第2話 突然の婚約破棄①
エレノア・アルディアスは、朝から上機嫌だった。前日の買い物で見つけた青いリボンをあしらった帽子が、とびきり可愛らしかったからだ。家に帰る道すがらも、その帽子をいつ使おうかとわくわくしていた。いつもなら屋敷に戻るだけで少し憂鬱になるのに、今日は妙に浮き立った気分で過ごせる。そう――ほんのついさっきまでは、彼女の機嫌は絶好調だったのだ。
ところが、その幸福な気分を一撃で粉砕する出来事が起こる。侍女のステラが手紙を持ってやってきたのだが、その宛名を見てエレノアは首をかしげた。
「レオン・アヴァルト……? ふふ、どうせ婚約に関する挨拶文か何かでしょう。あなた、ちょうどよかったわ。ここで読んでみせるから、内容を伝えてあげる」
「お嬢様、少々落ち着いて……と申し上げるのも無粋でしょうか?」
ステラは、どこか冷めた眼差しを宿しながらも口調だけは穏やかに応対する。エレノアは「何を心配してるの?」と鼻で笑い、その封を破った。しっかりとした筆致で綴られた文章が視界に入り、彼女は声に出して読み始める。
「突然のことながら、今後の婚約話は白紙に戻していただきたい。そもそも、アルディアス家は莫大な借金を抱えていると耳にした。そんな家に嫁ぐメリットは見当たらないし、金がないなら結婚する意味もない。それではごきげんよう……は?」
声に出して読めば読むほど、エレノアの顔色が見る見る変わっていく。最後の一文を読み終えたとき、その手紙は無造作に放り投げられて床に落ちた。
「……これ、一体どういうこと? 借金がどうとか書いてるけど、うちが無一文なわけないでしょう?」
「ええ、そうですわね。アルディアス家は『名誉と伝統』をお持ちのご立派な家柄でいらっしゃいますもの」
ステラは相変わらず形だけの微笑を浮かべ、床に落ちた手紙を拾い上げる。その目はわずかに冷たく光り、内心では「やっぱりね。これで一気に崩れ落ちる予感がするわ」と思っているのだが、あくまでも表向きは「献身的な侍女」を貫く。
「お嬢様、どうなさいます? レオン様からの書状は、確かに婚約破棄を宣言していますけれど」
「聞かなくても分かるわよ! ……こんなの、ありえないわ! ちょっと家の都合が悪いくらいで、私を捨てるですって?」
エレノアは金色の髪をぶんと振り乱し、床を踏み鳴らした。まるで子どもが駄々をこねるような激しさで、彼女の瞳には怒りと動揺が混在している。その言葉の端々からは、彼女にとって「愛情」は二の次で、「自分が貧乏人扱いされる屈辱」こそが耐えられない原因だと露呈していた。
「レオンは、金がないなら結婚の意味がないって……何よそれ! 私の美貌や家名を軽んじる気? そんな男、こっちから願い下げだわ!」
「でも実際、向こうは先に願い下げにしたみたいですね」
「うっ……」
ステラの何気ない一言に、エレノアはグッと詰まる。言い返したいが、現状ではレオンに捨てられたのは事実。それを否定する言葉が見つからない。侍女は薄っすらと笑顔を残しながらも、どこか他人事のようにこの光景を見つめていた。
「……とにかく、こんな手紙はゴミ箱にでも捨てておいてちょうだい! こんな内容、認められるわけがないもの!」
「お嬢様、きっとこの件は放置できるものではございませんよ。なにせ『婚約破棄』という公式な意思表示です。早めにご当主にもお知らせしておいたほうが……」
「わかってるわよ! どうせ父様も『何だと!』って大騒ぎするに決まってる。でも私だって、これで済ませる気はないんだから!」
まるで噛みつかんばかりに声を張り上げたエレノアは、目に見えて取り乱していた。彼女はドレスの裾を乱暴に握りしめると、ステラを置いて部屋を出ようとする。その背にはプライドがひび割れた音がはっきりと聞こえるようで、後ろ姿だけでも痛々しさが漂う。
「……お嬢様、落ち着いて。まずは深呼吸でもされてから」
「うるさい! 深呼吸なんてしてる場合じゃないのよ!」
こうして、アルディアス家に突然舞い込んだ一通の手紙。レオン・アヴァルトの冷淡な宣言が、エレノアの誇りを粉々に砕き散らしつつあった。
ステラはその一部始終を見届けて、周囲に誰もいなくなると小さく息を吐く。
「ふふ……これで、ますますこの家は崩壊に近づくでしょうね。どうなることやら」
彼女の目には不思議な光が宿り、その唇からは小さな笑みがこぼれ落ちる。その内心をエレノアが知る由もなく、彼女はただ激怒と動揺を抱えたまま廊下を疾走していた。