

フィオーラは、満足そうに、にっこりと微笑んだ。 そして、私の知らないところで、彼女もまた、一つの、新しい誓いを、立てていた。

(……いつか、イリスも、私の前から、いなくなる日が来るのかもしれない。でも、もう、その痛みを、恐れるのはやめよう。私は、この、温かい今を、全力で、生きるのだ。彼女と、共に)

アルコールと、そして、あまりにも濃密すぎた感情の嵐。 その両方に、私たちの体力は、もう、限界だった。

私は、近くの長椅子ソファから、一枚の、厚手の毛布ブランケットを取ると、床に座り込んだままのフィオーラの肩に、そっと、かけた。 フィオーラは、ありがとう、と小さく心で呟くと、その毛布の端を、私の肩にも、かけてくれる。

私たちは、一つの毛布にくるまり、ただ、黙って、寄り添っていた。 もう、言葉は、いらなかった。 お互いの、傷の痛みを、そして、その傷を、慈しみ合う心を、私たちは、もう、知ってしまったのだから。


やがて、隣から、すー、すー、と。 穏やかで、規則正しい、寝息が聞こえ始めた。 フィオーラの意識が、安らかな眠りの海へと、旅立っていったのだ。

私も、もう、限界だった。 まぶたが、鉛のように、重い。 思考が、心地よい霧の中に、溶けていく。

(……温かい)

最後に、そう、思った。

いつもは、私を苛む、たくさんの人々の思考のノイズ。 その代わりに聞こえるのは、隣で眠る、たった一人の、友人の、穏やかな心の音だけ。

ああ、ここが、私の、本当の居場所なのだ。 この、うるさい世界で、ようやく見つけた、私だけの、聖域。

私は、フィオーラの寝顔に、そっと、寄り添うようにして、意識を、手放した。 テーブルの上には、半分だけ食べられた、琥珀色のケーキが、私たちの、激しくて、そして、優しい夜の、唯一の証人のように、ぽつんと、残されていた。


翌朝。 私が最初に感じたのは、床で寝てしまったことによる、体の節々の、柔らかな痛みだった。

次に感じたのは、肩の重みと、温もり。 フィオーラが、私に、すっかり体を預けるようにして、まだ、すやすやと、穏やかな寝息を立てていた。

そして、最後に、気づいた。 世界の「音」が、昨日までとは、全く違って聞こえることに。

宮殿のノイズは、相変わらず、そこにある。 けれど、もう、私の心を、直接、かき乱すことはなかった。 まるで、私の心と、世界の間に、フィオーラという名の、温かいフィルターが、一枚、挟まれたかのように。 全ての音が、遠くに、そして、どこか、優しく聞こえた。

私は、起こさないように、そっと、フィオーラの寝顔を、見つめる。 聖女の仮面も、長命種の諦観も、全て脱ぎ捨てた、ただの、あどけない少女の顔。 私の、かけがえのない、たった一人の友人。

胸の奥から、今まで感じたことのない、愛おしいような、守ってあげたいような、温かい感情が、泉のように、湧き上がってきた。


やがて、フィオーラも、ん、と小さく身じろぎをして、ゆっくりと、その紫色の瞳を開いた。

『……うぅ……頭が、割れそう……。それに、体中が痛いわ……』

心の中で、盛大に、不満の声を上げる。昨日、あれほど「魔法のケーキ」だと絶賛していたことなど、すっかり忘れてしまったかのようだ。 彼女は、のろのろと身を起こすと、自分が床で、しかも、私に寄りかかって眠っていたことに気づき、一瞬、きょとんとした顔をした。

そして、昨夜の記憶が、濁流のように、彼女の頭の中に、蘇ってきたのだろう。 みるみるうちに、彼女の耳の先まで、真っ赤に染まっていく。

『……べ、別に! 昨日のことなんて、酔っ払ってたんだから、全部、忘れてもいいんだからね!』

心の中の声は、そう叫んでいる。 けれど、その瞳は、「忘れないで」と、必死に、私に、訴えかけていた。 その、あまりにも、いじらしい強がりに、私は、思わず、笑みをこぼした。

(忘れませんよ、フィオーラ)

私の、心からの返事。 それに、彼女は、ふいっと、顔をそむけた。 その、真っ赤になった耳を、隠すように。


気まずいような、それでいて、どこか、くすぐったいような、不思議な沈黙。 それを破ったのは、テーブルの上に、無残な姿で残されていた、あのケーキだった。

私たちの視線が、同時に、そちらへと注がれる。 半分だけ食べられた、琥珀色のケーキ。 昨夜の、私たちの、狂騒と、涙と、そして、誓いの、唯一の証人。

フィオーラは、それを見ると、心底、うんざりしたような顔をした。

『……もう、こりごりだわ』

心からの、本音だった。

『「大人向けの味」って、こういうことだったのね……。あの店の主、もっと、はっきり教えてくれればよかったのに』

私は、その言葉に、静かに頷く。 そして、床に落ちたままだった毛布を拾い上げ、丁寧に、畳み始めた。 私たちの、小さな嵐の、後片付けだ。

フィオーラも、私の意図を察したのだろう。 彼女は、テーブルの上のお皿とフォークを、静かに、片付け始めた。

二人、無言のまま。 けれど、その沈黙は、少しも、気まずくはなかった。 まるで、何十年も連れ添った夫婦のように、穏やかで、そして、当たり前の空気が、私たちの間に、流れていた。


部屋が、あらかた綺麗になった頃。 最後に残ったのは、テーブルの上の、あの琥珀色のケーキだった。

フィオーラは、腕を組み、まるで宿敵でも睨みつけるかのように、そのケーキを、じっと見つめていた。

『……こいつのせいで、私たちは、ひどい目にあったわ』

私の心に、恨み節のような声が届く。

『ええ、本当に。頭も痛かったし、心臓も、きゅってなったし……』

(……でも、と、フィオーラは続けた)

『……悪いことばかりでも、なかった、かも』

彼女は、そう言うと、ふっと、照れくさそうに、笑った。

『でも、もう、こりごりなのは、本当。だから……』

彼女は、お皿ごとケーキを持つと、窓辺に置かれた、一番大きな観葉植物の植木鉢のところまで、歩いていった。

『このケーキには、ここで、安らかに、眠ってもらいましょう』

そう言って、彼女は、まるで、お墓に亡骸を埋めるかのように、残ったケーキを、植木鉢の土の上へと、そっと、置いたのだった。 私たちの、甘くて、苦くて、そして、忘れられない夜の、ささやかな、お葬式だった。


コンコン、と。 控えめなノックの音が、扉の向こうから聞こえた。 朝の挨拶と、今日の予定を告げに、侍女が来たのだ。

はっとして、私たちは、顔を見合わせた。 私たちの、二人だけの夜は、終わり。 これから、私たちは、また、「聖女様」と、「口のきけない侍女」に、戻らなくてはならない。

フィオーラは、すっと、表情を変えた。 先ほどまでの、子供のような無邪気さも、気まずそうな照れ笑いも、全てを、完璧な能面の下に隠してしまう。 そこには、いつもの、神秘的で、近寄りがたい、聖女フィオーラ様の姿があった。

私もまた、一歩下がり、主の影に徹する、物言わぬ侍女へと戻る。

「失礼いたします」

入ってきた侍女は、私たちの、完璧な演技に、何も気づく様子はない。 ただ、一礼し、今日の予定を、淡々と告げるだけだった。

けれど、その時。 私の心にだけ、フィオーラの、悪戯っぽい声が、そっと、届いた。

『……今日の夜は、静かに、お茶だけにしましょうね、イリス』


私は、誰にも気づかれないように、ほんの、ほんの少しだけ、頷きを返した。 その、ささやかな合図。 それを受け取ったフィオーラの心から、ふふ、と、楽しげな響きが、私にだけ、聞こえた。

侍女が部屋を去り、私たちの、いつも通りの一日が、始まる。 フィオーラは、聖女として、祈りを捧げ、古文書を読み解き、私は、その影として、彼女に仕える。

けれど、その日常は、もう、昨日までとは、全く違うものになっていた。

私の心は、穏やかだった。 フィオーラの、温かい心の音が、まるで、優しい音楽のように、常に、私のそばで、流れているから。

そして、時折。 祈りの合間に、フィオーラは、こっそり、私にだけ、心の声を送ってくる。

『イリス、お腹すいた……』 『イリス、退屈だわ……』 『イリス、あのケーキ、やっぱり、もう一度だけ、食べてみたいかも……』

私は、そのたびに、心の中で、小さく、ため息をつく。 けれど、そのやり取りが、どうしようもなく、愛おしくて、たまらなかった。 鳥かごの中の、退屈な日常。 それが、二人だけの秘密を共有することで、かけがえのない、宝物の時間に変わっていく。

私たちの絆は、もう、夜だけの、秘密ではなかったのだ。


その日の夜。 私たちは、約束通り、甘いお菓子ではなく、温かいハーブティーだけを、静かに飲んでいた。

フィオーラは、窓辺に立ち、あの、ケーキを埋めた、観葉植物の植木鉢を、じっと、見つめていた。

『……イリス』

彼女の心から、静かな、けれど、真剣な響きが、私に届いた。

『昨日の夜、あなたの心の中を、少しだけ、見てしまった』

私は、ティーカップを持つ手を、ぴたりと止める。

『全部は、わからない。ううん、きっと、ほんの少ししか、わかってあげられていないのだと思う。でも、あなたの世界が、どれほど、痛くて、苦しい音で、満ちているのか……ほんの少しだけ、触れた気がしたの』

彼女は、窓の外の闇に、視線を移した。

『だから、思ったの。私たちの冒険は、もう、ただ、お腹を満たすためのものじゃないんだって』


フィオーラは、私の方へと、くるりと向き直った。 その瞳には、決意の光が、強く、強く、灯っていた。

『あなたの、そのうるさい世界を、美味しい音で、いっぱいにしたいの』

『パンが焼ける音。スープが煮える音。市場の、活気あるざわめき。優しい人の、温かい心の声。そういう、キラキラした、美味しい音で、あなたの心を、満たしてあげたい』

『これは、もう、私のわがままじゃない。私たちの、新しい冒険の、目的なのよ』

その、あまりにも優しく、そして、力強い宣言。 私は、ティーカップを持つ手が、微かに震えるのを感じた。

この人は、私の、呪いを、呪いだと、言わなかった。 ただ、静かに、寄り添い、そして、共に、戦うと、言ってくれている。

『……はい、フィオーラ』

私は、心の中で、深く、深く、頷いた。

『あなたの、その優しい目的のために。私の、この呪われた力、その全てを、使いましょう』

私たちの冒険に、新しい名前が、与えられた瞬間だった。


私たちは、それから、何も言わずに、ゆっくりと、お茶を飲み干した。 もう、気まずさも、遠慮も、何もなかった。 ただ、お互いが、お互いの、一番、安全で、温かい場所なのだという、確信だけが、そこにあった。

やがて、フィオーラは、テーブルの上に置かれたレシピ本を、そっと手に取った。 そして、私たちの、今回の冒険の記録である、「琥珀色の果実のパウンドケーキ」のページを開く。

「……ねえ、イリス」

彼女は、悪戯っぽく、笑った。

「このケーキの項目に、一つだけ、大事な注意書きを、書き加えておきましょうよ」

私は、ペンを手に取り、彼女が、これから紡ぐであろう言葉を、待った。 フィオーラの、少しだけ、楽しげで、そして、どこまでも、優しい心の声が、部屋に響いた。

『備考:たいへん、美味。ただし……』


私は、ペンを手に取り、彼女が、これから紡ぐであろう言葉を、待った。 フィオーラの、少しだけ、楽しげで、そして、どこまでも、優しい心の声が、部屋に響いた。

『備考:たいへん、美味。ただし……』

彼女は、そこで、一度、言葉を切った。 そして、私の顔を、じっと見つめ、悪戯っぽく、笑う。

『……二人で食べること。一人で食べると、世界が、少しだけ、うるさくなる、かも?』

その、あまりにも、彼女らしい注意書き。 私は、思わず、吹き出してしまった。 そして、彼女が紡いだ言葉を、一言一句、違えることなく、羊皮紙の上へと、書き記していく。

私たちの、新しい約束。 それは、どんな時も、二人で、分け合うということ。 美味しいものも、楽しいことも、そして、悲しいことも、うるさいことも、全部、全部、二人で。


私がペンを置くと、フィオーラは、そのページを愛おしそうに、そっと撫でた。 そして、私たちの、たくさんの秘密と、約束が詰まったその本を、ぱたん、と静かに閉じた。

私たちの、甘くて、苦くて、そして、忘れられない、一夜の冒険の記録。 それは、確かに、そこに、記されたのだ。

フィオーラは、私の顔を見て、にっこりと、花が綻ぶように、笑った。 その瞳には、もう、一片の曇りもなかった。

『さあ、イリス』

彼女の、明るい心の声が、私の心に、優しく、響き渡る。

『明日は、どんな「美味しい音」を、探しに行こうか?』

私は、言葉の代わりに、満面の笑みで、力強く、頷き返した。

私たちの、本当の冒険は、まだ、始まったばかりなのだから。 この、世界で一番、温かい食卓で。 二人きりの、私たちのための、この食卓で。

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