第1話 ハリボテの令嬢③
翌日の午後、エレノアは珍しく父ガイルの書斎を訪れた。部屋には分厚い帳簿や書類が山と積まれており、その多くは昔の領地経営や収支記録のはずだ。しかし、今ではほとんど活用されていないらしい。
「ねえ、お父様。ちょっと聞きたいんだけど、わが家の借金って、いったいいつになったら片付くの?」
エレノアは書斎に入るなり、そう切り出した。その言葉にガイルは飛び上がりそうになる。
「な、なんだいきなり。借金なんて大したものじゃないだろう」
「でも、ここ最近はとくにケチケチしているように見えるわ。お付きのメイドも減らしてるし、食事だって前ほど豪華じゃないし」
「ふむ……。あれは無駄を省いているだけだ。むしろ賢明な経営だと言ってくれ。俺はアルディアス家の当主として、浪費を見直し始めたにすぎん」
「ふうん。まあ、どうでもいいんだけど。近々私は婚約を結ぶでしょう? そうすればきっと大丈夫よね」
エレノアはあくまでも他人事のように言う。彼女自身、借金があるのは何となく知ってはいるが、「自分が婚約さえすれば家が救われる」と単純に思い込んでいるのだ。後ろで控えているステラが、その様子をじっと見つめている。
ガイルは曖昧に咳払いをし、帳簿を手のひらで隠すように動かした。
「そ、そうだとも。次の融資もすぐに来るはずだ。何も心配はいらん」
「ならいいんだけど。私はあんまり不便な生活は御免だし。せいぜい頼むわよ、お父様」
「ま、任せておけ。お前が婚約すれば、すべて上手くいく」
根拠のない自信を並べ合う親子の会話に、ステラは心の中で呆れ半分のため息をついた。こんな空っぽの約束で何とかなるのなら、とっくに何とかなっているはずだろう、と。
「では、わたくしは席を外しますね。お二人でゆっくりとお話を」
ステラが一礼して書斎を出ようとすると、エレノアは「ええ、そうしてちょうだい」と投げやりに答える。ガイルはガイルで、ステラにはまったく意識を払わないまま帳簿へ視線を戻す。
書斎を出たステラは、そのまま廊下の奥へと足を運ぶ。周囲に誰もいないのを確認すると、小さな手紙の束を懐から取り出し、内容を確かめるように目を落とした。
「さて、今日はどこに情報を売ろうかしら」
彼女のつぶやきは誰にも聞こえない。だが、その小さな微笑みと目の輝きは、忠実な侍女が浮かべるそれではない。どこか計算高く、抜け目ない雰囲気をまとっている。
(まだ本格的には動かなくてもいいわ。いずれ、もっと大きな動きが出てくるでしょうし。私はそのとき、さらに高値で情報を売るほうが得策よね)
ステラは手紙を再びそっと仕舞い込み、すまして歩き出す。その背筋はまっすぐ伸びており、まるでこの屋敷を自分が支配しているかのような自信にあふれていた。
一方、書斎に残ったエレノアは、父の大言壮語に半ば呆れながらも、心のどこかで「まあ婚約が決まれば万事解決」と信じているらしい。思わず小さく笑みを浮かべながら、部屋を出ていった。
「ま、あと少しの辛抱よね。婚約さえすれば、この家の面倒はぜーんぶ向こうが引き受けてくれるはずだし。ああ、早く自由に買い物したいわ」
そうしてエレノアは、歩きながら頭の中で新しいアクセサリーやドレスのことを思い浮かべる。ステラが出入りする廊下とは別の方向、彼女専用の部屋へと続く回廊をゆったりと進む足取りは、どこまでも“優雅”に見えた。
(誰がどう見ても、名門の令嬢。その姿はまさに貴族のお姫様って感じね。……だけど、実態はまさしく借金まみれのハリボテ。一体いつまで、こんな見栄を張り続けるのかしら)
そう、ステラを含めた屋敷の使用人や周辺の人々は、もはや全員が「この家の華やかさは空虚なまやかしだ」と知っている。だが、エレノアとガイル本人だけは無敵のように「必ず乗り切れる」と信じているのだ。
その自信がいつ、どんな形で崩れ落ちるのか。ステラは冷ややかな思いを抱きつつも、ゆっくりと笑みを深めている。
──アルディアス家の運命は、まだ始まったばかり。
この、虚勢だけが膨らむ邸宅がいつ大破綻を迎えるのか、今は誰も知らない。だが、その時は確実に近づいていた。