第2話 突然の婚約破棄②
エレノアが父の書斎へ駆け込んだのは、それからほどなくしてのことだ。書斎で帳簿を眺めながら何やら頭を抱えていたガイルは、娘のあまりに荒々しい足音に驚き、「何事だ」と顔を上げる。
「父様、大変なことが起きたの! ……レオンが、レオンが婚約を破棄するって言ってきたの!」
「……な、なに!?」
ガイルは心底驚いた表情を浮かべる。一拍置いてから椅子を軋ませて立ち上がり、エレノアの肩を強くつかんだ。
「ちょっと待て、それはどういう意味だ。まさか本気で、あのレオン・アヴァルトが結婚を取りやめるなんて言っているのか?」
「ええ、本気も本気。こんな失礼極まりない手紙をよこしてきたわ」
エレノアは震える手で手紙をガイルに差し出す。ガイルはそれを奪い取るように受け取り、ざっと目を通すと、みるみる顔から血の気が引いていった。
「……っ、なんという無礼な。アルディアス家が借金まみれだと? 金がないなら結婚するメリットがないだと? ……ふざけやがって」
「ひどい話よ! こんなこと……ひどすぎる! 私を馬鹿にしてるとしか思えないわ!」
エレノアの怒りの矛先はレオンに向かっているが、ガイルは別の意味で大混乱していた。心の声はこう叫んでいる。
(これはまずいぞ……! 唯一の借金返済の当てだった婚約がこんな形で終わっちまうなんて。どうする? 次の返済期限がすぐそこに迫っているってのに)
しかし、当の本人はその内心を娘の前で素直にさらけ出せない。代わりに声を荒らげる。
「……なんと失礼な男だ! 確かに、借金は多少あるかもしれんが……こんな一方的な破棄、認められるものか!」
「そうでしょう! あんなの絶対に許せないわ!」
エレノアが同調するが、ガイルはすでに心ここにあらず。彼の頭には“多額の負債”がちらついていて、そこに宛がわれるはずだった婚約者の資産が宙に消えたことへの焦りしかない。いっそレオンを力尽くで捕まえて金を引っ張りたいくらいだが、それこそ無理な話だ。
「くそ……これで借金返済の道がますます遠のく。あと少し待てば婚約金なり、あちらの家から持参金なりを期待できたのに……!」
「え? 今なんて言った?」
「い、いや、何でもない! とにかく……! お前がなんとかしろ、エレノア!」
「はあ!? どうして私が何とかするの? 婚約破棄を言い出したのは向こうじゃない!」
「……お前がしっかりレオンをつなぎ留めていれば、こんな事態にはならなかった! ほんの少しでも色香で釣るとか、借金の事実を隠し通すとか、方法はあっただろう!」
ガイルはもはや人としてどうかと思うレベルの発言を連発しつつ、エレノアに責任をなすりつける。エレノアが反論しようと口を開いても、それをさえぎるように声を荒らげた。
「お前が怠慢をさらしていたせいだ! この家の名誉を潰す気か!」
「ふざけないで! 父様のギャンブルと浪費こそがこの借金の原因だって、みんな知ってるのに!」
「うるさい! そんなものは関係ない! アルディアス家が名門だという事実は変わらん!」
あまりに理不尽な言葉の応酬に、エレノアも一瞬言葉を失う。彼女の怒りはレオンにも向いているが、今は父に対しても苛立ちが止まらない。とはいえ、幼い頃から「父の言うことは絶対」という空気で育てられた手前、どうしても言い負かされてしまう形だ。
「……もういい! だいたい私がどうしろっていうの? レオンはもう婚約を放り出して去っていくのよ!」
「だからこそ、お前がなんとか手を打つんだ! 例えば、向こうの家を説得して金を出させるとか……」
「無茶苦茶言わないでよ!」
ガイルは頭を抱え、書斎の壁を拳で軽く叩く。エレノアはそこに一瞬だけ気圧されたものの、怒りのまなざしは収まらない。結局、理不尽な押し付け合いを続けたまま、二人の会話は平行線のまま終わった。
書斎を出る直前、ガイルは荒い呼吸を繰り返しながら、わずかに弱々しい口調で言う。
「……とにかく、父である俺に恥をかかせるな。アルディアス家の名誉を守るためにも、お前はちゃんとけじめをつけろ。いいな!」
「わかりましたわ、もう! けじめ、ね……ええ、やってやりますよ」
エレノアはドアを乱暴に閉め、廊下に出る。背中越しにガイルの舌打ちが聞こえたが、彼女も同じくらい強い勢いで息を吐き捨てる。視線には怒りの火が灯っており、「絶対に許さない」という思いが渦巻いていた。
(どうして私ばっかり責められるのよ……レオンも、父様も、勝手なことばっかり言って!)
そうつぶやきながら、エレノアの目には涙のような光が浮かんでいる。とはいえ、それは傷ついた乙女の涙というより、プライドを踏みにじられたことへの悔しさの象徴に近い。
(あの男に仕返ししてやらなきゃ気が済まないわ。こんな形で婚約破棄なんて、馬鹿にするにも程がある!)
彼女の思考は、すでに「復讐」という言葉を際立たせ始めていた。