第ニ部:『本願寺顕如編』 第1章:「転生と信仰の境界線」
現代の生命科学者、一色聡真。
人類の未来を変えるべく挑んだ免疫系改造ワクチンの研究は、
「非人道的」と断じられ、全てを失った。
絶望の中で突如訪れた光に呑まれ、
目を覚ましたのは畳敷きの広間
そこにいたのは、日本最大の仏教勢力を率いる法主、本願寺顕如としての自分だった。
科学と信仰、二つの絶対的権威を同時に手にした男は、
病と死に覆われた戦国時代を、己の“実験場”とすることを決意する。
焼け付く光が視界を満たした瞬間、
鼓膜を突き破るような轟音と、
全身を押し潰すような重圧が私を包んだ。
目を開けると、天井は低く、梁は黒光りしている。
鼻腔に広がるのは、古い畳と線香の香り。
「顕如様、御目覚めですか」
低く、丁寧な声が耳に届いた。視線を向けると、
袈裟に身を包んだ男たちが恭しく頭を下げている。
私は混乱した。
だが、目に映る彼らの顔立ち、どこかで見た。
いや、これは歴史資料の中の肖像画だ。
「まさか、本願寺 顕如?」
言葉にした瞬間、心臓が跳ねた。
戦国最大の宗教勢力を率い、信長すら苦しめた男。
だが、同時に理解する。ここには、
現代の私を縛った倫理委員会も監査法人も存在しない。
あの日、私が失ったもの
未来を変えるはずだった研究は、
倫理という名の鎖に押し潰された。
「この世界なら」
心の奥底で、冷たい興奮が芽吹く。
科学者としての知識を、神の奇跡として振るうことができる。
それは、病と迷信に覆われたこの時代を、
意のままに支配する力となるだろう。
広間の中央に座し、私は口を開いた。
「これより、布教活動の再開を命じる」
周囲の僧たちは一斉に平伏し、
「仰せのままに、南無阿弥陀仏!」と唱和する。
私は立ち上がり、懐から紙を取り出した。
そこには、粗末な筆致で描かれた消毒法と、
原始的なワクチン製造の工程が記されている。
塩を溶かした湯で器具を煮沸し、
家畜の血清から免疫物質を抽出する方法
この時代においては魔術と変わらぬ代物だ。
「これは仏の啓示である。
これを行う者は、病より守られるだろう」
僧たちは一様に息を呑んだ。
病を“業病”や“祟り”としか認識していない彼らにとって、
原因を「見えざる敵」と定義する発想自体が異形なのだ。
数日後、寺内の僧たちは清めの儀式と称し、
煮沸消毒を徹底的に行い始めた。
結果はすぐに現れた。寺内での病死が激減し、
「顕如様の加護」として語り継がれた。
私は微笑む。
これは始まりに過ぎない。
衛生という名の防壁を信徒に与えた今、
次は、病を攻撃の武器に変える番だ。
第1章では、現代科学者であった主人公が、
本願寺顕如として戦国の世に転生する瞬間と、
科学を「仏の啓示」として布教に利用し始める様子を描きました。
消毒法や簡易ワクチンといった衛生技術が、
この時代の人々にとってどれほどの衝撃かを描き、
信仰と科学が融合する入口を提示しています。
次章では、この力がいかに“神罰”として使われ、
顕如の支配網が広がっていくのかを追っていきます。