第3話 噂と追い詰められる家①
エレノア・アルディアスは、薄く微笑みながら会場を歩き回っていた。ここは貴族や資産家が集う小規模なティーパーティで、優雅な調度品やお洒落な軽食が華やかさを演出している。とはいえ、本来ならこういう場が大好きな彼女の顔が、今日はどこかぎこちない。
「――ねえ、聞いた? アルディアス家って、婚約が破談になったんですって」
「まあ怖いわ。やっぱりお金に困ってるという噂、どうやら本当みたいね」
周囲からそんなささやきが聞こえるたびに、エレノアのこめかみはピクリと引きつる。自分が視線を向ければ、相手は慌てて口をつぐむが、内心では「どうせ私の悪口を言ってるんでしょう?」と感じてしまい、落ち着かない。それでも令嬢としてのプライドから、決して弱った顔は見せまいと必死で取り繕う。
「……誰があんな噂を流しているのよ。失礼にもほどがあるわ」
できるだけ聞こえよがしにつぶやいてみても、周囲が怯む気配はない。むしろ彼女のほうが浮いているようにすら見える。すると、そんな中を割るようにして、一人の女性が近づいてきた。肩までの茶髪に、上品なブルーのドレスをまとったフローレンス・ベルハイムだ。
「エレノア、あなた……大丈夫?」
フローレンスは憐れむような瞳を向け、声を潜める。彼女はエレノアの「友人」という立ち位置で知られているが、最近はどこか妙に距離を詰めすぎる節がある。もちろんエレノア自身も、それを不審に思わないほど能天気ではないが、この状況で味方のように話しかけてくれる人物は貴重だ。
「ええ、別に大丈夫よ。何があろうと、私はアルディアス家の令嬢ですもの」
「そう……でも、辛いでしょう? 『突然の婚約破棄』なんて、周囲もいろいろ噂してるみたい」
フローレンスが意味ありげに視線を巡らせると、エレノアもチラリと会場を見渡す。どこからか冷ややかな視線が注がれているのを感じて、思わず背筋が強張った。しかし、負けてはいられない。
「みんな勝手なことを言っているだけよ。レオンの家側が軽率だっただけで、私には何も落ち度がないわ。……あんな相手、捨てられて正解だったのよ」
精一杯虚勢を張るエレノアに対し、フローレンスはふと優しげな笑みを浮かべる。だが、その奥底にはどこか企みが潜んでいるようにも見えた。
「そうよね。アルディアス家って、伝統もあるし名誉もあるもの。確かにちょっとお金が足りないとか言われてるけど……」
「――ちょっと!? まるで本当に借金まみれみたいに聞こえるわ」
「ごめんなさい、言い方が悪かったわ。でもね、もしエレノアが新しいご縁を探すなら、私に相談してくれてもいいのよ?」
「……新しいご縁?」
エレノアはその言葉に、ほんの少し興味を示す。プライドがずたずたになっている反面、家の抱える借金問題を自力で解決できる「次の婚約先」があるなら、渡りに船という気持ちもあった。フローレンスはそれを見透かしたように、さらに優しくささやく。
「あなたを思って言ってるの。婚約破棄されたなんて噂は、どうしてもイメージが悪いでしょう? でも、もっと良い縁談があるかもしれないわ。もしくは投資話とか、あなただけが得をするようなプランも……」
「……投資話?」
エレノアは首を傾げる。貴族の令嬢としては投資なんて馴染みがないが、「もしかしたら私が儲ける手段になるかも」とか「それで借金を返せるなら」と期待がよぎる。しかし同時に、「本当にそんなうまい話があるの?」という疑念も拭えない。
「ま、そこはまた今度ゆっくり話すわ。無理には勧めないけど、一応頭の片隅に入れておいてもらえたら嬉しいわね」
「ふうん……。まあ、話だけでも聞いてみてもいいけど」
エレノアは鼻を鳴らしながら言葉を濁す。いつもの彼女なら「私にそんな下らないものが必要?」と取り合わないところだが、今は状況が状況だ。レオンとの婚約が破棄された事実を覆すことはできないし、これからの人生をどう切り開くか考えねばならない。もっとも、プライドだけは捨てきれないため、つい偉そうに振る舞ってしまうのだが。
「そうそう、無理しないでね。でも私、あなたが潰れるところなんて見たくないの。だから、少しでもあなたの役に立ちたいというか……」
「……ありがとう。ま、気が向いたら相談するわ」
こうして、フローレンスは「親切そうな笑み」でエレノアのそばを離れる。エレノアは彼女の背中をぼんやりと眺めながら、胸にうずまく苛立ちを必死に抑えていた。周囲の貴族たちの視線は相変わらず痛々しいが、無視してしまいたい。何よりも「アルディアス家は金がない」という噂が堂々とささやかれている事実が、彼女の自尊心をひたすらに削る。
(ちょっとくらい借金があるかもしれないけど、それを理由に私がみじめに扱われるなんて……おかしいわ!)
しかし、現実は残酷だ。婚約破棄の話は社交界ではあっという間に広まり、エレノアはその当事者として完全に「話題の中心」になってしまった。しかも、それは本人が望むような賞賛でも羨望でもない。
「……いいわ。見てなさい。いずれ私がもっといい相手を見つけて、こんな噂はかき消してやるんだから」
エレノアはギュッと拳を握り、無理矢理笑みを作ってみせる。そして、誰の耳にも入らないほど小さくつぶやく。
(それまで、私のプライドはぜったいに潰されないわよ)