07
高い空は、本来の夕刻を大きく伸ばしていた。
いつもの帰宅道に、見学していた小一時間が加わっても、十分に明るい。
僕は、公園のブランコに腰をおろしていた。
凛もいつものように、学校帰りに合流して、となりのブランコを漕いでいる。
「今日は犯罪行為はしないんですね?」
「お前はオレを何だと思っているんだ」
「ヒネクレ変態ストーキング野郎。ですかね」
「う、‥‥」
カウンター気味に差し出された毒ワードに、僕はいつものように言葉を詰まらせられる。
オレンジの夕焼け。蝉の鳴き声。仲良く騒いでいる小学生たち。
狭い公園だけれど、凛とのやり取りは置いておいて、とてもゆったりとした時間が心地よく感じられた。
「それで?どうかされたんですか?本日は何やら、ご機嫌に見えますけれど」
「え?何だろう?そんな感じ出てるかな?」
「ええ。日頃の不健全な熱心さが見えません」
「それはどんなものなのさ?」
「その、なんというか。下心が具現化したような、イヤらしい顔つきですよ。そう、例えるなら。夜な夜な不意のチャプター変更でディスプレイに反射する、あの表情です」
「‥‥いや、もう、それは、なんで知っているの?」
僕が訝しげに凛を見つめると、それを振り切るように凛は漕ぎ足を強めた。
「小学生なんて、とつぜん思いもよらない言葉を口にするもの、じゃないんですかね」
「そうかな?」
「ふふ。それで?何なんです?何かあったんじゃないんですか?」
「うん、まあなんというか」
僕はちょっとした発表、というか決意表明のような形に、何となく乾いた喉を改めた。
「ウ、ウン。いや、さ。部活に入ろうかと思って」
「え?」
驚く凛の声が、ブランコの鉄鎖の摩擦音を容易に貫いた。
「部活ですか?」
「う、うん。そう。そこまで驚く?」
「どんな部活です?」
「野球部だよ。これでも、小さな頃は野球少年だったんだ」
言うと、凛は言葉を失って、大きくなった振り子運動を唐突に緩めていった。
「どした?」
僕はてっきり、からかいの言葉とか、皮肉めいたセリフが返ってくるかと思っていた。
それはただ、今までの付き合いから、いずれにしても応援めいた温かいものも、きっと何処かに含まれているのだろうと、勝手に考えていた。
凛になら、少し恥ずかしい小さな決意を打ち明けても構わないと。
しかし、振り子運動の中で垣間見える、凛の表情には間違いなく暗いものが混じっているように思えた。
「変、かな?」
「いえ。ちょっと」
凛は、ブランコのユラユラとした動きをすっかり止めて、そのまま少し前方の地面を見て何か考えているようだった。
それから、しばらくして顔をあげる。
「ごめんなさい。あはは。いや良かった。運動部ですか?それはとても健全なことですね。どんな心変わりです?」
「あ、うん」
「何か理由があるのでしょう?」
凛の反応に違和感は残った。ただ、むしろ、自身の気持ちを固める良い機会だとも思えて、僕は立ち上がった。
「今日学校で勧誘を受けたんだよ。まあ、そんなに強く誘われた訳でもないんだけど。さっきも言ったように、小さい頃野球やってたからさ」
「それが理由ですか?」
「え?まあ、そうだけど」
「他にないですか?何か合ったはずです。最近心境が変わるような何かが」
「心境?」
「ええ。日常の中で何かなかったでしょうか。それはきっと些細なことかもしれないですが」
「些細、ね。まあ、確かに、あんまり気にしてなかったんだけどさ。この一週間ちょっと変なんだ」
「変?」
「うん。何か違うんだよ。説明が難しいんだけど、さ。さっき凛に言われたとおりなんだよ。憑き物がとれたみたいな感じ。何か周りの空気が軽くなったというか、昔の自分に戻っているというか、自分が自分であるというか。そしたら、つい最近まで見向きもしなかった、グラウンドに足が止まったんだ」
「なる、ほど」
考え込む凛。浮足の弱々しい反動に対して、錆びたブランコの鎖が過剰に犇めいて音を立てた。
「それは、具体的にいつからです?」
「だから一週間前だよ」
「もっと具体的なタイミングです!」
「え?ああ、あれだよ。ちょうど図書館で凛に会った日の翌日、あれ翌々日かな」
「その日、何かがあった。心当たりはありますか」
「なんだよ。急に」
あれ?
そうだ、あの日何かあった気がする。
忽那さんと九条さんがケンカしてたのを見ていた‥‥。あれ?そのあとどうしたっけ。
「なんだろ。よく思い出せない」
「そう、ですか」
凛は悔しそうに爪を噛み、そのままブランコを降りて歩き出した。
「どした?」
「何でもありません。水無月さんもお早くお帰りください」
凛は、そのままスゴスゴと歩みを早めて行ってしまった。
***
「私、知っていたの。病気のこと。あなたが私を見ていてくれていたことも」
彼女は彼の手を拾い上げる。
「そして、決して私に思いを伝えられないことも」
外は、鋭利なまでの雨飛礫が地面を叩き続けていた。
僕が彼女に近づけないこと。それは、僕自身に起因していることだ。
それは魔法のように僕らを縛ってきた。そしてそれで十分だと僕は満足していた。
こうして、向かい合って話しができる。それだけで十分なのだ。
命を削って言ってくれた彼女の言葉。
僕らは、互いに無言のまま顔を近づける
ずっと焦がれて叶わなかった、彼女の唇が目の前にある。
「私のこと、きっと覚えててね」
そう彼女が優しく告げる。
――バタン。
九条桜は本を閉じた。
そのまま『君夢』15巻を読み終えて、力尽きるように寝転がる。
固まっていた首と肘の関節を振って緩めていく。そのままゴロゴロと横に回転しながら、リビングの絨毯の上を蹂躙していった。
「あ〜〜〜」
転がりながら、肺に収まっていた空気と読後感を、感情を、一緒に吐き出していく。
ひとしきり絞り出したあと、ふと積み上がったマンガ本の束を見つめる。
どうしたことだろう。擬音をまったく感じなかったのは。
ふわ~、とか。ギュッっとして、とか。散々言ってた気がするのだが。姫の拙い説明のおかげで、ほとんど初見に近い感覚で読めたのは、まあ、良かったのかもしれない。
最終巻が19巻だから、物語ももう終盤。さすがに2日かけて一気に読んだから、固まった体がだるさを残していた。
確かに、まあ、面白い。さすがにこれだけ巻数も重ねているわけだから、それなりに支持されてきたのだろう。
けど。
作品自体はかなり古い感じがする。今から十数年前に完結しているお話だ。
どうりで聞いたこと無いわけだ。周りでこのマンガの話をしている子はいない。
展開も今となっては、斬新さに欠けている気がする。
エリート医学生の『日比谷水色』という主人公。
病気の恋人『朝比奈 レイナ』。彼女の病気を治すため、医大に入学した主人公。けれど、学生時代に彼女の病気が一気に悪化していってしまう。そして何も出来ないまま彼女は亡くなってしまった。
それから六年の月日が経って、製薬会社の『森 葉月』という女性と婚約していたところ、亡くなったレイナに瓜二つの女性と知り合い、イケないと分かっていながらも惹かれ合ってしまう。
そして、15巻、遂にレイナとそっくりの彼女とキスをする。
うーん。
ここまでのストーリーを読んで、私は何とも言えないモヤモヤとする読後感を抱えていた。
それらは明確になんだとは、言い切れない。
ただ、この本を読んで一つだけ感じたことがあった。
この主人公の男の子と水無月くんは似ている。
一途なところ。分け隔てないところ。正義感が強いところ。一人でいることが多いところ。
口調や、ちょっとした表情など、彼の面影が感じられる。
そして、彼女の言った言葉。
「私、二人目なの」
この漫画に熱中する彼女。何処かリンクする二人の関係性。そして彼女の不思議な力。
それらが妙に繋がりを持っているように思えた。
でも、そうだとしたら。もし、この奇妙なリンクを認めるのなら。
多分、彼女も水無月くんのことを。
私は、再びゴロゴロと転がりだした。
***
「ねえ?」
嫌な予感がした。
朝のHRが終わって一時限目の授業が開始される、ちょっとした隙間の時間だった。
隣の席の九条さんが、授業の準備をしながら声をかけてくる。
気になったのは、それがあまりに自然だったからだ。
隣同士とはいえ、座席同士は少し距離が離れている。ウイルス対策の名残だが、その分声の大きさには気を使わなければならない。
いつもは他に聞かれても問題のない、他愛ない会話がほとんどだから、あまり気にもしないのだけれど、先程の声量はいつもよりずっと抑えられていて、その上で意図したように素っ気ないものだった。
僕は、相槌を打つか黙ってやり過ごすかを少しためらっていた。けれど、彼女は不意に半身を乗り出してきて、強引に話し始める。
「ちょっと!聞いてる?」
「あ、うん。どしたの?」
「水無月くんってさ、忽那さんと話したことある?」
「え?」
声は、発してすぐに失態を自覚するほど上ずったものになった。
雪山で暖を取る人の服の内側に、唐突に氷水を入れたら同じような感じになるだろう。
「どしたの?」
「あ、いやゴメン、変な声出た」
「うん、たしかに」
彼女はクスクス笑って見せる。ただ、眼差しの奥はどこか冷静なようにも思えた。
「どう?話してるの見たことないからさ」
「うん、確かに無いけど」
それを言うなら、最近までクラスの大半がそうだった気がするけれど、とは思ったが黙っておく。
「やっぱ、ちょっと緊張したりする?」
「あ、‥‥うん」
「あはは。かわいいなあ」
いやいや、最近までその一人だったんじゃ‥‥、と再び胸中で抗議の声を発する。
「じゃあ、さ」
ったく、こっちはキミの動向で、どれだけしなくても良い心配をしてきたのか。「結構、振り回されたんだぞ!」と語気強く、これまた、あくまで胸中で抗議する。
「じゃあ。紹介してあげよっか?同じクラスで変だけど」
「は?」
微笑む九条さん。
「それは?‥‥ふぇ、えええええええ!!」
2度目の暴発は、1度目よりもずっと間の抜けたものになった。
「いやいやいや」
取り繕うように慌てて続けるが、すぐに心臓がドクドクと脈打ち始める。一気に顔が赤くなっていくのを自覚した。
なんだなんだなんだ。なんだ!
どういう展開?どうしてこのタイミングで?理由は?
浮かぶ疑問に押し流されそうになりながら、兎も角も、一つだけ決心した。
胸中での態度を改めなくてはならない。『様』をつけよう。
「いやさぁ。姫、完璧だから、みんな遠慮して話しかけないの、だから、さ」
それは存じてますよ、九条様。でもなんでこんな唐突に。
ゴクリと喉が鳴った。
言いたいが、それが野暮であることは分かる。
口にすれば、この機会を。そう、このチャンスを失ってしまうかもしれない。
僕はビビリで、人見知りで、会話もうまくないけれど。
小さい頃からあったあの憧れと、忘れられない後悔に向き合える機会は。逃したくない。
僕は顔を上げた。
不安はある。
僕はただのビビリじゃない。筋金入りだ。
けれど、あのとき考えていたとおりなんだ。もしかしたら、何かが起こるかもしれない。
そうだ。
なんだか最近は、雰囲気も変わった。
だから、きっと。
「うん。そういうことなら、喜んでだよ」
「りょ!じゃ昼休み外で食べようよ」
「う、うん」
「あ、でも、変なことしちゃダメだよ?」
最後の彼女の軽口をほとんど聞き入れる余力もなく、僕は机上の教科書の中に埋もれていった。
***
うっすらあった期待が見事に打ち砕かれた。
不安は的中した。
僕は九条さんの指示に従って、食堂のテラス席に向かった。
途中、僕だけは昼食を買いに行く必要があったので、彼女たちより先に席を立った。
ただ、離席が早かったのもあって、校内の売店戦争に出くわすことになってしまった。
おそろしく速い手刀が、目前を飛び交っているのをたくさん見逃して、僕は随分と妥協して、売店の端に置かれていたフルーツサンドとパックミルクをどうにか購入して今に至る。
要らぬ徒労にため息をつく。
足取りはどちらかと言えば重くなっていた。
食堂に着くと席はそれほど混んでいなかった。幾つかのグループがまとまって占領してはいるが、席は十分確保できそうだ。
埋まっている場所はほとんどが先輩らのグループが使っていた。僕は少し気まずさもあって、すぐさまテラス席に向かう。
テラスに出ると、席はさらに空いていた。というより、座っている人が一人もいない。
そのまま、席確保のためテーブル四人席に今日の昼食を置き、そしてすぐに思った。
暑い。
さきほど、九条さんに声を掛けてもらった時、『外で』、と頭に残っていたためテラスへ出たが、さすがにコレはないだろう。
テラス席のガラスの屋根は、真夏の日差しにはまったく意味がない。
ふと、忽那さんの登下校の姿を思い返す。彼女はいつも日傘をさしていた。
「室内に変更だな」
一人つぶやいて、すぐに立ち上がる。
逃げるようにテラスの出入り口の方へ引き返すと、タイミングよく、九条さんとその一団が食堂に入室してきていた。
「ちょっ」
僕はとっさのことで、思わずテラスの柱の影に滑り込んだ。
メンバーは、九条さんと忽那さんだけではなかった。
例の九条さんの取り巻きが追加されていて、結局、ほかにあまり喋ったことのない4名の女子がいる。
女子は集団で行動する。特にこういう時に限ってだ。
自身が人見知りというのもあるけれど、ただそれにしたって、こういうのはそれなりに心積もりが必要だろうと思うけど。
敬称も忘れて、胸中で再び毒づきたくなった。
僕の心情をよそに、彼女らはテラス席を一瞥したあと、食堂内の端、テラスへの出入り口近くの席に陣取った。
ガヤガヤと、他愛ない会話が一団から聞こえてくる。
「あれ?まだ来てない」
「どしたの?」
九条さんの独り言に忽那さんが疑問符を投げた。
「ん?ちょっとサプライズを、って思ったんだけどな」
「サプライズ?」
「うん。ちょっと男子呼んでて」
「へぇー」
途端、2人の会話に全員が食いついて、高い黄色い会話が一層大きく膨らんでいった。
やばい。出るタイミング無いかも。これは、出ていくハードルがめっちゃ上がっていくヤツだ。
思うが、もはやどうしようもない。
気付けば、病気はすでに発動していたようで、足はカチコチに固まっていた。
柱の影から話の成り行きを聞くしか無くなっている。
「で、だれなん?」
「いやぁ」
「ほかにいるっけ?」
すでに、数名の学園イケメンシリーズの名前が出揃っていた。
九条さんは、それらの名前が通り過ぎるのを、涼しい顔で黙って首を振っている。
さっさと一思いに殺してくれ!、と胸中で懇願するが、九条さんは大分勿体ぶってから口を開いた。
「呼んだのは、水無月くんでーす!」
「えー!」
一同(忽那さん以外)から一斉に声があがる。
「そうなんだ。いがぁーい」
声はそれぞれ、大きく高低に分かれていた。その含みは一体どういうことなんだ。と、本来なら、全員の顔色をひとりひとり観察していきたいところだったが。
ただ、そんなことはどうでも良い。
気になるのは彼女の反応だけ。それだけはなんとしても。
僕は逃げ出したい欲求をなんとか押し殺して、出入り口のガラス戸を覗き込む。
彼女はまったく会話に参加していなかったようで、あさっての方を見つめて固まっていた。
「ふふ。実は、姫に紹介しようと思ったんだけどさ」
「え?あ、そう」
話の焦点が自分に向いたのを察して、彼女は頬杖を解いた。
「知ってるでしょ。私の席の隣のさ」
「え?あ、そうなんだ。ごめん、未だ名前と顔一致しない人多いし」
僕は小さく息を飲んだ。
ヒュッと鼻孔が揺れる音が耳に入る。
「あれ?どしたの」
「姫?ホントに」
「う、うん。どして?」
九条さんは、まっすぐに忽那さんを見つめていた。
空気が唐突に重くなっている。それは、薄いヴェールがあのテーブル席だけにかかっているような感じで、明らかなものではないけれど、確かにちょっとだけピリついているように見えた。
話の流れを見守るように、周りの女子たちも黙って二人の会話を見守っている。
忽那さんは少し間をおいて、そして、思い出したように口を開いた。
「あれ?そっか。それって、この間言ってた」
「うん」
「‥‥なるほど」
僕はここに来て、ようやく九条さんの意図が知れた。
先日の平手打ちの一言。
それを解き明かすための機会だったんだ。
「サクラはストレートだね。でも、大丈夫」
「そうなの?」
「うん。私好きな人いるから」
僕は柱の影に、再び身を隠して、熱射に干からびたミイラのようにその場に腰を落としていた。