第1章 沈黙の侍女と空腹の聖女
この世界は、あまりにもうるさい。
私には聞こえる。
純白の化粧漆喰で塗り固められた、壮麗な宮殿。そのどこまでも続く長い廊下を行き交う人々が、顔に貼り付けた無表情の下で、一体何を考えているのかが。
磨き上げられた大理石の床を滑るように通り過ぎるメイドたちの、『聖女様付きですって? 見たこともない顔ね。どうせすぐクビになるに決まってるわ』という、砂糖菓子にまぶされた毒針のような嘲笑まじりの嫉妬。
壁際に彫像のように立つ騎士たちの、『すべては聖女様のため、この国の安寧のため。我が身命を賭して』という、鞘から抜き放たれることのない剣の、鈍い光を宿した忠誠。
そして、はるか遠く、陽光の届かぬ宮殿の厨房で、巨大な寸胴鍋をかき混ぜる料理人の、『ああ、今日の昼餉は何にしようか。昨日の残りの豆でスープでも作るか』という、気の抜けた退屈。
尊敬、嫉妬、忠誠、退屈、欲望――。
それら無数の心の声が、意味のないノイズの洪水となって、私の頭の中に絶え間なく流れ込んでくる。それはまるで、決して底が見えることのない沼から溢れ出した汚泥のように、私の意識にねっとりとこびりついて、決して離れようとはしなかった。
転生者。 それが、何だというのだ。
物語で読んだような、世界をひっくり返す特別な力なんて、何一つ与えられなかった。この身に宿ったのは、他人の感情に勝手に同調し、その思考を盗み聞きしてしまう、呪いのようなこの共感能力だけ。
前世の言葉は通じず、気味悪がられ、時には道端の子供に石を投げつけられ、心を閉ざして生きるだけの日々。いつしか私は、自ら口を閉ざすことを選んだ。沈黙は、鳴り止まない世界のノイズから自分を守るための、か弱くも必死の抵抗。私だけの、小さな防音壁だ。
「……着いたぞ」
私の前を歩いていた案内役の神官が、重々しい扉の前で足を止める。その声は、まるで罪人に判決を言い渡すかのように、冷たく、そして何の感情も含まれていなかった。
「ここが、聖女様の祈りの間です」
神官は私に一度も視線を合わせることなく、ただ目の前の扉に向かってそう告げた。樫の木で作られた扉は、まるでこの先の運命を暗示するかのように、装飾過多で、息が詰まるほど重々しい。
「あなたは本日より、聖女様のお世話係。口がきけないあなたなら、聖女様の秘密を守るにふさわしいと、大神官様が直々にお選びになった。……せいぜい、お役に立ちなさい」
その言葉とは裏腹に、彼の心からは、氷のように冷たい侮蔑が、何のフィルターもなく私に流れ込んでくる。
(どうせこいつも、これまでの侍女たちと同じだろう。せいぜい一月もてば良い方か。まあ、話せない人形の方が、余計なことを考えなくて好都合ではあるがな)
もう、慣れた。
期待なんて、とうの昔に捨てている。
私がどう思われようと、どうでもいい。ただ、この絶え間ないノイズから解放されるのなら。
神官が扉に手をかけると、ギィ、と古びた蝶番が悲鳴を上げた。
ゆっくりと開かれていく扉の隙間から、一条の光が漏れ出し、私の足元を照らす。そして、光と共に、部屋の中から独特の空気が流れ出してきた。長い間焚きしめられたままになっている、古い香の匂い。そして、人の感情が極限まで希薄になった、墓所のような静けさ。
今日から仕えることになった、新しい主。「聖女」と呼ばれる少女が幽閉されているという、この宮殿の最奥。光もろくに届かない、美しい鳥かごの終点が、きっと私の終の棲家になるのだろう。
扉が、完全に開け放たれた。
神官に促されるまま、私は機械的に一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
そこは、祈りの場と呼ぶにはあまりにも寂しく、部屋と呼ぶにはあまりにも広すぎる空間だった。高い、高い天井。壁にはめ込まれたステンドグラスは、分厚い埃のフィルターを通して、弱々しい光を床に落としているだけ。空気はひやりと冷たく、まるで何百年もの時が澱のように溜まっているかのようだった。
そして、そのがらんとした部屋の、ちょうど真ん中。
窓から差し込む一筋の光の中に、一人の少女が、ぽつんと座っていた。
陽光を反射して、プラチナのように輝く銀の髪。どんな装飾品よりも滑らかな白い肌。そして、人間とは明らかに違う、しなやかに尖った耳。
およそ生身の人間とは思えない、精緻な人形のような美しさ。
あれが――「聖女」様。
ああ、もういい。どうでもいい。
これから毎日、あの人形のお世話をして、静かに時が過ぎるのを待つだけだ。どうせ私のことなど、誰も気にしない。誰も見ようとしない。ただの、言葉を話せない便利な道具として、ここに置かれるだけ。
それでいい。それがいい。
ただ、静かになりたい。
何も聞こえない、何も感じない、完全な無音の世界に行きたい。
そう願って、部屋の隅でうずくまり、自らの心の殻に閉じこもろうとした、まさにその瞬間だった。
私の心に。
不意に、全てのノイズを貫いて、たった一つ。
澄み切った鈴のような声が、直接、響いた。
『――お腹、すいてない?』
それは、今まで私が聞いてきた、どんな心の声とも違っていた。
思考の洪水がもたらす、耳鳴りのような不快なノイズではない。
まるで、凍えきった真冬の夜に、温かいスープを一滴、心に垂らされたような。じんわりと、そして優しく染み渡っていく、柔らかな響き。
生まれて初めて「心地よい」と感じる、他人の心だった。
私は、弾かれたように顔を上げた。
そこには、銀髪の聖女様――エルフが、大きな紫色の瞳で、私をじっと見つめていた。その顔に浮かんでいるのは、聖女らしい慈愛でもなければ、幽閉された者の憂いでもない。
まるで、新しい玩具を見つけた子供のような、純粋で、悪戯っぽい好奇心の色だった。
『聞こえるでしょう? 私の声』
頭の中に直接響く、楽しげな声。
私は、ただ呆然と、こくりと頷くことしかできなかった。
『よかった!』
聖女様は、花の綻ぶような笑顔を見せた。そして、音もなく立ち上がると、すとんと私の隣に座り込む。ふわりと、陽だまりのような甘い香りが、私の鼻先をくすぐった。
『あなたの心はね、なんだかとても静かで、私の声がよく届くみたい。まるで、澄んだ湖の水面みたいだわ』
彼女はそう言うと、嬉しそうにころころと笑う。
その屈託のない心の音色は、今まで私を苛んできたどんなノイズとも違う、美しい音楽のようだった。
聖女様は、私の心に響かせた自らの声の余韻を楽しむように、満足げに一つ頷いた。
そして、悪戯が成功した子供のように、紫色の瞳をきらりと細める。
『ねえ、あなた、面白いものを持っているのね』
『……?』
『さっき、あなたの頭の中をちょっとだけ覗いちゃった。ごめんなさいね? でも、すごく美味しそうなものが見えたの』
その言葉に、私の心臓が氷水に浸されたかのように、きゅっと縮み上がった。
覗かれた? 私の、頭の中を?
私の、前世の記憶。
それは、このあまりにもうるさい世界への絶望を忘れるために、私が時折こっそりと思い描いていた、唯一にして最後の聖域だった。誰にも汚されない、私だけの逃避場所。
スマホの画面越しに見た、湯気の立つラーメン。バターがとろける黄金色のパンケーキ。とろりとしたチーズがどこまでも伸びるピザ。この世界には存在しない、幸福の色と形をした食べ物たち。
それを、この人に見られたというのか。
『あのね、黄色くて細い麺の上に、お肉とかお野菜とか、いろんなものが乗ってるやつ! それから、丸くてふわふわした生地に、甘い蜜がとろーりとかかってるやつ!』
私の狼狽などお構いなしに、彼女は瞳を星のように輝かせ、まくし立てる。どうやら、私の記憶を鮮明な映像として見たらしい。
聖女という役割を完全に忘れ去ったその横顔は、ただ未知の食べ物に心を奪われた、一人の少女のものだった。
『私、ああいうの、食べてみたい!』
私の心に響いたその声は、もはや単なる好奇心の色をしていなかった。それは、生まれてからずっと井戸の底にいた者が、初めて空の青さを知ってしまったかのような、切実で、どうしようもない渇望の響きだった。
あまりに突拍子もない言葉に、私はただ瞬きを繰り返すことしかできない。
聖女様。国の礎。清浄なる祈りを捧げることで、この国に平和をもたらす尊い存在。そんなお方が、一介の侍女の、それも前世の記憶を覗き見て、食べたことのない異国の料理に、これほどまで焦がれている。
『でもね、宮殿の食事はいつも決まってるの』
彼女の声のトーンが、ふと落ちる。光を宿していた紫色の瞳に、諦観の影が差した。
『聖性を保つため、ですって。味気ないスープと、石みたいに硬いパンだけ。毎日、毎日、来る日も来る日も、同じもの。だから――』
彼女はぐっと顔を近づけ、声を潜めた。その紫色の瞳が、私を共犯者へと誘うように、妖しく細められる。
『お願い。私を、ここから連れ出して』
それは、あまりにも魅力的で、そして、あまりにも危険な提案だった。
このお方は、ご自分が「聖女」という役割を担っていることを、本当に理解しているのだろうか。そして私が、何の力もない、ただの口のきけない転生者だということを、知っているのだろうか。
私の心の動揺を、彼女は敏感に感じ取ったのだろう。聖女様は、ふふん、とどこか得意げに胸を張ってみせた。その根拠のない自信と、無自覚な優越感に、私は少しだけ呆れてしまう。
『大丈夫よ。あなたは私がいないと、こんな退屈な場所で一生を終えることになるもの。私が、知らない世界を教えてあげる』
その言葉は、まるで慈悲深い女王が、哀れな民に救いの手を差し伸べるかのようだった。彼女は本気で、この脱走計画を、私への「施し」だと思っている節がある。
(……私が、あなたに世界を教えてあげる、のではなかったか)
心の中で、誰に言うでもなく、そう毒づいてみる。どうやら、私たちの間にあると思っていた主従関係は、出会って数分で、とっくの昔に逆転してしまっていたらしい。
けれど。
(……うるさくない)
彼女の心は、不思議なくらいに、私の心を乱さない。むしろ、このノイズだらけの世界で、唯一安らげる安全な場所のようにさえ思えた。
この心地よい音色を、失いたくない。
たとえ、その先にあるのが、断頭台へと続く道だったとしても。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、期待に満ちた彼女の紫色の瞳をまっすぐに見つめ返し、静かに、でもはっきりと、一度だけ頷いた。
「やったぁ!」
私の肯定の頷きを見て、聖女様は子供のようにはしゃぎ、無邪気に笑った。その純粋な歓喜の響きが、私の心にまで伝播して、沈殿していた絶望の澱をわずかに溶かしていく。
こうして、私と聖女様の、奇妙な共犯関係が始まった。
そして、その瞬間から、私の呪われた力は、その意味合いを劇的に変えることになる。
今まで私をただ苛むだけだった、宮殿中に満ちる思考の洪水。だが、今は違う。「脱走」という明確な目的を得たことで、無意味なノイズの濁流は、価値ある情報が眠る宝の海へと姿を変えたのだ。
私は、彼女だけの「沈黙の軍師」になった。
目を閉じれば、蜘蛛の巣のように張り巡らされた意識の糸が、宮殿の隅々までを捉える。衛兵たちの思考を読み、『北門の交代は一時間後。西の廊下は今なら誰もいない』といった警備の穴を正確に把握する。彼らの退屈や不平不満が、私たちのための完璧な脱走計画を構築するための、最高の設計図となったのだ。
私の呪われた力は、この時だけ、祝福に変わるのだった。
それからの数日間、私たちの間には奇妙な空気が流れた。
表向き、私は聖女様の身の回りのお世話をするだけの、口のきけない侍女。そして彼女は、国の安寧を祈り続ける、神秘のベールに包まれた聖女様。私たちは、日中は一言も言葉を交わさず、ただ主従としての役割を完璧に演じ続けた。
けれど、二人きりになると、彼女は期待に満ちた紫色の瞳で、絶え間なく私にテレパシーを送ってくるのだ。
『ねえ、計画は? 計画はどうなってるの?』
祈りの間の片隅で、私が床を磨いている時も。
『まだ行けないの? 私、もう宮殿のパンは飽きちゃった。舌が石になりそうよ』
私が彼女の腰まである銀髪を、象牙の櫛で梳かしている時でさえ。その催促は、まるで遠足を待ちきれない子供のようで、聖女の威厳など微塵も感じられなかった。
私はそのたびに、人差し指を口元に当てるジェスチャーで、そっと彼女を制する。完璧な計画には、完璧な準備が必要なのだと、言葉の代わりに瞳で訴えながら。そして、静かに目を閉じて、意識を宮殿中に張り巡らせるのだった。
呪いのように流れ込んでくるノイズの洪水。その中から、必要な情報だけを慎重に釣り上げる。それは、嵐の海の中から、たった一本の銀の針を探し出すような、途方もない作業だった。
(……西塔の警備兵、今夜は恋人と会う約束があるからそわそわしている。集中力を欠いた駒は、不確定要素が多すぎる。使えないわね)
(……厨房裏のゴミ捨て場、新しく配属された衛兵は異常なほど真面目だから、深夜の巡回が厳しい。ここは危険すぎる)
(……ああ、いた)
いくつもの思考の糸を手繰り寄せ、その中で、ひときわ弱々しく、そして確実な一本を、私の意識が捉える。宮殿の東の庭園を守る、一人の老兵の思考だった。
『今夜の夜食は、妻が焼いてくれた蜂蜜パンか。あれを食べると、どうにも眠くなってしまうんじゃよなあ……』
見つけた。
鉄壁の城に空いた、たった一つの、甘くて小さな抜け穴を。
私はゆっくりと目を開け、期待に満ちた瞳で私を見つめ返す、聖女様に向き直った。そして、頭の中で完璧に組み立て上げた計画を、一つひとつ丁寧に、彼女の心へ直接届けた。
『今夜、決行します』
私の心からの宣言に、エルフの紫色の瞳が、ぱっと見開かれた。
『鐘が真夜中を知らせた後。東の庭園に面した、一番小さな通用口から』
私の脳裏には、宮殿の見取り図と衛兵たちの巡回ルートが、完璧な青写真のように広がっている。
『その時間は、ハンスという老兵が一人で番をしています。彼は夜食を食べた後、必ず一刻(約三十分)ほど居眠りをする癖がある。その隙を狙います』
『すごい……!』と、エルフは感嘆の声を漏らす。『あなた、どうしてそんなことまで知ってるの?』
その問いかけに、私は静かに心で答えた。
私の呪われた力。けれど、彼女のためなら、それは最強の武器になる。
『聞こえる、だけです』
私の言葉に、エルフは満足げに頷いた。だが、私は彼女の心を落ち着かせるように、静かに言葉を続ける。
『問題は、あなたのその姿です』
私の視線が、彼女の頭の先からつま先までをゆっくりと見る。光を浴びずとも、自ら淡い光を放つかのような銀糸の髪。どんな絹織物よりも滑らかな、透き通るような白い肌。そして、聖女という身分を隠したとしても、人間ではないことを雄弁に物語る、その尖った耳。
およそ下町の雑踏に、その姿で紛れ込むことなど不可能だった。彼女は、闇夜に浮かぶ満月のように、どこにいても衆目を集めてしまうだろう。
『戸棚の奥に、私がここへ来る前に着ていた古い服があります。少し汚れていますが、それを着てください。髪は、フードで完全に隠します』
『まあ、古着ですって?』
彼女は、聖女らしく、少しだけ眉をひそめた。だが、その表情はすぐに、好奇心に満ちた輝きへと変わる。
『でも、冒険みたいでわくわくするわね!』
こうして、私たちの最初の「夜間飛行」の計画は完成した。
聖女という役割を脱ぎ捨て、ただの空腹の少女になるための、ささやかな反逆計画だ。
私の心は、このうるさいだけの世界で、初めて感じる高揚感で満たされていた。たった一つ、私にしかできないことがある。聖女様の、たった一人の共犯者。その響きは、不思議と私の胸を温かくした。
やがて、真夜中の鐘が、宮殿に重く響き渡った。
それが、私たちの作戦開始の合図だった。
『本当にこれを着るの……? なんだか、ごわごわするわ』
戸棚の奥から引っ張り出した私の古着に、エルフが不満げな声を心に送ってくる。彼女が脱ぎ捨てた、絹のように滑らかな祈りのための衣装が、床の上で月光を浴びて虚しく光っていた。その落差は、まるで天界から地上に落ちてきたかのようだ。
『我慢してください。それが、外の世界の服です』
私は自分のフードを目深にかぶり直し、彼女にも同じように促す。輝く銀色の髪が粗末な布の影に隠れると、彼女はようやく、ただの街の娘のように見えた。
息を殺し、私たちは月明かりだけが差し込む廊下へと滑り出した。
私の頭の中には、相変わらず衛兵たちの心の声が絶え間なく飛び交っている。『早く交代の時間にならないか』『故郷の妹は元気だろうか』。けれど、不思議と焦りはなかった。全ての駒の動きが盤上に見えているかのように、どこが安全で、どこが危険かが手に取るようにわかるのだ。
私はエルフの手を引き、影から影へと猫のように渡り歩く。彼女は初めてのことに少し怯えているのか、私の手を強く握り返してきた。その温かい体温が、なぜか私を落ち着かせた。
やがて、問題の角を曲がる。この先には、宮殿の中でも特に忠誠心と実力で知られる、あの「監視役の騎士」が立っているはずだ。私たちの計画における、最も危険な関門。
私は一瞬足を止め、彼の心の声を慎重に探る。
(……妙だ)
聞こえてくるのは、驚くほど静かな思考だった。まるで、意識して心を無にしているような……。私たちが角を曲がり、彼の視界に入るか入らないかという、まさにその瞬間。彼は、わざとらしく空を見上げ、月の形について、ぼんやりと考えを巡らせていた。
まるで、「私は何も見ていない」と、誰かに伝えたいかのように。
奇妙な偶然。そう思うことにして、私たちは彼の背後を、息を殺して通り過ぎるのだった。
やがて、目的の東の通用口が見えてきた。庭の植え込みの影に隠れた、宮殿の中でも最も小さく、忘れられたような扉。私たちの、自由への入り口だ。
そして、その扉の脇に置かれた粗末な椅子の上には、予告通り、ハンスという名の老兵が気持ちよさそうに寝息をたてていた。彼の口元には、妻が焼いてくれたという蜂蜜パンの食べかすが、子供のようについている。
計画通り。
私は慎重に扉の閂に手をかける。
ギィ、と。小さな金属音が夜の静寂に響き渡り、私の心臓が大きく跳ねた。隣でエルフが息を呑むのが、肌で感じるほどにわかった。
幸い、ハンス爺さんは起きる気配がない。それどころか、満足げに一度寝返りを打っただけだった。
そっと扉を開け、私たちは外の世界へと、体を滑り込ませた。
背後で扉を閉めた瞬間、ひやりとした夜風が、私たちの火照った頬を優しく撫でた。
むせ返るような土と、湿った草の匂い。遠くで聞こえる、りり、という虫の音。宮殿の中の、完璧に管理された無機質な空気とは全く違う、ざわめきに満ちた生命の息吹。
その全てに、エルフは呆然と立ち尽くしていた。
『すごい……』
彼女の心から、何の混じり気もない、純粋な感動が流れ込んでくる。
『これが、外の匂い……! 外の音……!』
宮殿の広大な敷地を抜け、私たちは緩やかな下り坂を歩いていく。やがて、遠くに、温かいオレンジ色の光がいくつも灯っているのが見えた。街の明かりだ。
街に近づくにつれて、風に乗って運ばれてくるものが、より濃密になっていく。人々の陽気な笑い声。どこかの酒場から漏れる、軽快な楽器の音色。そして、私の空っぽの胃を刺激する、何かを焼く香ばしい匂い。
その匂いを嗅いだ瞬間、エルフの心に、ぱっと火が灯った。
『ねえ、早く行きましょう! 私、お腹がぺこぺこよ!』
さっきまでの、世界に生まれたばかりの雛鳥のような感動はどこへやら、彼女は私の手をぐいぐいと引っ張る。その小さな体からは想像もつかないほどの力だった。
その必死な姿を見て、私の口元にも、自分でも気づかないうちに、かすかな笑みが浮かんでいた。
こうして、聖女と沈黙の軍師の、初めての食べ歩きが始まろうとしていた。
街の門をくぐった瞬間、世界の密度が、ぐっと濃くなった。
石畳の道は夜露に濡れ、等間隔に置かれた街灯のランプが、頼りなげに揺れている。宮殿の冷たい静寂とは違う、生身の人間の熱気が渦巻く、ざわめき。それは人々の話し声、どこかの酒場から漏れ聞こえる陽気な音楽、そして私の頭の中に濁流となって流れ込んでくる、無数の思考の渦。
外の喧騒と、内の喧騒が混ざり合い、一瞬、めまいがしそうになる。
『わ……!』
その不快感を、隣を歩くエルフの、弾けるような歓声が打ち破った。私の腕を掴む彼女の指先から、わくわくとした興奮が、直接伝わってくる。
『見て! あの人、火を吹いてるわ! あっちではお猿さんが踊ってる!』
彼女の紫色の瞳は、大道芸人の松明の火を映し、星屑のようにきらきらと輝いていた。何もかもが初めてで、何もかもが宝物に見えるのだろう。
その時、屋台で売られている、真っ赤に煮詰められた林檎飴を見つけた彼女は、まるで蝶のように、ふらふらとそこへ引き寄せられていった。そして、何の悪びれもなく、当然のように一つ、その商品を手に取ろうとする。
「お嬢ちゃん、買うのかい?」
しわがれた声の店主が、にこやかに問いかける。まずい、と思った私が、彼女の袖を強く引いた、まさにその時だった。
『これを私にくれるの? ありがとう!』
エルフは悪びれることもなく、心の中で店主に直接、にこやかに礼を言った。店主は、どこからともなく聞こえた(ように感じた)少女の声に、きょとんと目を丸くするばかりだ。
私は慌てて、懐からこの日のために用意していた銅貨を数枚、店主のしわくちゃの手に押し付けた。そして、心の中で、目の前の世間知らずな聖女様を、少しだけ強く叱りつける。
『違います。外の世界では、物が欲しければ「お金」を払うんです』
『おかね?』
彼女は、甘い林檎飴を片手に、不思議そうにこてんと首を傾げた。その様子は、国の安寧を祈る聖女というより、森から初めて出てきて、人間の奇妙な風習に戸惑う、一匹の小動物のようだった。
「私が、知らない世界を教えてあげる」なんて豪語していたのは、一体どこの誰だったか。
どうやら、私たちの役割は、出会った瞬間に、とっくの昔に逆転してしまっていたらしい。




