第2話 突然の婚約破棄③
結局その日の夕方、エレノアはずっと自室に閉じこもっていた。ステラが用意した軽食にも手をつけず、ひたすらベッドの上で胸の奥から湧き上がる怒りを持て余している。薄暗くなった部屋の中で、彼女の目だけはきらりと光を放ち続けていた。
「……レオンめ。金がないからって結婚の意味がないなんて、失礼にもほどがあるわ」
口からこぼれるのは、くどいほどにレオンへの恨み節だ。そもそもエレノア自身、レオンに大した恋心など抱いてはいなかった。事実、彼女は婚約によって手に入る財産や安定しか見ていなかった部分が大きい。だが、それでも屈辱は屈辱。捨てられたとなるとプライドがズタボロになる。
「私が捨てられる? こんなこと、あっていいわけがないわ」
エレノアは拳をぎゅっと握りしめ、唇を噛む。そこへ、薄暗い空気を割ってステラが声をかけてきた。
「お嬢様、失礼いたします。……よろしければ灯りをつけましょうか?」
「別に、放っておいて。暗くても構わないわ」
「かしこまりました。それにしても、お顔の色が少し青ざめているようです。お辛いなら、遠慮なくおっしゃってくださいませ」
ステラは「心配そうな侍女」の演技を崩さない。けれど、その瞳の奥には冷め切った客観視が潜んでいる。それに気づかないエレノアは、ふと「あんた、どう思う?」と尋ねた。
「どう思う、とは?」
「レオンが一方的に婚約破棄してきたことよ。こんなの卑劣極まりないわ。私は絶対に赦さない」
「ええ、もちろんです。お嬢様がお怒りになるのもごもっともかと。……あちらはどう言っても『金がない家』と決めつけているようですし、無礼を通り越した侮辱ではないでしょうか」
「そうよね! 第一、お金がすべてじゃないでしょう? 私に見合う地位や名誉があれば、いくらでも支える道はあるはずなのに!」
怒涛のようにまくし立てるエレノアを、ステラはしなやかな身のこなしで近づき、そっとカーテンを引く。部屋の中がわずかに照らされ、薄明かりの中にエレノアの表情が浮かび上がった。
「もしお嬢様が復讐をお考えでしたら、少しお手伝いできることがあるかもしれませんよ?」
「お手伝い……? どういう意味?」
「いえ、私などが差し出がましいことを言うのも変ですが、もしレオン様に思い知らせる方法があるのなら……お嬢様はぜひ実行されたいのではないかと思いまして」
ステラが穏やかな口調で言いながら、まるで「誘い」のような笑みを浮かべる。エレノアはその言葉を聞き、思わずドキリとした。自分と同じくレオンに怒りを抱いている風に見えるステラの態度に、少し安堵を感じると同時に、どこか心強さを覚えるからだ。
「……確かに、仕返ししたい気持ちは山ほどあるわ。あんな手紙一枚で私を捨てるなんて、どれほど屈辱か」
「そうですよね。でも、焦って行動しても、相手に鼻で笑われるかもしれません。もう少し策を練えてから、とも考えられますが……お嬢様はどうなさるのかしら」
「策、なんて大層なものは思いつかないわ。でも、やられっぱなしは絶対に嫌。レオンが『アルディアス家には価値がない』なんて言うなら、その甘さを思い知らせてやらないと」
エレノアは自分の膝上を握りしめ、血がにじむほどに爪を立てる。その姿からは、恋人との別れに涙を流す乙女らしさはまったく感じられない。むしろ「何としてでも仕返しせねば気が済まない」という執念だけが渦巻いていた。
「ふふ。でしたら、私も協力できることがあれば惜しみませんよ」
「あなたが? ……そうね、たしかに私一人よりは心強いかも。父様はあの調子でまったく使えないし、やるなら私が中心になるしかないでしょうし」
「ええ、そうですね。何よりお嬢様のお力が大切ですから」
ステラが静かに言葉を重ねる。その裏には「いずれ私がこの状況を利用する余地はある」といった狡猾な計算が透けて見えるが、エレノアは怒りで頭がいっぱいなので気づく余裕はない。
「……絶対に、後悔させてやるんだから。レオンが私を捨てたことを、どれほど愚かだったか思い知る日が来るわ。見てなさい」
「頼もしいお言葉ですね。お嬢様なら、きっと素敵な復讐を果たされることでしょう」
「……そうでしょうとも」
エレノアは胸を張り、ドレスの袖をギュッと握る。彼女にとって「レオンへの愛情」など最初から希薄で、唯一あったのは「プライド」と「家のために利用できるかもしれない」という打算のみだった。そこを突かれ、捨てられたとなれば怒りは頂点に達するのも当然だ。
ステラは心の奥でほくそ笑みながら、「では、私は失礼しますね」と部屋を出る。それを見送ったエレノアは、大きく息を吐きながらも、そのままぼんやりと暗い天井を仰ぎ見た。
(仕返しする。何としてでも、あの男を後悔させる。私を捨てたことが人生最大の過ちだと思わせてやるわ)
彼女の思い描く「復讐」の輪郭はまだ曖昧だ。だが、その燃え盛る感情は簡単には冷めないだろう。この一瞬の怒りを放っておけば、エレノアは遠からず何か大きな行動に出るはずだ。そして、それが後に「詐欺じみた壮大な計画」へ繋がっていくとは、まだこの時点では誰も想像していない。
夜の帳が降りる頃、屋敷の中ではそれぞれが思惑を抱えたまま過ごしていた。ガイルは書斎で頭を抱え、借金返済のあてが消えたことに焦燥している。ステラは侍女としての仕事をこなしつつ、新たな情報をどう活かそうか思案中だ。そしてエレノアは復讐心を燃やしながら、レオンを罵り続けている。
アルディアス家には、これまで以上に陰鬱な空気が漂い始めた。しかし、当の家族たちは皆、自分の立場と欲望にしがみついて、まともに先を見通すことができないままだ。
婚約破棄という衝撃が、やがてさらなる破滅への第一歩になるとも知らずに――。