7本のヒマワリ
序章 花言葉
花言葉は十七世紀頃、トルコで発祥との説がある。花に特別な意味を与え、花に恋人への思いを託して贈る。
例えばバラは告白に使われる。三本のバラは「愛しています」。百八本になると「結婚して下さい」。
桜には「優美な女性」との意味がある一方で、「私を忘れないで」との意味もあり、愛憎のメッセージと取る事も出来る。
そしてヒマワリ。「憧れ」や「一目ぼれ」などの意味があり、七本の場合は「ひそかな愛」となる。
1章 春一番
僕は大きな川の堤防の上にいた。川自体は堤防のはるか先、田んぼの向こうにあって川面の様子は判らない。
今日は爺ちゃんの葬式があり、川の傍にあるメモリアルホールに来ていた。骨上げまでの時間、堤防に出て買ってもらったばかりのスマホで遠くに見える山並みの写真を撮っていた。突然、強い風が吹いてメモリアルホールの隣の高校のグランドの土埃が舞い上がった。南風だった。
「研ちゃん」突然、後ろから呼ばれた。振り返ると婆ちゃんとポニーテールの女性が立っていた。
「研ちゃん、隣の『ようこ』さんよ。覚えている?」
「うん、覚えているよ」僕は照れながら答えた。小さい頃、爺ちゃんと婆ちゃんの家を訪ねた時に遊んでもらった事がある。爺ちゃんが病気で入院してからは疎遠になっていたので、五年か六年ぶりになるだろうか。
「研一君は、今年中学?」
「うん、来月入学式」
「そう、私は今度高二。遊びにきていた時は小学一年か二年だったかしらね。中学に行ったら部活は何に入るの?」
「いや、決めてないというか、多分どこにも入らない、帰宅部だと思う」
「だめね~何か部活に入りなさい。運動部がいいと思うけど…イケメンなのだし、運動部の方が女子にモテるから」と、ケラケラと笑いながら言われた。
「いや、僕はその…硬派だから。別にモテなくとも…」
「硬派って。今の時代言うの?あ~草食系なのかしら。でも、好きなは子は?好きな子位はいるでしょ?」
「いや、特に…」
「あ~そう。じゃあ、アイドルでは?」
「う~ん、そうねえ、誰だろう」何かドキドキして上手く受け答えできず、川の方に体を向けた。
「あ~、何か気持ちいいわ~」
「そうね、お天気良くて良かったわ」
「ほんとに」ようこさんと婆ちゃんの間で、取り留めない会話が続いていた。
「そろそろ時間?」と婆ちゃんが言った。
火葬が始まってから一時間位経ったろうか。
メモリアルホールに向かって三人が歩き始めた時、また、強い風が吹き三人とも目をつぶった。目を開けた時、ポニーテールに桜の花びらが一枚付いていた。
「あの、髪の毛に桜が」と僕は言った。
「研一君。取ってくれる」言われるまま後ろに回り花びらを取った。うなじが妙に眩しかった。そして、二人に気づかれない様に桜の花びらをポケットにそっとしまった。『桜の子』と書いて『ようこ』を呼ぶ事を思い出していた。
2章 寒茜
「えっ。もう一度言って」僕は聞き間違いかと思った。
「だから、パパが九州に転勤なの。ママもついていく事にしたの」
「いや、転勤は判るけど、ママもって、どういう事?」
「どういう事も、そういう事もなく、ママも九州に行くという事。以上よ」
父は半導体製造会社の品質管理の責任者をしている。会社は九州に新しい工場を作っているそうで、今までも何度も出張で出かけていて、工場が完成したら転勤になるだろうとは聞いていた。一年後に高校受験が控えているので、父が単身赴任するのだろうなと漠然と思っていた。
「来年受験だけど、その大事な時期に一人で暮らせというの?」
「ううん、お婆ちゃんの家にいってね。お婆ちゃんと暮らして。話はついているから。」
「えっ婆ちゃんの家?」
「そう、お婆ちゃんの家。お爺ちゃんが亡くなってから一人暮らしで心配だったし。研ちゃんが一緒だと安心だわ。お婆ちゃんも孫と暮らせて嬉しがっているし、色々と都合が良いのよ。一石何鳥かしら、名案よね」
「いや、名案って、いやいや」
「あっ、それと隣の桜子ちゃんに家庭教師を頼んだから。良かったでしょ。桜子ちゃん、大学は国立、それも推薦でしょ。すごいわよね。研ちゃんも頑張ってよ。まずは高校ね」
「いや、素材が違うのだから無理でしょ」と軽口をたたいたが、桜子さんが家庭教師という事に僕は何だか不思議な感覚になった。嬉しい?ドキドキ?婆ちゃんの家で暮らすのも悪くはない?
「ともかく、今度の休みの日、お婆ちゃんの家に行ってきてね」と母が言った。
僕は黙って部屋に戻り机の引き出しの奥から封筒を引っ張りだした。中に桜の花びらが入っている。
言いつけ通りに、次の休みの日に婆ちゃんの家を訪ねた。婆ちゃんの家の隣に立っているアマチュア無線の鉄塔を目指して、駅から歩いていった。
「こんにちわ、婆ちゃん」
「いらっしゃい。今ね、お爺さんの部屋を片付けていたの。この部屋、使ってね」
生前、爺ちゃんが書斎として使っていた部屋に入るとピアノの音が聞こえてきた。
「ああ、隣の桜子ちゃんね。ピアノ、上手いわねえ本当に。『All My Loving』ビートルズの曲ね。よく弾いている曲だわ」
「ふ~ん」
「桜子ちゃん、いるみたいだから挨拶に行ってきなさい。家庭教師、お願いするのだからキチンと挨拶してね」
僕は母から持たされた手土産をもって、隣に向かった。
「こんにちは。研一です」すぐにピアノの音が止まった
「研一君、こんにちは。お母さんから色々と頼まれたわ」
「よう、研一君か。いらっしゃい。良く来たね」と桜子さんのお爺さんの光吉おじさんが顔を出した。
「高校はどこを狙っている?桜子の教え方はかなりスパルタだ。大変だぞ」
「もう、そんな事ない。やさしいわよ」
「ところで研一君。無線に興味ないかい?
無線の世界はいいぞ。どこの国の人とも話せる。民族も宗教も性別も関係ない。平等の世界さ」と光吉おじさんが言った。
「う~ん。そうねえ」
「あんまり興味ないか。おっと、今、カリブ海の局が聞こえているから。ごめんよ、ゆっくりしていって」と奥に引っ込んだ。
光吉おじさんは無線が趣味で、部屋には無線機が並んでいる。受信証というのが壁一面に貼ってあり、小さい時に色々と見せてもらった。これが南米ブラジルので、これは南アフリカの、そしてこれが南極の昭和基地のだと色々と自慢されたが、何が良いのか小さい僕には判らなかった。キレイなカードだとは思ったが。価値は今も判らない。
桜子さんと二人きりだと何だか気恥ずかしいので、挨拶もソコソコにして婆ちゃんの家に戻った。婆ちゃんは紅茶とケーキを用意して待っていた。
「桜子さん、ずっと二人きりなの。光吉おじさんと」
「そうね、光吉さんの連れ合いの香子さんが亡くなってからね。亡くなったのは…確か桜子ちゃん、中学生だったわね。香子さん、あまり体は丈夫でなかったの」
「ふ~ん、それで桜子さんのお父さんとお母さんは、いつ亡くなったの」
「ご両親とも、桜子ちゃん生まれてすぐ」
「事故か何か?」
「ううん、事故でないわね…」
「事故でないと病気?」
「うん、そうね…」何か話にくい事情を感じたので、僕は別の話題に変えた。
「転校は面倒なので、中学はここから通う事にする。電車で三十分くらいだから、学校までトータルで一時間くらいかな」
「そう、少し早起きかしらね」
「うん、そうだね」引っ越しの段取りや目指す学校の事など一通り話をしたので、暗くなる前に帰る事にした。
「日が暮れると急に寒くなるから寄り道せず帰りなさい」と言われて送り出された。
玄関を出てみると、綺麗な夕焼けが空を染めていた。隣の鉄塔を振り返り見上げてみると夕日に映える鉄塔は、何か美しく感動的だった。その時、僕の後ろをチリンチリンとベルを鳴らし自転車が通りすぎていった。
茜色に染まる鉄塔、シルエットの自転車の少女。僕は一句詠めそうに思えた。
「う~ん…」
自分に才能がない事を悟るのに、さほどの時間は掛からなかった。
3章 春風
「新入生挨拶、一年一組長沼真沙代」
「はい」ショートヘア―がやけに似合った女子が元気よく返事をして立ち上がった。
今日は高校の入学式。僕は地元、婆ちゃんの家から歩いていける県立高校に入る事が出来た。中三の一年間、片道一時間通学にかけていたので、高校は出来るだけ近くにしたかった。担任からは、ワンランク下げた方が良いと思うが、努力次第では大丈夫だろうとは言われていた。まあ、合格できたのは家庭教師の桜子さんのお蔭である事は誰もが認めるところだ。入試が終わって桜子さんと会う口実が無くなり、チョット寂しく思っている。
「あの長沼って子、入試ダントツで一番だったらしい。」後ろに並んでいた誰かのヒソヒソ話が聞こえてきた。
「ああ、アメリカからの帰国子女だっけ」
「うん、そう。で、県一番の進学校だって、余裕な成績らしい。」
「何で、ここに?」
「さあ」
「しょうがない、学年二番で我慢するか」
「二番って、お前は後ろからだろ」
入学式は淡々と終わり、クラスメートとの顔合わせもつつがなく終わった。帰り際、何気に桜子さんから貰ったお守りのカードを机の上で眺めていた。
「きれいなカードね。桜の絵?」同じクラスの女子から声をかけられた。新入生挨拶をした長沼女史だった。
「合格祈願として、家庭教師からもらった。お守りみたいなものかな」
「へ~手書きの絵ね。素敵な絵、きれい」
「うん、そう?」
「何かしら、この呪文の様な文字。チョット意味不明ね」桜の絵には、アルファベットの文字が書かれている。
『RAIWAUNAI RAIWAHE、RAIWAUNAI RAIWAU』
「ライワウナイ、ライワヘとライワウナイ、ライワウと読むの?何かの呪文?」
「うん、まあ、呪文というより暗号みたいなものかな」
「ふ~ん、暗号ねえ…う~ん…じゃあ、また明日、バイバイ」
「ああ、また明日」僕はクラスに親しい友達はいなかったので、一人で帰る事にした。
正門を出たところで、チリンチリンとベルが鳴り自転車が止まった。
「東川君」声をかけてきたのは自転車に乗った長沼女史だった。
「さっきの暗号?ライワ…何だっけ」
「ライワウナイライワヘ、ライワウナイライワウ」
「そうそれ。チョット考えてみるわね。暗号でしょ。何となく判ったような」
「まあ、構わないけど」
「ところで、東川君の家、大きな鉄塔のある家でしょ」
「ああ、鉄塔は隣の家のアマチュア無線のだね、てか、うち知っているの?」
「うん、駅への通り道。よく前を通るわ。綺麗な女の人がいるでしょ。東川君のお姉さんかしら?」
「僕は一人っ子。女の人は隣のお爺さんの孫の事じゃないかな。僕の家庭教師だった」
長沼女史は微妙な表情を見せた。
「ふ~ん。ピアノを弾いているのも、その家庭教師の…女の人?」
「そうだね」
「よくビートルズの曲、弾いている」
「そう?」
「私はビートルズだと『imagine』が好き」
「イマジン?」
「正確にはビートルズではなくジョン・レノンの曲だけど。知らないの?」
「う~ん、僕は音楽に限らず美術とか芸術系は全くダメ。苦手」
「でも、絶対聴いた事はあるわよ。すごく素敵な曲。私の心のバイブル」
「そうなんだ。まあ多分聴けば判るかな。ところで長沼さんって、新入生挨拶したじゃない。入試の成績、断トツのトップだったんでしょ」
「うん、まあ、そうかしら」
「もっと、上の高校に行けたんじゃ。同じ市内に、毎年東大に何人も入っている高校があるじゃない」
「う~ん、まあ、そうかもしれないけど、そうねえ、ここの方が家から近いし。一番の理由は、そう制服ね。ここの制服は可愛いじゃない。その市内の高校、私服だから制服がないでしょ」
「制服?そんな理由?」
「そうよ、制服の可愛さ大事よ。三年間着るのだから」
「ふ~ん」そんな理由で進学先を選ぶ事が僕には理解できなかった。
「私、髪の毛のばそうかな…ポニーテールにしてみようかな…」
「ん?髪が何?」
「ううん、何でもない、じゃあ、お先に、バイバイ」長沼女史は自転車のペダルを勢いよく踏みこみ、スカートをなびかせながら走っていった。
次の日の昼休みに、長沼女史から話しかけられた。
「あの暗号だけど。多分、後ろの方はサクラサクだと思うのだけど違う?」
「うん、合っている、前半はサクラサケ。良く判ったね」
「絵が桜だった事と、合格祈願と言っていた事からの推測」
「へ~すごいね」
「で、ライワウナイがサクラ?」
「うん、これ、電信の符号、モールス符号と言った方が良いかな。和文の符号を使って変換をしているんだ」
「東川君。モールス符号知っているの?」
「少しね。全部は知らない」
「で。何でライワがサクラ?」
「えっとね、チョット待って」僕はスマホでモールス符号を検索した。
「まず、サクラを『SAKURA』とローマ字にする。で、モールス符号には欧文と和文があるんだ。知ってる?」
「オウブンとワブン?知らない。何?」
「欧文は欧州の欧、要はアルファベット、和文は日本語、イロハニホへト」
「イロハニホヘト?」
「そう、あいうえお、でなくイロハ」
「ふ~ん」
「で、『SAKURA』だけど、『S』と同じ和文の符号はラになんだ」
「『S』とラが同じ符号…」
「『A』はイ」
「『A』「『K』はワ、『U』はウ」
「サクラのクが、ワウになるのね」
「そう、で、『RA』はナとイ」
「ラが『RA』で、ナイになる」
「そう、なので『SAKURA』はライワウナイ、それを、又、ローマ字にすると『RAIWAUNAI』になる」
「なるほどね、で、サケとサク、チョット符号表見せて」
「えっと、サはライだった、ケは『KE』だから、どれだ、ワとヘね」
「そうだね」
「サクラサケは『RAIWAUNAI RAIWAHE』ね」
「うん」
「サクは、サクラのサクと一緒ね」
「そう、一緒」
「だからサクラサクは『RAIWAUNAI RAIWAU』になるのね]
「その通り」
「なるほど、サの次のシは『S』と『I』でとイ同じ」でラと濁点になり『RA』と濁点。スは『S』と『U』でラウになって『RAU』ね」
「うん、『I』は濁点になるだよね。モールスでは、テンテン。トトっていうのか、つまり濁点と同じ」
「イは『I』だから、テンテン、濁点だけになるのね。キは『KI』だから、『K』がワで『I』が濁点で『WA˝』ね。『WA˝』て、どう発音すれば良いのかしら。ヴァかしら?へ~、でも面白いわね。これ、あの隣の、あの家庭教師の人が考えたの?」
「そう。隣のお姉さん、家庭教師だった」
その時、予鈴が鳴ったので話はそこまでになった。
4章 青空と雲
「光吉君?」
「えっと、江田さん?」
成人式の式場で、光吉は江田香子に声をかけられた。中学卒業以来の出会いだった。
「今、何しているの。高校は工業高校だったかしら」
「そう、電気科。今は電気工事の仕事をしている」
「確か工作が得意で、半田付けが上手だった記憶が」
「よく覚えているね。でも電気工事では半田付けはないよ」
「そうなの、何かカッコよくなった?」
「昔からだよ」
「そう?フフ。ところで今はどこに住んでいるの。気づいたら光吉君の家、川の傍にあった家、更地になっていたけど」
「今は会社の寮にいる。一年少し前に母親が亡くなったので」
「えっ、そうなの。確かお母さんと二人暮らしだった…」
「うん、父親は自分が小さい時に、だから全く覚えてない」
「ごめんなさい。知らなかった」
「いや、別に。ところで江田さん。体は良くなったの」彼女は体が弱く、学校をよく休んでいた。
「うん、今は年一回位検査で病院へ行くけど日常生活に支障はないわ。激しい運動は出来ないけどジョギング程度は大丈夫」
「そうか、良かったね」
「香子、ウォークマン買ってきた」
「ウォークマン?何で?」
「おなかの子に音楽は良いだろう。発売されるのを今か今かと待っていたんだ」
光吉は江田香子と成人式の後、何となく付き合い始め、電気工事業で独立してから結婚した。彼女は一人っ子で、彼女の親御さんは婿養子を望んでいた。自分にとって、婿養子は願ってもない事だった。婿養子なら苗字を変える事が出来る。
「で、音楽はなに?ベートーベン?シューベルト?バッハ?」
「いや、ビートルズ。『All My Loving』、聴いた事ない?」
「オールマイ…何?」
「『All My Loving』、まあ、聴いてごらん。僕の誕生日に発売の曲。中学の時に」
香子はプレイボタンを押した。
「へ~ラブソングね。目をつぶって~キスするからなんて、やだ恥ずかしい…毎日手紙を書く…ロマンチックね」
「だろ、胎教にピッタリだろ」
「胎教に?ロックが?」
「いいと思うけどな。そうそう、名前だけど『のぞみ』ってどうだろう。男の子だったら『のぞむ』でもいい」
『のぞみ』…うん、うん、いいわね。女の子なら『のぞみ』の『み』は美しいの『美』がいいわ」
「じゃ、決まりだ。男の子なら『のぞむ』で女の子なら『のぞ美』だ」
「のぞ美ちゃん、今日、どこに行くって言ってたっけ」
「ああ、母さん、手話サークルの山中さんの家に。山中幸次さん」
「山中さん?何時に帰ってくるの?」
「アルゼンチン戦をサークル仲間の人たちと見るの。何かシアターセットを自慢したいみたい。十人位集まるって…試合が終わる時間は、もう電車がないから泊めてもらうの。明日のお昼までに帰ってくるわ。お父さんには言ってあって休みもらってあるから」
のぞ美は、高校卒業後、父親光吉の仕事を手伝っていた。手話は高校の時に興味をもって始めていて、民間の手話サークルに参加していた。
「十人?そんなに泊まれるの?」
「うん、何でも、すごく大きな家らしくて江戸時代は名主っていうの、村の名家だったって言っていたわ」この夜、日本が初めて出場を決めたワールドカップの初戦、アルゼンチン戦がある。山中幸次の家は、都内から私鉄に乗って一時間ほどの郊外にある。
「江田さん、ごめんよ。待たせたね」
駅のロータリーで待っていると、軽四輪のトラックが止まり、山中幸次が車から降りてきた。
「さあ乗って」と助手席のドアを開けた。
「こんな車でごめん。荷台にネギが載っているけど気にしないで。家まで十分チョットだから。先に着いたメンバーが料理の準備を始めている」
「ごめんなさい。私が最後かしら」
「気にする事はないよ。みんな好きでやっているから。いつもの事。両親も騒ぐのが好きだし。若い人が来ると喜ぶ」
「何か楽しみ」
「ただ、面倒なのが一人いるけどね」
「面倒?」
「うん、爺さんが頑固というか。気難しいというか」
「気難しいの?」
「そう、何というか、考え方が古いというのか。明治時代、いや江戸時代かな」
「江戸時代?」
軽四輪は畑の中の道を進んでいった。
「あの、ここで言うのも何というか」
「何?」
「うん…その、何というか、実は付き合ってほしい」
「えっ」
「いや、返事は今でなくて後で。さあ、着いた。ここ」
軽四輪は大きな門を通り、かやぶき屋根の大きな建物の前に止まった。その時、玄関からサークル仲間の姜君が出てきた。
「ごめん、急用ができたから帰る」
「えっ、そうなの。残念だな、駅まで送っていくよ」山中幸次は複雑な表情をみせた。
「いや、大丈夫、歩いて帰る。一人になりたいから」と悲しい様な、怒った様な複雑な表情で言った。
「そうか、気を付けて。ごめんな。何か嫌な事、あったか?」
「いや、いつもの事さ。気にしなくていい。じゃあ、また」と一人で門の方へ歩いていった。玄関の奥に一人の老人が立っていた。
「爺さん、姜君に何を言った?」と山中幸次が声をかけたが無言でのぞ美を一瞥して奥へ引っ込んでいった。
「あの人が、お爺さん?」
「うん、八十過ぎなんだけど、車でも言った通り性格に…人を見下すというか…いや、気にしないで、君は大丈夫」
のぞ美は『君は大丈夫』と言われた事に、何とも言えない違和感を覚えた。
日本でワールドカップが開かれブラジルが優勝した年、のぞ美は山中幸次と婚約した。
式は一年後の秋に挙げる事になった。
式を挙げる年の夏のある日、急用だと言われて、のぞ美は山中幸次に呼び出された。
待ち合わせ場所の喫茶店に入ると、山中幸次はすでに来ていた。
「急用って?」
「うん」山中幸次は、なかなか用件を話さなかった。コーヒーが出てきたのを合図の様に話だした。
「ごめん、結婚は出来ない。ひとまず延期としてほしい」突然な事で何を言われているのか、のぞ美は判らなかった。
「えっ、どういう事。何で?」
「爺さんが、君との結婚を反対している。君はダメだと」
「ダメって、どういう事?」
「理由は、その、何というか」
「はっきり言って」
「君自身に問題があるのでなく…その」
「だから、はっきり言って」
「君の出生というか…君のお父さんの出身、出自が問題になっている」
「出自?」
「実は、爺さんが君の身辺調査をした」
「それで」
「うん、君のお父さんの出身地というか。生まれたところが…で、身内に出来ないと」
「生まれたところの何が問題なの?意味が判らない」
「爺さん、戦前の人だから、その、家柄というかなんというか」
「あ~、そういう事。つまり、うちは卑しい穢いとこの出身だから、あなたの家の様な名家にはそぐわないって事なのね」
「そうではない。僕はそんな事、そんな風には思っていない」
「いや、そう思っているわ。そうでしょ」
「ともかく、少し時間が欲しい。爺さんを説得する時間」
「どうやって説得するの?どうやって?」
「…」
「出来ないんでしょ。無理なんでしょ」
「いや、その、ごめん」
「全然はっきりしないわ。いや、はっきりしている。あなたも、お爺さんと同じ考えだっていう事。判ったわ。私たちは出会ってはいけなかったんだわ」のぞ美は初めて山中幸次の家を訪ねた時に感じた違和感を、思い出していた。
「いや…そうじゃなく…僕は、僕は爺さんとは違う」
「いいえ同じよ。もう、いいわ。もう二度と会う事はないわ」のぞ美はコーヒーを飲まず席を立った。
その時、生理が遅れている事を特に気にしてはいなかった。
翌年の四月、のぞ美は女の子を産んだ。
しかし、出産時の出血が止まらず帰らぬ人になってしまった。光吉と香子によって桜の子と書いて『ようこ』と名付けられた。
子供が生まれた事、のぞ美が亡くなった事を実の父親は知らない。
5章 陽春
「研一君、実力テスト戻ってきた?」
中三の新学期が始まり、桜子さんとの受験勉強が始まっていた。
「はい、これが国語、そして英語」
「うん、そうね、まあまあ良いじゃない」
「で、これが数学」
「う~ん、これは…壊滅的というか」
「そう、全くダメ」
「単純な計算問題は出来ているけど、証明問題がダメね」
「でも僕は文系だから数学は、まあ、ソコソコに出来れば。そもそも証明って、将来使う時があるの?」
「そうねえ。でも数学の考え方は文系にとっても大事なのよ」
「大事?」
「証明問題はね、既に認められた事を根拠として、その事柄が正しい事を筋道立てて説明する事なのね」
「うん?何を言っているのか」
「日常生活であるでしょ。相手に説明、説得する事が」
「まあ」
「説得するには、相手に自分の考えを判りやすく伝えないとダメよね。理解してもらわないといけない」
「そうだね…」
「そう、論理的に説明しないと矛盾なく。その練習が証明問題」
「う~ん、そういう事?何か難しいなあ」
「うん、今の会話もそうでしょ。反論があれば。はい、どうぞ」
「反論は…ない」
「別の言い方をするとね、証明は抽象化と具体化をする事」
「抽象化?」
「抽象化って、どういう事かしら」
「なんだろう? 改めて聞かれると」
「じゃあ、具体化は?」
「具体化は…物事をハッキリさせる?明確にする事…かな」
「そう、その通り。具体化が判れば抽象化も判るでしょ」
「どう言えばいいんだろう。何か明確する事かな」
「え~とね、複数の物事から共通する要素を見つける事。重要でない情報を取り除いて物事の本質をとらえる。が抽象化。具体化を具体的に言うと…そうね、5W1Hね」
「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どの様にだったっけ」
「その通り。だから証明問題は色々な視点で情報を整理して、具体化、抽象化して物事を考える思考訓練ね」
「訓練?」
「そう、社会に出た時の為の訓練。働きだしたら会議とかで説明する、説明を受けるとかの場面があるでしょ」
「まあ、あるだろうね」
「説明を受ける場合、相手の説明を良く聞いて理解しないと。そして、理解出来ない事や疑問があれば、具体的に質問や反論する事が必要でしょ」
「質問、反論も相手が判る様に…」
「そう、その通り。そして騙されないようにしないと」
「騙されない?」
「そう、騙されない。相手の説明が論理的であり矛盾がない事を確認しないと。けむに巻かれて騙されないようにね」
「騙されるか…」
「そう、詐欺もそう」
「詐欺って」
「例えば、儲け話とかあるとするでしょ、絶対に儲かるとか」
「うん」
「その儲け話に矛盾ないかをキチンと確認しないと。騙されないように」
「う~ん、騙されそうだな」
「まあ、壺とか印鑑だとかは、それなりに怪しいと思うかしらね。でも、詐欺とまでいかなくても怪しそうなものは世の中には沢山あるわ。そうね、食品だと健康食品とか」
「健康食品が?」
「全てが怪しいではないわよ。でも、例えば癌に効くとか、楽に痩せられるとか、あるわよね」
「あ~、あるね」
「何故、癌に効果があるのか、何故、痩せられるのか、その根拠ね。科学的、医学的にどうなのか、世間一般に認められているものなのか」
「謳い文句を信じるなって事か」
「信じるのは良いのよ。ただ、簡単に信じてはいけない。人は自分に都合の良い事は簡単に信じて、都合の悪い事は信じない、排除する傾向があるの」
「それで、抽象化と具体化か」
「そう、物事を客観的にみる為にね。ところで研一君、血液型は?」
「えっ何、突然、A型だけど」
「血液型の性格判断、信じている?」
「う~ん、まあ合っているかも、でも、何か違うんじゃ?と思う事もあるから…ん~半信半疑?」
「まあ、信じている人もいれば、話のネタで使う人もいるのかしらね」
「うん」
「学校で血液型はならった?遺伝の話」
「理科かな。まだ」
「じゃあ、A、B、AB、Oの血液型の違いの根拠は知らない?」
「うん、詳しくは」
「抗体って判る?」
「抗体…」
「抗体を説明すると長くなるわね。簡単にいうと遺伝子ね。AとBの二つの遺伝子があると思って。赤血球のね」
「赤血球の遺伝子?」
「そう、Aの遺伝子を持っていればA型、BをもっていればB型、両方もっていればAB型、どちらも持っていないとO型」
「ん?あれ?それだとAB型って…AとBの両方の性格を持っていないと…」
「いいわね。そうよね。じゃあO型は?」
「えっと、性格が無い?て事?」
「うん、そうなるわね。ちなみに『O』はドイツ語からとか、元々は『ゼロ」だったとかいわれているわ』
「ふ~ん。なるほどね」
「血液型の種類、ABO以外も有るけど、知っている?」
「えっと、RH」
「そう。RHプラスとマイナス、あとRHヌルがある。他にも種類は有って四十種チョットあるの」
「そうなの」
「そう、もし、血液型で性格が決まるのであれば、ABO式以外の血液型を考慮する必要があるんじゃない」
「そうだね」
「あと、血液型は変える事が出来る。というか変わってしまう」
「血液型が変わる?AがBになるとか?」
「そう、白血病という血液の病気は知っているでしょ」
「うん、知っている」
「白血病の治療のひとつが骨髄の移植」
「骨髄移植、うん」
「骨髄移植で重要なのは白血球の型、赤血球の型は重要ではないの」
「白血球にも型があるんだ」
「そう、赤血球の型が重要でないという事はA型の人にB型、AB型の人にO型の骨髄移植が出来るという事」
「そうなんだ」
「血液は骨髄で作られる。だから移植を受けた人は骨髄を提供された人の血液型になってしまうの」
「だから、血液型が変わる」
「例えば研一君が白血病だとして、骨髄移植で治るとするじゃない」
「うん」
「その骨髄提供者の性格がメチャクチャ悪くて評判の悪い人だとしたら、どうする。移植する?」
「まあ、血液型が性格に影響するのだと、どうしよう。ちょっと待ってかな。でも死ぬのは嫌だな…病気が治るなら…」
「どうする?」
「まあ、そう、性格に影響しないのだから関係ない。移植する」
「判った?世の中には色々な情報が混ざっている、何が正しくて正しくないかを切り分け判断するが大事ね。玉石混淆だから」
「えっ。ぎょくせきこんこう?」
「玉石混淆、価値の有る物と無い物が入り混じっている事」
「入り混じっている物から、価値のある物とか正しいものを選びだすって…事か」
「そう、難しいかもしれないけど、悩む事は全く問題ではないわ。ただ、人に言われた事を鵜呑みにして信じる事はダメ」
「そうしたら、今の話もそうなんじゃ」
「そうよ、その通り。自分で調べる事、考える事、そして自分で判断する事が大事ね」
6章 深緑
「研一君は、どんな色が好きなの」
勉強の休憩時間に桜子さんから聞かれた。
「そう、青、濃い青かな」
「ふ~ん。何で」
「何でって…カッコよく感じるからかな」
「うん、青系の藍色とかは高貴な色よね」
「ふ~ん。高貴な色で思うのは白…かな」
「そうね、白、どういうイメージ?」
「白は正しい、良いイメージかな」
「黒は」
「黒は悪い。良くないイメージ」
「なんでかな」
「う~ん、刑事ドラマなんかで犯人はクロっていうし、犯人じゃなかったらシロ。あと…そう、天使は白いし悪魔は黒い」
「うん、悪魔は黒い恰好をしている。昔からね。白は善で、黒は悪」
「なんでだろう」
「大昔からね。光は白。闇は黒。闇は忌み嫌う。闇は怖いしね」
「白と黒…色のイメージかぁ」
「そう、イメージ」
「肌の色…黒人の差別も、黒いから?」
「それはどうかしらね。白人が黒人を差別するのは肌の色が原因ではないと思うけど…黄色、黄色人種も差別されるわね」
「黄色人種、日本人か」
「黄色人種は日本人だけではないわ」
「韓国朝鮮や中国、アジアの人たち…」
「そうね、で、何で肌の色って、白や黒、黄色があるのだと思う」
「なぜだろう」
「メラニン色素って聞いた事あるでしょ」
「えっと、メラニン色素が多いと黒くなるのだっけ?日焼けの原因」
「そう、日焼けは紫外線を浴びる事で起こる皮膚の炎症。皮膚ガンへの注意も必要ね。で、メラニン色素は紫外線から私たちの体を守ってくれる大切なもの」
「うん」
「紫外線が強い緯度の低い地域、赤道に近くに住んでいるとメラニン色素が多くなり肌の色は黒く、紫外線が弱い緯度の高い地域の人の肌は白くなるの」
「そうか、北欧の人は白いね」
「人類学という学問上では、人種はホモサピエンスという一種だけなのよ」
「一種?」
「そう、白人も黒人も黄色もみんなホモサピエンス」
「あ~そう」
「肌の色みたいに目に見える身体の特徴で人間を分ける考え方もあるけど、そもそも人類の起源はアフリカ。アフリカから世界中に広まったの。肌の色が地域によって違うのは環境による作用で生物学上では全く意味はないのね」
「う~ん」
「黒人は運動能力が高いと思う?」
「思う。オリンピックとかをみると」
「頭の良さは?白人の方が優れてる?」
「えっと、そう、変わらない…ね」
「そう、白人も黒人も、もちろん黄色の人たちも、運動能力も学習能力も基本的には変らない。違いがでてしまうのは社会経済的背景の影響が大きいの」
「うん?」
「ちょっと中学生には難しいかな。簡単に言ってしまうと、能力の差と肌の色は関係ないって事」
「社会経済的背景って?」
「広い意味では、政治、経済、環境ね。狭い意味では、性別、学歴、所得ってことかな。例えば、お金持ちの家の子は塾に行けるし家庭教師も頼める。そして良い高校、良い大学に行けて高度な教育を受けられる。貧乏の家の子は塾にも行けない。才能があっても進学を諦めざるをえない。元々同じ学力だったとしても差がついちゃう。貧富の差で学歴に差がでる。体格だって、トレーニングや食事で差がつくでしょ。お金持ちの方が有利」
「まあ、確かにね」
「さっきの白黒だけど、やっぱり白の方がイメージが良いわね」
「うん、白星と黒星っていうのもある。白は勝ちで黒は負け。白黒つける」
「白黒って、前の白が良い意味で後ろの黒が悪い意味ね」
「うん」
「善悪も前が良い意味で後ろが悪い意味」
「勝負、真偽とか?」
「生死、優劣、是非」
「高低、上下、表裏もそうだ。言葉の順番のイメージも関係するのかな」
「でも、逆もあるわ。例えば貧富」
「あ、そうか。陰陽とか…」
「あら、難しい言葉知っているのね」
「陰陽師」
「ああ、そうね。軽重とか苦楽もあるわ」
「寒暖もそうなのかな」
「難易とか雌雄」
「雌雄?メスとオスか。男女とは逆だね」
「父母、夫妻は男女の順」
「言葉の順番に、何か意味あるのかな」
「あると考える人もいると思うけど… でも、過剰な考えね。それは言葉狩り」
「そうだね」
「研一君、ポリティカルコレクトという言葉を聞いた事ある?」
「ポリティカル…」
「直訳すると政治的妥当性。特定の人に不快感や不利益を与えないよう意図した政策の事なの。人種、信条、体形などの違いによる偏見や差別をしない表現や用語を使う事ね」
「ムズ、何を言っているのか」
「例えば看護師。昔は看護婦」
「看護婦の婦がダメって事?」
「そう、婦人、女性を示す言葉だから。看護する人には男性もいるでしょ」
「いるね」
「スチィワーデスもそう」
「え~と、キャビンアテンダントの事?」
「そう。日本語では客室乗務員」
「何か面倒だな」
「あと、時代とともに職業の多様性っていうのかな、変わってきているし。個の尊重の重要性も考える様になったのね」
「話が難しい。理解が追い付かない」
「そうねえ、個の尊重を簡単に言うと…人それぞれ才能というか、能力の違いはある」
「うん」
「誰もが百メータを九秒台、十秒台で走れる訳ではないでしょ。どんなに努力しても十秒どころか十一秒も切れない人はいる」
「そうだね。大部分の人がそうなのじゃ」
「音楽でいうと絶対音感とか。小さい時から音楽に親しんでないと無理ね」
「絶対音感て、音の高さを聞き分ける事が出来る事かな」
「そうね。あと、言葉、外国語。何ヵ国語も話せる人とかいるでしょ。同時通訳も誰もが出来るかというと」
「僕には無理だ」
「無理かどうかは判らないけど、才能能力の違いは有って当たり前でしょ。自分と他人は違うの。お互い尊敬、敬意を持つ事ね。あと、持って生まれた才能というけど、才能は努力しなければ開花はしない」
「努力ねえ…でも生まれつきっていうの、例えば背は努力で伸びないでしょ。バスケットの選手を目指すなら背が高い方が」
「確かにプロスポーツとかオリンピックを目指すなら体格というか運動能力は大事ね。持って生まれた能力をさらに高めるのも一つの方法。でも、それ以外の方法もある。バスケットだって背が高くない選手いるでしょ。無いものは無いの。有るもの、持っているものをどう生かすかでしょ」
「う~ん、そう言われればそうかもしれないけど…」
「努力する、しないは本人の問題、考え。つまり他人は関係ない。自分の才能を客観的にみる事。だから、他人の才能才覚を羨んで妬んでも意味ないって事。自分は自分で他人は他人なのだから。自分の才能を信じる事が大事なんじゃない」
「でも、『蛙の子は蛙』、平凡な人間の子は平凡な人間になるって意味でしょ。やっぱり努力しても出来ない事は出来ない…」
「まだ中学生、十代なのだから、そういう考えは年寄りになってからね。『親は親、子は子』ということわざもあるわ。意味は自分で調べてね」
7章 夕立
「ふ~疲れた」僕は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「研一君、眼鏡をかけるけど、目はどのくらい悪いの」
「悪いといってもそんなには悪くないけど、眼鏡がないと辞書とかの小さい字がね」
「小さい字が見にくいの?お年寄り?」
「年寄って、ひどいな」
「研一君、障がい者って意識ある?」
「ん?別に思ってないけど」
「じゃあ、補聴器を使っている人は?」
「耳が悪い。聞こえにくい人だから、障がい者かな。年寄りは別にして」
「そうね。では眼鏡と補聴器の違いって何かしら?」
「違いって、目が悪い人は眼鏡を使い、耳の悪い人は補聴器を使う。だよね?」
「うん、そうね。違いは目と耳だけよね」
「そう…」
「目と耳は誰もが持ってる」
「うん」
「目が悪い人は眼鏡を使い、耳が悪い人は補聴器を使うってだけ。眼鏡も補聴器も両方とも身体の悪い箇所の補助道具。だったら、眼鏡を使っている人が障がい者ではない健常者だったら、補聴器を使う人も健常者ね。逆に補聴器を使う人が障がい者だったら、眼鏡を使っている人の障がい者」
「うん?そう…そうなる?」
「そうでしょ。何かおかしいかしら」
「いや、おかしくはない…か。えっ、でも、その考えでいったら、車いすの人も障がい者ではないって言えちゃうけど」
「そう、眼鏡、補聴器、車いす、どれも人間の部位の補助道具よね」
「いや、でも、眼鏡をかけているから障がい者というのは…チョット」
「そうね、チョット無理があるかもね。実際は障害のレベルで線引きになるのだけど」
「線引き」
「そう、眼鏡によって日常生活に支障がなくなる人と、眼鏡を使っても十分な視力を得られない人はいるわよね」
「そうだね、どこかで分けないと…支援?援助が必要な人への…」
「そう、障がいが重ければ何らかの支援や援助が必要ね。どこかで線引きしないといけない」
「その線引き、難しいね」
「うん、グレーゾーンていうの、どちらともとれる人はいる」
「考え方次第ってこと?」
「簡単に言ってしまうと、障がい者は健常者と比べて出来ない事が多いだけ。いや、範囲が違うって言ったほうが…障がい者の方が優れている事もあるし」
「障がい者の方が優れている?」
「ブラインドサッカー、知ってる?」
「うん、目の見えない人がやるサッカー」
「そう。研一君、目をつぶってサッカーを出来る?」
「無理無理。走る、いや歩く事すら無理」
「そうよね。ボールからは鈴の音がするけど相手もいるし、怖いわよね」
「でも、ブラインドサッカーの選手は、走ってドリブルして相手をかわしてしてシュートをする」
「そうでしょ。それは健常者より優れているんじゃない?」
「うん、そうとも言える」
「研一君、手話ってあるでしょ」
「うん、耳が聞こえない人が手を使って、コミュニケーションをとる」
「そう。手話でコミュニケーション、充分な意思疎通が取れるのであれば何ら問題ないでしょ。出来る形が違うだけなんだから健常者でいいんじゃない」
「まあ、そうだけど、手話は誰でも使えるわけではないし、周りの音が聞こえないのだから健常者だと言うのは…」
「では、世の中の人、みんなが手話をできたら?」
「う~ん、どっちだ?でも、やっぱり音が聞こえないのだから…」
「うん、まあ、そうね、何を基準にどう考えるかだから、正しいとか間違っているとかではなくて。立場環境によって考え方は変わる事に何ら問題はないでしょ」
「何を基準に…」
「手話による意思疎通が出来るという事に注目すれば健常者って言っても良いし、研一君が言うように、音が聞こえないのだから、やっぱり障がい者という考えも間違いではないわね。まあ、『健常』とか『障がい』という表現もどうかと思うけど…」
「難しいなあ」
「何を基準で考えるのか…ね。基準て色んな基準があるでしょ。形、長さ大きさとか色々と」
「うん」
「何を基準とするかで結果が異なる事、あるでしょ?」
「ん?そう?」
「例えば、1㎏の大豆と1㎏のゴマを混ぜたら何㎏?」
「2㎏でしょ」
「そう、2㎏ね。では、1ℓの大豆と1ℓのゴマを混ぜたら2ℓになるかしら」
「えっ、2ℓでしょ」
「よく考えてね。2ℓの容器なみなみに、いっぱいになるかしら?」
「え~と…そうか。大豆の隙間にゴマ入るから容器いっぱいにはならない…2ℓに満たない…1ℓかもしれない」
「1ℓかは大豆とゴマの大きさ次第だから判らないけど、重さで考えるか体積で考えるかで結果は違うわね」
「そうだね」
「あと時間。時間で考えると、また、面倒なのよね」
「面倒って」
「今は良いとされたものが、将来、未来になると都合悪くなる。つまり時間軸で評価が変わってしまう。例えば何がある?」
「うーん、なんだろう」
「例えば、そうね、レジ袋とか」
「あ~、レジ袋、今は有料になった」
「そう、出た時は重宝された、丈夫だし再利用もできるし。でも今は環境汚染の原因のひとつとされている」
「そうだね。石炭とか石油もそうなるのかな?」
「そうね、産業革命とかで色々と恩恵があったけど、今は温暖化の原因だと。今の評価と将来の評価が一致しない、正反対になる事が有る事を覚えておく必要があるわ」
「う~ん、頭、パンクしそう。逆に今は悪くて将来良くなるのは何だろう?」
「そうねえ、チョット意味が違ってしまうかもしれないけど、今、学校で学んでいる事じゃない。数学とか、歴史とか」
「えっ」
「例えば数学だと方程式、ⅹとかyとか学んで意味あると思える?歴史だと鎌倉幕府がいつ成立していても…学んでいる今の時間、無駄だと思わない?」
「それを言ってしまったらお終いじゃ。古文とか漢文も、理科で酸素や二酸化炭素を発生させる事だって…」
「そうよね、お終いよね、フフ。まあ実際は無駄ではなく、将来、絶対役に立つわ。それは直接的でなく間接的かもしれないし」
「関節的にねえ」
「そう、役に立つ時期も年を取ってから、八十才、九十才になってからかもね」
「へっ、生きているかな?」
「どうでしょうね。ともかく、学ぶ事に無駄はないわ。今は無駄で意味ないと思っていても、いつか役に立つ時がくる。一年後かもしれないし、五十年後かもしれない」
「う~ん」
「あっ、今、悪くて将来良くなる事、思いついたわ」
「何?」
「研一君、君の成績」
8章 うろこ雲
「さあ、勉強始めましょう。今の調子なら第一志望、大丈夫ね」
「そうかな?まだ自信ないけど」
「今、出来ている事と出来ていない事の区別が出来ているでしょ」
「うん、まあ、苦手な問題は大体だけど判ってきている」
「なら、大丈夫。苦手な問題を、どう対処するかを考えましょう」
「は~い」
「ところで区別と差別、どう違う?」
「えっ差別。区別と差別、どう違う?差別も区別する事だよね」
「差をつけて分けるから差別。差をつけないのが区別。字のままね」
「差をつける、つけない?」
「例えば、男と女で分けるとか、住んでいる場所で分けるとか、これは区別」
「それは、差別ではない?」
「単に分けるならね。でも、その区別に差をつけたら差別」
「差をつける?」
「同じ仕事をしているのに男女の違いで賃金に差をつけたら、男女差別になる」
「ああ、そういう事」
「住む場所の制限、あなたはこの場所で暮らしなさい。それに合理的は理由があれば区別だけど、単に嫌いだから気に入らないという理由なら差別ね。差別って他にも色々あるでしょ」
「う~んと、人種、民族とか、学歴に」
「あとは」
「障がい者とか、容姿や体形もあるかな」
「そうね、宗教とか趣味嗜好、家柄とか貧富もある。地域もね。病気もそう。ハンセン病とかね」
「色々あるのだね」
「差別は、優越感、劣等感への裏返しだと思うの。まあ人間の『性』かしら」
「さが?」
「自分ではどうしようもない性質ね」
「ふ~ん」
「同情、相手をかわいそうと思う気持ち。これは差別?」
「相手を思ってなんだから…差別ではないと思うけど」
「でも、かわいそうと思うのは優越感からでしょ。相手を下にみている」
「あ~、下にみているね」
「それも差別じゃない?」
「う~ん」
「差別はいじめよね」
「まあ」
「自分より劣っているから、別に何をしたって構わない」
「でも、さっき劣等感の裏返しって…」
「そう、妬みっていうのかな。自分が出来ない事が出来るとか違うものを持っている。それを羨ましく思って憎く思う」
「妬みか」
「そうね、妬み。僻みって言ってもいい」
「でも、自分に出来ない事が出来る人は憧れるけど」
「まあ、そこが問題ね。憧れるか妬むか」
「人間ていうのは面倒だな」
「ひとつ質問」
「何?」
「平等と公平の違いって判る?」
「平等は差別がない事?公平は、えっと、えこ贔屓が無い事かな?」
「研一君、国語は大丈夫ね」
「国語は、か」
「平等は誰もが等しい事ね。で、公平は能力や状況に応じて適切が扱いを受けること」
「ん?同じ事じゃ?」
「うん、例えば…高い棚の上の荷物を取るとするじゃない」
「うん」
「背の高い人は楽に荷物に届く。背の低い人は届かない」
「うん」
「背の高い人も低い人も、みんなで取りましょう。これ平等ね」
「まあ、そうだね」
「でも、公平かしら?」
「高い所の荷物は背の高い人がとった方が良い。楽だよね」
「そう、平等だけど公平とはいえない。背の低い人にとっては。背の低い人は別の出来る事をすれば良い。降ろした荷物を運ぶとか」
「あ~、能力や状況に応じてってことね」
「そう、でも能力や状況を適切に判断する事が難しいのだけど」
「そうだよね。考え方、価値観っていうの。それば人それぞれ違うよね」
「そう、考え方は、個々によって異なるものよね。はい、問題」
「えっ、また問題?」
「Aさんがある立体を見て三角形と言いました。Bさんは丸だと言いました。見ている立体は同じ。どういう事でしょう」
「えっ、三角だけど丸でもある立体?何だろう?えっと…何だ…あっ三角錐」
「はい、正解」
「うん、三角錐だ」
「同じ物を見ても、見る方向によって形は異なってみえる。どちらも間違った事を言ってはいない」
「そうだね」
「ただ見ている方向が違うだけ。だから相手が自分と違っていても、なぜ違っているのかを考える事が大事。マルかバツ、正しい間違っている、のニ択ではなくね。相手の考えを理解しようとする事が大事。研一君、1+1はいくつ」
「何、突然。2でしょ」
「普通はそう答えるわね。でも、2以外の答えもあるでしょ」
「2以外?」
「2進数って、もう習った?」
「プログラミングの授業でやったね。えっと、1+1は…イチゼロかな」
「そう、10。論理和とか論理積も習ったかしら」
「論理…何?」
「答えを言ってしまうと、論理和では1+1は1。1+1+1も1」
「うん?」
「まあ、判らなくてもいいわ。1+1は必ずしも2ではないという事が判っていれば」
「う~ん」
「つまりね、人それぞれ考え方が違うという事を判ってほしいの。自分は1+1は2だと思うけど、あなたはどう思いますかって謙虚でないとね。さあ、勉強の続きをしましょう」
9章 うね雲
「受験まで、あと少しね。まあ、いい調子じゃない?少し休憩しましょう」受験に向けての追い込みの最中だった。
「うん、ふ~」と僕は深く息を吐いた。
「今日ね、中学で福田村事件の授業があったんだ。人権授業として」
「福田村事件…関東大震災の時の虐殺事件の事ね。朝鮮人だとして香川の行商人たちが殺された事件。研一君、どう感じた?」
「うん、差別の酷さというか、集団心理の怖さって言うのか…ただ、特殊部落というのが良く判らなかった」
「そう、説明はなかったの」
「あった、昔の身分制度で、『エタ』とか『ヒニン』とか」
「封建時代にあった身分の制度ね。天皇や公家、武士や町人農民がいて、その下の身分が『エタ』と『ヒニン』。身分制度の最下層。穢いが多いと書いて『穢多』、人に非ずと書いて『非人』ね」
「穢多と非人…」
「穢多非人の人たちが住んでいる場所地域を特殊部落というの。川の傍に住んでいる人たちは河原者ともいったわ。その人たちを差別するのが部落差別で同和問題ともいうの」
「今でも差別はある?」
「あるわよ、穢多非人という身分の始まりは鎌倉時代かしら。そして江戸時代まで続き明治になって武士も町民も穢多非人も、みんな同じ身分、平民となったので法的にはいない事になってはいる。でも今の時代も差別は残っているの」
「ふ~ん」
「部落出身者はね、就職とか結婚で差別を受ける事があるのよ」
「結婚で差別?」
「そう、部落出身者との結婚を身内から反対されるとか、部落出身と判ったとたん婚約破棄とか離婚されたり」
「でも、就職もそうだけど、部落出身というのはどうやって判るの」
「それは、住んでいる場所、住んでいた場所住所から判るの、地名っていうの。部落特有の地名とかがあるし、番地が突然不自然に飛ぶとかがあってね。部落の場所や地域を載せた書籍も出版されているし、今はネットで検索、調べる事も出来る。この近辺でも、それらしい地名はあるわよ」
「ふ~ん。知らなかった」
「あと苗字ね。部落出身者に多い苗字があるから、それなどからも判ってしまう」
「そうなんだ」
「でも、地名、住所は区画整理とかで昔の名前から変わっている場合もあるので、今は判りづらくなっているかも」
「で、穢多非人って何をしていた人?」
「穢多非人という人たちは、例えば死んだ牛馬を解体して毛皮の加工とか馬具や甲冑を作る人。造園作庭とかに従事する人、職人ね。芸人、処刑や葬儀葬式、廃棄物処理の仕事をする人もそうだし。あと、牢屋の番人や岡っ引きもそうね」
「岡っ引きもなんだ」
「嫌われる仕事や汚い仕事、みんなやりたがらない仕事をしていた人ね。本来は重宝される人達で差別される立場ではないのだけどね。あとは罪人や今風にいうとホームレスも」
「ふ~ん」
「江戸時代までは、それなりに身分は保証されていたの。皮革産業などは独占できていたから、それなりに生活できていた。明治になって身分制度が変わって穢多非人はいない事になり、皮革産業の独占権がなくなって生業が続けられない人もでてきたのね。まあ、裕福な、富を稼いだ穢多もいたけど、どちらかといえば総じて貧乏かしら」
「貧乏だから差別されるの?」
「部落問題は簡単には語れないわ。江戸時代までの身分制度や風習、明治になった時の身分解放令とその影響とか色々と複雑。身分制度が変わって武士も町人農民も皆同じ身分の平民になったけど、穢多非人の人たちは平民でなく新平民と呼ばれて、結局何も変わっていない。差別は続いていた」
「う~ん」
「だって、昨日まで蔑んでいた人たちを、今日からみんな仲良くしなさいって出来る?」
「まあ…ね」
「それに穢多非人の人たちだって戸惑うでしょう。どうゆう態度をとれば良いのか」
「うん」
「女人禁制って知っているわよね」
「うん、女の人が入っていけない場所。山とか相撲の土俵。昔は山に登れなかった」
「そう、山岳信仰ね。山に神秘的な力を感じて、神聖な場所というのかしら。だから穢してはいけない。女性は不浄な存在だから、その神聖な場所に入ってはいけない」
「女性が不浄って、汚いって事?」
「そう、不浄には生理って意味もあるわ。御不浄といえばトイレの事になるし」
「ん、それで何で女性は汚いって事になる?不浄ってなるのかな?」
「血、出血はキレイ?汚い?」
「う~ん、まあキレイとは言えないか。他人の血は触りたくないし」
「そうでしょ、血は汚いものなの。そして女性には生理がある。出産でも出血する」
「血か…」
「血は不浄なんもの、汚い。汚いのはいやでしょ」
「まあ、汚いのは」
「そうよね。汚いものは近くにいると、いやじゃない?穢多の人たちの生業の牛馬解体や処刑、死体処理とか血がからんでるでしょ」
「血ね…」
「逆に男子禁制、女性の方が男性より霊的に優れていると考える地域もあるのよ」
「日本に?」
「そう、日本、沖縄。琉球っていった方が良いかしら。女性だけが神に仕える役職につけたの。祈りの場は男子禁制」
「ふ~ん、文化が違うのかな」
「そうかもね。血はね、別の意味でも絡むわね、血筋、血統」
「血筋、血統…」
「そう、家柄とか出自といってもいいのかしら。生まれてきた当人にとってはどうする事も出来ない…」
「う~ん、難しい、熱がでそう」
10章 わた雲
今日、高校の初めての定期試験、中間テストが終わった。結果は悲惨である事に間違いはない。家に着く直前だった。
「研一君、何か元気ないわね。試験が終わったんだから喜ばないと」自転車に乗った江田女子だった。
「うん、テストの結果がね。特に数学は赤点確実。他の教科もダメ、悪い点数」
「悪い点数って、どのくらい?」
「多分、五十点いってない」
「そうなの。でも、みんなが四十点くらいなら五十点は良い点数じゃない?」
「いや、みんな四十点て事はないさ。ちなみに江田さんは何点?」
「私は、そうね~…私の事はいいの。それで何点なら良い点数なの」
「まあ、そうだな、八十点かな」
「じゃあ、七十九点は悪い点数?」
「まあ、八十点を良い悪いの境いとすれば悪い点数」
「一点しか違わないのに?」
「まあ、良い点数でも良いけど」
「七十八点は?」
「ん、良い…いや悪いでもいいか」
「どっち?」
「てか、何を言いたい?」
「単純な話。七十八点が悪い点数なら一点違いの七十九点も悪い点数でいいわよね。さらに一点違いの八十点も悪い点数、で、考えていくと九十点も百点も悪い点数」
「で、何?」
「逆を考えていけば、七十八が良い点数なら七十七点、七十六点も良い点数」
「…」
「そうやって考えていけば、五十点も四十点も良い点数よ」
「いやいや、違うでしょう。僕の事をからかっているの?」
「違うわよ。気の持ち方って事。過ぎてしまった事でくよくよしても。くよくよしていたら五十点のテストが八十点になるわけではないでしょ。時間の無駄なんだから前を向きましょう」
「う~ん。まあ、優等生には判らないよ。この悩みは」
「もう…そうね…えっと、研一君はゴルフは知ってるわね」
「ゴルフがなに?」
「今をゴルフに例えれば第一ホールが始まったばかり。第一打をバンカーや林に打ち込んだとか池ポチャしたとかでしょ」
「…」
「大事なのは最終ホール、18番ホールでの成績。そうでしょ」
「うん…」
「まだまだ挽回できるでしょ」
「う~ん…」
「もう。どうしましょう…そう、じゃあ、気分転換しましょう」
「気分転換?」
「明日の土曜、サッカー。Jリーグに付き合ってくれる?」
「Jリーグ?」
「うん、招待券があるのだけど、一緒に行く約束をしていた友達が都合悪くなったの。だから東山君、一緒に行きましょう。スタンドで声を張り上げれば気分が変わるわ」
僕はサッカーに興味はなかったが、天気も良さそうだし、気分転換も有りかと思ったので付き合う事にした。
「東山君、黄色いシャツ持っている?」
「いや、持ってない」
「そう、じゃあ、赤以外のシャツを着てきてね。赤系は絶対ダメ」
僕は初めてサッカースタジアムに足を踏み入れた。
「良い席でしょ。メインスタンドの上段。ピッチ全体が良く見渡せるでしょ」
「そうだね」スタジアムはサッカー専用で陸上のトラックがなく、スタンド最前面だと選手に手が届いてしまう様に思えた。
「子供連れとか、年配の人も結構いるね」
「うん、小さい子や年配の人、多いかな。海外ほど過激なファンはいないから安心して見られるの」
「そうなんだ」
「でも、時々、ケンカとか暴力沙汰、揉め事を起こすサポータ…サポータとはいえないけど、ニュースになる事もあるわね」
ゴール裏はまだキックオフまで時間があるのに、大きな旗を振り、太鼓をたたき飛び上がっていた。スタンドの右のほうはホームチームの黄色、左がアウェイの赤色の色に染まっていて対象的だった。赤のシャツがダメと言った事に納得した。自分の周りは黄色ばかり、長沼女史は黄色のレプリカユニホームを身につけていた。ユニフォーム姿、何か可愛いいなあと思っている自分がいた。
「江田さん、サッカー好きなのだね」
「うん、アメリカでサッカーやってたの」
「へ~、アメリカでサッカーか」
「アメリカは、男女ともワールドカップの常連よ。女子は世界一になっているし」
「ふ~ん、野球とかバスケが有名かと思っていた。あっ、一番はアメフトか」
「そう、ナンバーワンはアメフト、バスケやアイスホッケーも人気。サッカー、野球とそれに続く感じかしら」
「ふ~ん」
「野球、ベースボールやバスケは日本人が活躍しているから日本のニュースで良く流されるけど、一番はやっぱりアメフト」
「それで、何でサッカーを始めたの。まあ、アメフトはないか」
「そうねえ。世界を目指す、世界へ出ていくならサッカーでしょ」
「目指すって、サッカー選手になるの?」
「目指しても良いかな、フフフ…そうねえ、サッカーを始めたのは差別されたからかな」
「差別?人種差別って事?」
「そう、黒人が差別される様に日本人、有色人種、アジア人の差別ね。白人が黒人を差別する様に白人黒人はアジア人を差別する」
「そうなの」
「もちろん、一部の人よ。全ての人ではないわ。日本人は名誉白人と言われる事もあるけど、名誉って何?これも差別でしょ」
「日本人は差別される立場なんだね」
「日本人だって差別していた。している。韓国朝鮮人とかね」
「ああ、そうだね」
「東川君、アイヌと琉球、判るでしょ」
「うん、アイヌは北海道で琉球は沖縄」
「アイヌは、北海道や東北の北部にいた先住民ね。明治政府が『日本人』への同化政策を進めて独自の風習を禁止した。琉球という呼び名は、その当時は清国かしら。清国側からの呼び名だけど琉球王国という一つの国だった。それを、島津藩が支配して明治になって沖縄県にした。強制的に。アイヌも琉球も違う文化を持っていたのに無理やり『日本人』にね。その後、朝鮮半島、満州や台湾、東南アジアなどでも同じ事を」
「んん…まあ、そうかもしれないけど…それで、差別とサッカー、どうつながるの?」
「差別する白人や黒人たちに負けたくなかったの」
「負けたくない?」
「小さい日本人が大きな白人黒人をドリブルでキリキリ舞いさせる。ザマー見ろって」
「性格、悪くない?」
「そうね~。そうかもね。でも、プレーを認められると、みんな態度がかわるの。チームメートも、相手チームからも。初めはチームメートからパスもしてもらえなかった」
「そうか、苦労していたのだね。アメリカ暮らしって何か憧れるけど」
「そうよ、色々あったわ。だから世の中から差別をなくしたいの」
「差別をなくす?」
「そう、全く無くすのは難しいけど、少なくする事は出来る。今ある差別を半分に出来れば、次はまた半分、また半分でゼロにならなくてもゼロに近づけられる」
「何か話が、すごく壮大じゃ」
「そう、単純でしょ、二分の一がさらに二分の一、また二分の一で八分の一に、そして、次は十六分の一。」
「まあ、理屈ではそうだろうけど…でも、どうやって」
「私はね、女性初の国連事務総長になる」
僕は驚いてしまって、どう返事をすれば良いのか判らなかった。江田女子の思考回路を理解出来ない。
「別に私は『dreamer』ではないわよ」
「ドリーマー?」
「国連事務総長になって、世界中から差別を無くす…研一君、応援してね。」
「えっ、応援って…」
その時、選手がピッチに出てきて、スタンドが声援で一杯になり隣の声が聞こえないほどだった。
ホームチームは連敗中で、今日負けると最下位転落になるらしい。江田女子はゴール裏のコールに合わせ手拍子を続けていた。
試合が始まった。ホームチームは押され気味だった。「危ない!キャー」と江田女子は試合前と違う人格になっていた。ゴールキーパーのファインセーブ、ポストに助けられるなど、いつ失点してもおかしくない展開だった。前半はどうにか失点をせず、ゼロ対ゼロで終わった。
後半開始早々だった。相手の強烈なシュートがクロスバーで跳ね返り、そこから速攻が始まった。ドリブルで持ち込み、逆サイドのフリーの味方にボールが渡り先制ゴールが決まった。
その瞬間、江田女子が抱き着いてきた。胸のあたりに柔らかいものを感じた。その柔らかい感触にドキドキし、頭が真っ白になり試合に集中できなくなった。その後の試合展開は全く覚えていない。
「さあ、守り切って。ラストプレーよ」その声で僕は我に返った。後半もアディショナルタイム、相手のコーナーキックの場面だった。コーナーから蹴られたボールを、キーパーがパンチングではじいた。
「よし!」江田女子が叫んだ。ペナルティーエリアの外にはじかれたボールを相手がダイレクトでシュートした。ボールはクロスバーをたたき、跳ね返ったボールは跳び上がったゴールキーパーの背中に当たりゴールに転がった。同点ゴール。そして長い笛が鳴りホームチームは土壇場で勝利を逃した。
江田女子は一言も話さず腕を組み仁王立ちしていた。何か怒った様な悲しいような複雑な横顔を、西に傾いた太陽が照らしていた。
その横顔は、妙になまめしかった。
11章 夕焼け
お盆が過ぎた暑い日の午後、無性にアイスが食べたくなり、コンビに買いに行くことにした。玄関の鍵を閉め振り返ると、江田女子が家の前に立っていた。
「あれ、江田さん」
「こんにちは。暑いわね。通りかかったら東川君が丁度出てきたの」
「そう。あれ制服きているけど、学校?」
「うん、学校に用事があって…東川君、話したい事があるの…少しいい?」
「うん。良いけど…何?」
その時、隣の光吉おじさんが家から腰を押さえて出てきた。
「おじさん、どうしたの。顔が真っ青」
「ああ。朝から腰が痛くて…前から時々。いつもは時間がたつと痛みは消えていたのだけど、今日は全然。どんどん痛くなる。だから病院に行こうと…イタタタ」
「研一君、救急車呼んだほうが」
「そうだね、桜子さんは?」
「桜子は… 何かのサークルの集まりがあるとかで午前中に…イタイ…出かけて…」
「研一君、早く救急車」僕は急いで119番に電話した。救急車は十分ほどで到着し、僕と江田女子は救急車に同乗した。病院についてから僕は桜子さんに連絡した。急いで病院に来てと。
僕と江田女子が待合室で待っていると、案外と早く桜子さんは待合室に入ってきた。見慣れない男性と一緒だった。
「今日参加したサークルの方。事情を知って車で送っていただいたの。山中さん」
「山中です。こんにちは」
「で、お爺さんは?」と桜子さんが尋ねた。
「ああ、桜子さん。光吉おじさん、結石だろうって。さっきレントゲン撮って、今は診察室にいる」
「江田さんのお爺さんは『コウキチ』さんというの」山中と名乗った男性が桜子さんに尋ねた。
「うん、そうだけど」桜子さんは答えた。
「そう…僕は、その…次の用事があるので行かないと。ここで。まあ、結石だったら石さえ出てしまえば良いから…うん、これで失礼する」
その時、診察室の扉があいて、光吉おじさんが出てきた。顔色は大分良くなっていた。
光吉おじさんは、桜子さんを送ってきた男性の後ろ姿を見て、怪訝な表情をみせた。
「で、どうなの」桜子さんが尋ねた
「尿管結石だ。今は痛み止めで痛みは和らいている。しばらくは薬、排出促進剤ていうのかな、薬を飲んで様子見。それでダメだった場合は手術。あ~死ぬかと思ったよ」
「もう、オーバーなんだから。でも大病でなくてよかったわ」
「いやいや、結石の痛みは半端ない。ところで、桜子は、どうやってここに」
「うん、今日参加していたサークルの人に送ってもらったの。車で」
「そうか、その人はどこに」
「ついさっき帰った。お爺さんが診察室から出てくる直前に、次の用事があるって」
「そうか…で、その人の名前は」
「えっと、山中さん。山中幸次さん」
「前から知っている人?」
「ううん、今日初めて。初対面」
「そうか。初対面か。山中…」
「何、知っている人?」
「いや」と光吉おじさんは否定した。
「あの山中さん、桜子さんのお爺さんと知り合いじゃないかしら」江田女子が僕だけに聞こえる様にささやいた。
「えっ、そう?」
「だって、桜子さんのお爺さんの名前を聞いてから急にソワソワしだして帰ってしまったし、桜子のお爺さんも山中さんを知っている様な感じだし…」
「そうかな。そう?」
「そうよ、絶対にそう」と江田女子は確信した様に言った。
「桜子、本当に死ぬかと思たんだよ」と光吉は大きく息を吐いて言った。
「もう。でも、年が年だから、救急車で運ばれたと聞いた時は覚悟しないといけないかと思ったわ。本当に」
「うん、心配かけた…」光吉は何かを考えている様に出口の方を見つめていた。
「大丈夫?まだ痛いの?」桜子が尋ねた。
「いや、もう、そんなに痛くない…運命なのか、運命。仕方ないのか… どうすべきなんだ…」
「何?何をぶつぶつと言っているの。頭も痛いの?大丈夫?」
「ん、頭は別に大丈夫。うん、そう、そうだな。死ぬ前に話しておくべきなんだな。やはり…死ぬ前に」
「何、もう、死ぬ前って。やめて」
「ああ、ごめんな。でも、そう、話しておかないとダメだ。桜子はもう分別ある大人なんだから話しておくべきだな、そう。ともかく、家に帰ってから」
「なあに、チョット何?どうしたの?」
「うん、家に帰ってから、ゆっくりと」
その時、診察室から声がかかった。光吉おじさんは、もう少し病院にいる必要があるとの事だったので、僕と江田女子は先に帰る事にした。病院を出ると、もう夕方で西の空は夕日で染まっていた。
「ごめんね。病院まで付き合ってもらってしまって」
「ううん、別に。気にしないで」
「あ、そうだ、何か話があるって」
「うん、たいした事ではないのだけど、実はね、私、アメリカに行くっていうか、戻る事にしたの」
「えっ、そうなの、いつ?」
「うん、来月、九月からアメリカ」
「来月って、すぐじゃない。学校は、学校はどうするの」
「二学期が始まる時はアメリカ。だから、クラスメートへのお別れは無理ね、みんなへの挨拶は先生にお願いしてあるから大丈夫よ」
「いや、大丈夫って…え~、そうなの。でもほんと突然だな…ビックリ」僕は混乱し、何ともいえない複雑な気持ちになった。
「東川君、向こうから手紙書くわ。毎日」
「毎日?」
「そうね、毎日は無理よね」と言ってフフフ
と笑った。その江田女子の頬は赤く染まっていた。夕日のせいだろうか。
九月、新学期が始まった。
江田女子が急にアメリカに行ってしまった事にクラスはチョット動揺したが、数日で何も無かったようになっていた。
ある日、学校から帰るとアメリカからの絵葉書が届いていた。江田女子からだった。毎日手紙を書くって言っていた事を僕は思い出した。
絵葉書はヒマワリの絵で、まったくアメリカらしくなかったし、文面は新しい生活で毎日わくわくしているという、どうという事もない平凡な内容だった。何か拍子抜けを感じたし、少し寂しい気持ちになった。
僕は絵葉書の絵を見直した。七本のヒマワリが花束になっている手書きの絵で、お世辞にも上手とは言えない絵だった。江田女子にも不得手なものが有る事を知り、何か嬉しくなった。
花束の絵の横には、小さくアルファベットの文字が書き込まれている。
『RAUWA˝』
「R、A、U、W、Aにテンテン…か。
ラウ…ヴァ…って何だ?」
終わり
電信モールス符号(和文欧文)一覧表
和文 欧文 符号 和文 欧文 符号
=========================================
イ A ・ー ノ ・・ーー
ロ ・ー・ー オ ・ー・・・
ハ B ー・・・ ク V ・・・ー
ニ C ー・-・ ヤ W ・--
ホ D ー・・ マ X ー・・ー
ヘ E ・ ケ Y ー・ーー
ト ・・ー・・ フ Z ーー・・
チ F ・・ー・ コ ーーーー
リ G ーー・・ エ ー・ーーー
ヌ H ・・・・ テ ・-・--
ル ー・--・ ア ーー・--
ヲ J ・--- サ ー・-・-
ワ K ー・- キ ー・-・・
カ L ・-・・ ユ ー・・--
ヨ M ーー メ ー・・・-
タ N ー・ ミ ・・-・-
レ O ーーー シ ーー・-・
ソ ーーー・ ヱ ・--・・
ツ P ・--・ ヒ ーー・・-
ネ Q ーー・- モ ー・・-・
ナ R ・-・ セ ・---・
ラ S ・・・ ス ーーー・-
ム T ー ン ・-・-・-
ウ U ・・- 濁点 I ・・
ヰ ・-・・- 半濁点 ・・--・




