03
高校1年生の夏。
僕は恋愛への興味が、‥‥メチャクチャあった。
こんな病気にかかっている訳だから、当然だけど。
『意識しないようにすること』は、逆説的に『意識しない』を『意識する』ことになっている。それは、抜け出せないトリックアートの階段の中を駆け回っているようなものだった。
薄い黄色のカーテンが、冷房の風でそよそよと波打っている。
夏の日差しは、薄手のカーテン生地ではとても防ぎきれなくて、柔らかな黄色い光線がカーテンの動きのあとを追って、時折眩しく飛沫を上げる。
その穏やかな波間の中に埋もれながら『忽那輝夜』は一人、本を読んでいた。
「おい、水無月」
僕は、驚いて顔を上げる。
教室で不用意にも、僕は彼女に視線を向けてしまっていた。
「見すぎじゃね?」
学校には、見廻組というものが存在する。誰にも推奨されていない恋愛における治安維持部隊だ。
「いや、ごめん。ボーっとしてただけだよ」
「ホントか?」
からかうように、見廻組筆頭の佐々木君が僕の顔を覗き込む。その視線は存分に彼の、『言外の含み』、を抱えているようだった。
「あ、いや。前の授業で疲れちゃってさ」
「ふーん?」
佐々木くんは、特徴的な細く尖ったインテリメガネをかけなおして、僕の応答を吟味している。
彼らは、見た目とは異なり、ひどい軍国主義的規律を自らと周りに課していて、そのルールを破ろうとするものには声をかけずにはいられない。
僕からすれば最も目をつけられるのを避けなければならない組織だ。
はぐらかすように、僕が、あははは‥‥と、気まずい作り笑いをしている、と。
「なに?二人とも、姫のことが気になるの?」
隣の席の女子、『九条桜』さんが割って入ってきた。
クラス内ゴシップの種にでもする気なのか、九条さんはランランと黒い大きな瞳を輝かせている。
「いやいや、そういうわけじゃ‥‥」
慌てて応対する僕を尻目に、佐々木くんは案の定何も語らず、そそくさと撤退していく。
見廻組は女子に弱い。だから、治安維持がままならないのである。
「無理だと思うなぁ。姫、サッカー部の先輩も先月振ったらしいよ」
九条さんは、遠ざかる佐々木君の背中を一瞥した後、すぐに話を再開させた。
姫とは、彼女のあだ名である。『かぐや』という名前と言い寄る男を千切っては捨てていく姿に由来するが、一部女子には、宇宙人という意味合いで揶揄されているケースもある。
「そうなんだ。すごいね」
「そう。ハードルは高いのよ」
僕としては、当然知っている情報だ。何ならその告白の場面も遠目に見ていたくらいである。
変に勘繰られてもと思って、テキトーに相槌を打ってやり過ごそうとするが、彼女は、何処か火が点いてしまったようで、ペラペラと語り出した。
「入学最初の中間テストでも一位だったってさ」
「あ、うん」
「帰国子女らしいんよ、英語なんてペラペラ。英語の西田なんて姫ばっか当てんじゃん」
「あー、確かに」
「いっつも一人でいるし。何考えてーか分かんないんだよねー」
九条さんは大っぴらに、或いは忽那さんに対して聞こえよがしに、ボリュームを落とさず続けた。
「なんか、学校紹介のパンフレットあるじゃん。あれのモデルにもなるって噂もあんの。完璧じゃない?」
「そ、そうなんだ。それはスゴイね」
「いやマジで。超人なんよ。‥‥ほんと、何処が良いんだか」
「え?」
固まった僕の反応を試すように九条さんはケラケラ笑いながら、「ウソ。冗談」と付け加えて、今度は流行りのスマホアプリの話を始めた。
***
忽那輝夜は、クラスで特別目立つ存在だった。
見た目は当然だけど、頭も良く、入学式の新入生代表の挨拶も彼女だった。
細かくは聞いてないけど、学校に帰国子女枠は無いから、長期のアメリカ生活から戻ってきて、僕らと一緒の一般入試で入ってきたってことになる。学力から言えば飛び抜けてるんだろう。
そんな訳で、男性陣からはほとんど神格化された扱いを受けている。
また、女性陣からも近づき難いものがあるようで、あまり彼女が他の女子と話しているのを見たことが無い。
多少は反感めいた感情もあるようで、先程の九条さんの振る舞いは、女性陣の心情を表しているとも言える。‥‥かなり、露骨に過ぎていたようには思えるけど。
僕らは、まだ学校生活を共にして、3ヶ月しか経っていない。
各々のキャラクターは掴みきれていないし、名前も覚束ない人だっている。けれど、彼女の存在だけはみんなが認識していた。
この40人ばかりのクラスの中心に彼女がいる。彼女の存在だけが際立っている。
少し歪になり始めたクラスの空気が、僕は心配だった。
彼女は合理的でスキがなく、用がなければ他人に話しかけることもない。だからか周りからしても、余計に声をかけられない空気がある。
言ってしまえば、彼女は怜悧冷徹であるが、同時に冷酷だという上面の認識がクラスの中で自然形成され始めている。
僕は、このまま彼女が孤立していくのではないかと、暗い想像をしてしまうのだが、当の彼女はそれほど深刻には捉えていないように見える。
放課後、今日も彼女は一人、帰宅の途についた。
僕はいつものように、彼女の道行きを追うべく幾ばくかの距離を見計らってから席を立った。
途中、妙に絡んでくる九条さんとの会話を何とかはぐらかして、小走りに校舎を出る。
学校は丘の上にあるから、蛇行する下りの坂は、上からだとよく見渡せた。
彼女は、夏の日差しに音を上げる、溶けかけの黒々としたアスファルトの道を足早に進んでいた。
今日は、恐らく図書館に向かうのだろうとすぐに当たりをつける。
図書館は、駅への道とは反対方向にあり、他に目ぼしいものもないため、そちらに足が向けばおおよそ間違いない。
そもそも忽那輝夜の帰宅コースは、概ね3パターンである。
本屋によるか、図書館によるか、文芸部に顔を出すかである。直帰するケースの方が少ない。
とても知的な行動パターンではあるが、読んでいる本は漫画が多い。
特に今ご執心なのは『君がいない夢を見て』という少女漫画だ。
これに関しては、一度図書館で借りて、今度は本屋で買い直しているくらいにハマっている。
僕は独特な絵が受け入れられず、手をつけてはいないけれど、随分前に流行ったものらしい。
館内に入ると、彼女はいつもの人気の少ない、地図や地元の歴史に関する専門書裏のテーブル席に腰掛けて、昨日買った漫画本を取り出していた。
僕は、特に意識もせずに今月のオススメのコーナーに展示されていたソフトカバーの本を手にすると、彼女の位置取りを意識した席を物色する。
しばらく角度と間合いをよく吟味していると。
「気持ち悪いですね」
静かな図書館で響く少女の声。
振り向くと、案の定、凛が僕を侮蔑するようにこちらを見ていた。
「まったく、こんな場所でもストーキングですか?汚らわしい」
女の子は小さな頃から女性なのだと、強く思い知らされる。
凛の視線は、大人の女性のそれと同様に男を凍えさせるような、鋭利なまでの威力を誇っていた。
僕は向けられたナイフのような視線を収めようと、なんとか声を絞り出す。
「お、お前は何処にでも現れるな」
「ええ。図書館に入るのを見かけたので追っかけてきました」
言って、凜は本棚の影から彼女の方を覗き込む。
「ふーん。今読んでるのは、『君夢』ですね」
「知ってるのか?」
「はい。名作です。間違い無く。思わず感涙ですよ」
「へえ、お前も知ってるんだ。今でも流行ってるの?」
「さあ?どうでしょう。でも、流行っているかどうかなんてどうでも良いことなんですよ。結局は面白いかどうかです!巷に蔓延る名前だけのベストセラーには、もう飽き飽きでなんですよ!」
「あ、ああ。そうだね」
妙に熱を込めて語り出す凛をなだめるようにしていると、図書館の入口辺りが騒がしくなる。
見ると、九条桜と数名が集団で駄弁りながら、歩いてきていた。
図書館のフロント辺りは未だ幾分か喧騒もあるが、こちらに近づくにつれて、その話し声は徐々に目立つものになってきている。
彼女らはその口振りから、集団で課題のレポートを作りに来たようだった。
本来なら地下にある談話スペースを目指すのだろうが、不意に一行は足を止めて、方向展開する。そのまま、忽那さんに近づいていった。
「あれ?姫じゃん。どうしたの一人で」
忽那さんは、一団のざわめきに気付いていたようで、机の前に広げていた、昨日購入した『君夢』の17、18、19巻をカバンの中に詰め込み始めていた。
「えー、この本面白いの?ちょっと貸してよ」
目聡く、九条さんは彼女の態度を見抜いて、押し込まれた漫画本を奪い取った。
「いえ。ごめんなさい。未だ読み終えていないので」
「じゃあなんで席立つんよ」
「だいぶ時間も経っちゃったから」
その場をあとにしようとする忽那さんを、ほとんど難癖をつけるように、九条さんが押し留めていた。
「いいじゃん。ちょっと貸してよ。少し読めば、面白いかどうか分かっちゃうからさ」
「でも」
そのやりとりは、静かな館内の中にあって、徐々に辺りの注意も引き込み始めていく。
すると、隣で一緒に観察していた凜が、ふと思いついたようにこちらを向いた。
「何とも分かりやすい展開ですよ。集団というのは、それだけで気が大きくなりますからね。ここで割って入って、あの方を守ってあげれば、ポイントアップなんじゃないですか?」
ゴクリと喉が鳴る。
確かに、驚くべきベタな展開。
チンピラに絡まれる女の子を助ける鉄板のシナリオとも思える。
しかも相手はチンピラではない。クラスの見知った相手だ。割って入って、声をかけるだけで事足りるだろう。
九条さんの気を引いてさえやれば、きっとその隙をついて忽那さんは撤退する。
そう考えが及ぶと、急に手の平が熱くなってきた。背中に電流が走って、体が強張っていくのを感じる。
くそ。
そうなんだ、こんな時、僕は必ず足がすくんでしまう‥‥。程なくして意識が飛んで、気付いた時には、全然関係ない場所で後悔する。
「どうしたんです?」
縮まりだした僕の背中を見つめながら、凛が声を上げた。
少し心配するような、少女の細い声音に僕は答えられない。
やばい。きっと、このまま‥‥自分が自分で無くなるよ、うな。
「ん?」
自身、思わぬ行動に、疑問符を浮かべる。
意識は途切れていなかった。
ただ僕は、彼女達目掛けて右手を伸ばし熱くなった手の平をかざしている。
意味がわからない。
しばらくすると、先程よりもどんどんと手の平が熱くなっていく。と、唐突に宙に本が浮かんでいるのが視界に入る。
先程まで、左手に持っていたはずのソフトカバーの本である。
本は音も立てず、回転もせず、不自然な状態で真っ直ぐに飛んでいった。
どこか重力を無視したような、フワフワとした動きから、徐々に、なにかに引っ張られている感じで速度を上げていく。
そしてそのまま、九条桜と忽那輝夜が掴み合う、『君夢』17巻にぶつかった。
「キャー!」
思わず二人が、大げさに叫び声を上げて姿勢を崩す。
僕はすぐに本棚へ身を隠し、かざしていた手を抱え込んだ。
熱い。が、痛みは特にない。
形状、色にも変化はなかった。ただ、体は緊張で小刻みに震えている。
辺りのざわめきは一気に強くなり、職員が僕を通り越して彼女らのもとに走っていく。
「お静かにお願いします。どうされました?」
それから彼女らは、職員からの注意を受けて、すごすごと解散していった。