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08

 僕は青春を、スポーツに捧げるでもなく、学業に捧げるでもなく、ペンローズの階段を上り下りすることだけに使ってきた。


 挑戦することもなく終わったものに、後悔もなにもない。あるのは落胆だけだった。

 たった3ヶ月の話だろうとも思うのだけれど、幼い頃の淡いものも絡まって、その落胆はとても色濃く出てしまっていた。

 彼女の言葉。その残響だけが頭を回っている。


 昼休みが終わり、席につくと九条さんが心配そうに声を掛けてきた。

「どしたの?」


 顔を合わせるのは避けたかった。

 暗いものをにじませれば、きっと彼女は気付く。何故かそう思った。

 僕は、出来るだけ平静を装いながら、視線を合わせないように努めていた。


「さっき来なかったじゃん」

「うん、ごめん」

「なに?緊張ってやつ」

「あはは。いや、ちょっとお腹壊しちゃって」

「えー。マジでか。勿体なぁ」

「うん」

 九条さんの明るさには感謝していた。

 多分。もしかしたら、九条さんはもう気付いているかも知れない。

 彼女は相手の気持ちを汲み取るのがうまい。入り込むべきフィールドをしっかりわきまえている。

 だからこそ、この短期間にクラスの大半の人間と人間関係を築いている。忽那さんとは、ある意味で真逆と言える。


 不本意に出た彼女の言葉。

 あの勘繰りは、きっと忽那さんに対してじゃないのだ。僕の勝手な思いを。その空気感を感じて導き出したものだったのだろう。

 僕が密かに重ねていたものを、なんとなくででも感づくような鋭敏な感覚の持ち主が、僕のこの、浅はかなウソを見抜くことは十分あり得る。


 その後の残りの授業については、あまり覚えていない。

 気付けば授業は終わり、半数以上が席を立ち教室から退出していた。

 九条さんと、彼女もすでに教室にはいなかった。

 僕は走って学校を飛び出していきたい気持ちだったが、万が一にもあの二人を視界に入れることは避けたかった。

 また、あの野球部の練習風景でも見ていこうと、ゆっくりと席を立つ。

 敗戦を忘れるように、泥だらけになるあの姿が不意に頭に蘇っていた。


 ベランダを開けてグラウンドの状態を確認する。

「あれ?今日はないのかな」

 グラウンドは、まだ練習前の機材すら出されていない状態だった。

 天気が良いから、ランニングか、筋トレとかかもしれない。少し校内を見回ってから行ってみよう、そう思って振り返るとベランダの校舎側に、ヒドくくたびれたぬいぐるみが横たわっていた。

 あまりにボロボロのため、一見するとそれがなんの形状のぬいぐるみなのか分からない状態だった。

 僕はそれを拾い上げる。

 そのくたびれたウサギの耳を払い除けてやると、瞬間、世界が灰色になっているのに気がついた。


 ***


 放課後。

 僕は部室の方へ向かった。グラウンドにはまだ誰も姿を表さない。

 校内をぶらついて、かれこれ30分程度は経ったかと思うのだが。


 運動部の部室棟は、文化部と違い体育館の脇にある。

 隣接する建物の高低差で日陰が多く、そこに常時人がいるわけでもないため、部外者からするとあまり足を向ける気にならない、ちょっと不気味なところがあった。


 部室棟はとても静かだった。僕は多少緊張しながら、先日マネージャーから聞いた部室のドアをノックする。

 厚いプラスチックと緩衝用ゴム素材で覆われたドアは響きが悪く、ドスドスと重たい音を上げた。


 思いのほか、大げさに揺れるドアを見つめながら内部の様子を耳で探る。

 しかし、まったく反応が感じられない。

 チープな作りのこの小屋が、気の利いた音漏れ防止対策をしているとは思えなかった。

 やはり、人はいないのだろうか。

 もう一度だけノックをして、恐る恐るドアノブを回してみる。

 鍵はかかっていない。一歩そのまま踏み出すと暗くて重い、湿った匂いに気付く。

 中は、グローブやシューズ、それと練習ユニホームが部屋いっぱいに干されていた。

 壁際には、古びたグレイのロッカーが置かれていて、かなりの圧迫感がある。


 まだ陽も高いから、電気をつけることもなく、僕はさらに内部へ潜入していく。

 視界を妨げるように置かれていた、中央の洗濯物を抜けると、奥には椅子と机が置かれていた。

 机の上には、書きかけのノートが開いたままになっている。

 マネージャがつけている日誌のようなもので、練習メニューや、予約しているグラウンドのスケジュール、夏休みの合宿の予定などが書かれていた。


 しかし、どうしたことだろう?

 僕は、グラウンドの予定欄に、今日が○印になっているのを見つけた。

 予約だけして、結局今日は休みになったのだろうか?

 それとも、一度校外のランニングにでも出ていて、その後使うのだろうか?

 ふと窓の方に視線を向ける。部室の窓ガラスは、デザインガラスになっていてはっきりとは外の様子が分からなかった。

 ただ、それでも放課後の沈んでいく空模様はうっすらと確認できる。

 ぼんやりとそれを見つめていると、その景色に、先程一瞬過ぎった灰色の世界が重なったように思えた。

 僕は仕方なく、帰宅の途についた。


 ***


 帰り道。駅へ抜ける途中の公園の中央辺りで僕は足を止めた。


 男がいた。

 長身で、よれたジャケットと、色を合わせた円柱形のくたびれた帽子を被った、疲れ切った男。


 瞳も髪もくすんだ銅色で、それらも一様にすり減った後の布切れの塊のように崩れた有様だった。

 男は夕刻のベンチに一人座って、どこともなく真っすぐに視線を落としている。ただ実際に、その男の目に何かが映せているかは定かではない。それほどに男の外見は、憔悴した状態であった。


 辺りに人はおらず、点々と地上を散策する鳥たちも、男の周辺には立ち寄らない。草木までどこか遠慮しているようで、本来緑緑しい公園の木々たちは、色あせたセピア写真のように生気を感じさせなかった。

 切り取られた写真の中にいるような男は、一見静止しているようだが、よく見ると何かボソボソと独り言を呟いている。

 男の声は砂粒のように小さく乾いていて、誰かに届くまでもなく地面に零れ落ちていった。


 男の異常さは一目見て分かった。しかし、僕は男を視界に入れてから目を逸らすことができず、公園の舗装道の真ん中に突っ立って、身動きできなくなっている。

 見てはいけないものを見てしまったという感覚。


 いつもの、のどかな帰り道の公園は、男の存在によって一変してしまっていた。

 本来なら、すぐにでもここから離れて、別の迂回路に向かうべきなのだが、何か、危機感めいたものにそれを拒まれている。

 視線を外し、背中を見せて引き返すことすらできないような、脅迫めいた緊張が唐突に僕の中に生まれていた。


 ゆっくりと後ずさりを始める。それが限界だった。

 それすら、辺りの漫然まんぜんとした風景から逸脱いつだつした不自然な動態どうたいであるから、男が一瞬でも視界を移せば、僕の存在に気付くかもしれない。

 僕は少し笑いたくなっていた。

 僕自身を動かす主導権が、既に僕の中に無い気がする。

 何なんだ、この感覚は。


「さて」

 男が唐突に声を発した。

 ボソボソと、地面に落とされる飛礫つぶてではなく、シャボンのように耳元で弾ける明瞭めいりょうな言葉。

 男の時間がようやく動き出したように感じた。古い腕時計を掲げて「そろそろかな」、と立ち上がる。

 僕はゴクリと大きく息を飲んだ。もう、緩慢な撤退すらできない。自身の中で鳴る警鐘けいしょうは、心拍しんぱくには連動していないようで、手足は冷えて動かなくなっていく。

 立ち上がった男はとても大きかった。2メートル程度はあるだろう。それは萎縮いしゅくした自身の心象とは差し引いても際立っている。冗談のように、ホコリまみれの衣装がたなびいて、影だけを望むなら死神のようにさえ思えた。

 ふいに、男は音もなくこちらに顔を向けていた。視線が合う。


「ああ、来ていたのか」

 精気の無い顔に、一瞬笑みが浮かんでいた。目は動かないまま、口角だけがつり上がっている。

 男は一度帽子を取り、紳士然として一礼すると、こちらに向かって歩き出した。


「ダメだ。‥‥あれは」

 何処からか声が聞こえた。直後、金縛りが解ける。


「どういう‥‥」一瞬疑問が過ぎったが、僕はすぐに走り出した。声の主の所在しょざいを探すこともなく、一目散に。

 向かうのは来た道ではなく、舗装道から側面にそれて、林の中に飛び込んでいく。


 林を抜ければ車道に出る。そこを渡れば駅があるはずだ。分からないけれど逃げるのなら人混みがある方が良いように思えた。

 恐らく、これも最近起こっている不可思議な、『何か』だ。そしてあれは間違いなく、良くないものだ。その直感は揺るがない。


 小さいころに試して以来の、久しぶりの抜け道は、幸いあの時とほとんど変わりがなかった。ただ、木の根が円網えんもうのように張り巡らされた木陰こかげの道は、走りやすいとは言い難い。幾度もつまづきながら背後に視線をやる。


 木漏れ陽が降る林の中は、とても幻想的ではあったが、心持ちとしては天空の城を裸足で逃げ回っているようなものだった。

 息をかき混ぜながら、どっと汗が吹き出ている。

「どこへ行こうというのかね?」


 慌てて視線を前方へ戻すと、そこに男が立っていた。

 僕は急ブレーキをドタバタとかけて、ほとんど転がるように停止した。

 座り込むような姿勢で男と正対せいたいする。


「合っているかな?ふふ。日本語は慣れなくてね」

 男は、満足気にこちらを見下ろしていた。再びに、大仰に辞儀をしてみせる。

「君を待っていたのだ」

 僕の中のささいな心象を、なぞるような男のセリフ回しと、男の突然の急接近に、僕は驚きのあまり思考が停止してしまう。

 何かを返そうと思うが、間抜けにも口は空転するばかりだった。


「いきなり逃げてしまうとは思わなかった。アレは良くない、とても良くない」

 男は、死んだ目のまま、海外の人らしく、手の平を上げて首を左右に振ってみせた。

「そう身構えなくて良い。私は輝夜に用がある。忽那輝夜くつなかぐやに」



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