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01

 ゆっくりと息を飲む。

 次いで、首元から流れた一筋を胸のあたりで拭いながら、汗ばむシャツの袖口をまくり上げた。

 視線は一心に目的の方へ向けている。

 僕は、緊張の中にいた。


 夏の煌々(こうこう)とした日差し。

 鳴りやまない羽虫はむしのざわめき。

 アスファルトの上を躍る陽炎かげろうの波。

 緑にもえる公園の木々たち。

 そういった、ひどく目につく夏の特徴的な光景をものともしないほど、僕は目前の、あの細くしなやかな彼女の背中を見つめていた。


 本来恨めしいほどに強い日差しは、彼女の肌を一層白く、美しく見せてくれている。

 僕はその姿に、ただ夢中になっていた。


 僕、水無月光流みなつき みつるには、ひどい欠陥があった。

 端的に言えば、意中の人ができると上手く立ち振る舞えない。


 物知りユーチューバーが、好きな人を前にすると人間というのは、IQがゴリラ並みに低下すると言っていたけれど、僕の場合はそこに輪をかけて情けない有様であった。


 思い人がもし、目前にあらわれたなら、僕は何も言わずに逃げ出すしかないし、電車の中に偶然居合わせれば車両を変えなくてはならない。

 座席替えで万一隣の席になったのなら、登校拒否になっていただろう。

 ともかくも、今までの経験上、好きになった相手とは物理的に距離を置かなくてはならなかった。

 一方で、情動は確固としてあり、昔は視線だけが先行して相手を追いかけていたのだが、今ではある時は雑踏に紛れ、ある時は厚い上着を羽織りながら、今のように思い人の後を追ってしまう。

 この行為は相手からしたら、相当に気味が悪いのも十分わかっている。

 執拗で、執着的で、一方的だ。そんなやつを人がどう呼ぶか、その呼称は僕も知っている。


「ストーカーさん。今日もせいが出ますねぇ」

 はっ、として振り返る。と近所の知り合いの小学生、『りん』が背後でにやにやと笑みを浮かべていた。


 凛は、年齢が8歳くらいの女の子で、1、2ヶ月前から、僕を見つけては話しかけてくるようになった。

 たびたび年齢にそぐわない物言いをするのが特徴で、それは本人曰いわく『計算されたキャラ立て』らしい。意味はよくわからないが。


「どこで覚えるんだよ、そういう言葉」

 僕はわずらわし気に視線を戻す。

 明らかに僕をからかいに来たこの少女の興味を削いでやるには、取り合わないのが一番だと思った。

 しかし、凛は向き直った僕の前に体を滑り込ませ、いつものように、いたずらっぽい笑顔を覗かせる。

「それってストーカーって、単語の方?それとも精が出るっていう、アダルティな意味で?」


 不意を突かれて僕は思わず吹き出した。

「精が出る、は別にアダルトな意味じゃねぇよ!」

 懸命に訂正を加える僕に満足してか、凛はカラカラと笑い声を上げている。


「ったく、帰れよ。どうせ、からかいに来たんだろ」

「はい。もちろん」

 僕は目一杯に反駁はんばくの意図を込めながら、少女を視線で退かせる。

 そのまま、すぐに思い人の状況を確認した。彼女に特に変化はなかった。

 白い水玉の日傘を軽く持ち替えて、信号が変わるのを待っている。その仕草はとても優雅で、どこか涼しげで。別世界にいるようにすら思えた。


「うわぁ」

「なんだよ」

「引いてるんですよ。このくそ暑い中、さらに熱苦しいものを見せられて。もうさっさと、正面から告白してみれば良いじゃないですか?」

「出来ればやってるって」

「例の病気ですか。でも、思い切って話しかけてしまえば、案外、その後の会話なんてうまくいくものですよ」

「‥‥かもね」


 生返事なまへんじをしながら、小さく胸中で同意する。

 そうかもしれない。もちろん、痛々しいほどにあっさりと拒絶されることの方が多いんだろうけれど。

 ただ、それならそれで良いとも思う。僕にはその行為自体がうらやましい。


 僕にだってそういったチャンスが今まで無かったわけでもない。

 当然、この欠陥けっかんを克服するために、自分なりに努力はしてきたのだ。

 けれど、この病気はちょっと人より臆病おくびょうだとか、シャイだとか、プレッシャーに弱いとかそういった度合のものではないと思う。

 相手を知覚した瞬間には、すでに撤退の行動を取ってしまうのだ。

 そこに抗いの余地はなく、もはや、自分の意思が乗っ取られているようにすら感じた。


 中学3年生の時。友達経由で思いを伝えようとしたことがあった。

 しかし、僕は約束した場所に行くことすら出来なかった。案の定、その場に現れた思い人と友人、結局は双方の信頼を失ってしまった。

 僕はそういった、本来あるべき小さな挑戦すら許されなかった。


「いや。‥‥無理、だよ」

 呟く。声は幾分いくぶんか、細いものになっていた。


「じゃあ、何で後をつけるんです?」

 凛は、よどみなく、あっけらかんと聞きたいことを聞いてくる。その単純な問いに、僕は固まった。


 確かにそうだ。今回も結果は見えているんじゃないか。きっと徒労とろうに終わる。そしてこれからも。

 いつも背中にへばりついていた、冷たい影が一瞬で全身を覆っていくように広がっていく。

 いや。

 ふう、っと息を吐き出す。


 違う。そうじゃない。

 だからって、諦めて生きてくわけにはいかない。ひょっとしたら、この自身の欠陥を修復する糸口が見えるかもしれない。

 そもそも、周りのやつらだって、みんな同じような悩みを抱えているはずなんだ。それらはちょっとしたことで、前進したり新たな道への足がかりになったりする。

 それは、勇気だったり、偶然だったり、優しさだったり。僕にだって何かがあるかもしれない。

「そうだよ。何かきっかけがあれば、きっと。それがどんな些細なことでもさ」

 最後は凛にではなく、自分自身に言い聞かせるように呟いて、我に帰る。

 握り込んでいた拳をひらいて、そのまま熱くなっていたまぶたに押し当てた。


「あ‥‥」

 凛が、間の抜けた声を上げた。

 僕は少し恥ずかしくなり、すぐに押し当てた手を離して凛へ、そして凛が指さす方へ視線を向けた。

 ちょうど信号が変わり、彼女が横断歩道を渡り始めるところだった。

 僕は、慌てて彼女に気取られない程度にゆっくりと、隠れていたタワーマンション1階の柱の影から乗り出していく。

「うーん。厄介なことに、見た目は悪くないんですよねぇ」

 凛の言葉は無視して、僕は音をたてないようにおどおどと走り出した。

 

 

 


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