5-5 どうにかなることと、どうにもならないことがある
「花子。花子は随分長いことこの町に住んでいるんだよね。その間に『昨日と何か違う気がする』とか『大事な何かを忘れているような気がする』とか思うことはない?」
狭い歩道を歩きながらそんなことを尋ねてみた。
白昼夢のことは口にしない。
喋ったら引き寄せてしまうのではないかという、そこはかとない不安があったからだ。
でも、ジワリとしたこの何とも言えない気分を追い払う何某かの助言は欲しかった。
「具体的にどの様なコトでしょう」
「ええと、いつも通る道なのに初めて通る様な気がする、みたいな。自分の住んでいる家なのに他人の家のような気分というか」
「そうですね。まぁわたしもそんな気持ちになることはありますよ。
何と言いますかそれはデジャヴというものではありませんかね。既視感とも云うようですけれども、疲れた時とかに感じる錯覚というか、思い違いというかそんな感じのものです。誰しもが体験する記憶の曖昧さ加減なのではありませんか?」
「う、うーん。そんな誤解とか混乱っぽいものじゃなくって、自分が信じられなくなる、記憶があるのにそれがホントなのかどうか疑わしくなる、みたいな気分だよ。
いま居る自分の町が実は自分が居るべき町じゃない、ホントの自分の居場所はココジャナイ、みたいな」
「ひょっとして卯月さんは現在、中二病を患っていらっしゃる?」
「いやいやそんなんじゃなくって」
このところ毎朝目が覚めるたびに感じるあの気持ち。
顔を洗って朝食を摂るころには消えてしまうような仄かなものだけれども、ずっと心の隅に燻っていてふとした弾みに浮かび上がってくるのだ。
花子はこの世界のすぐ隣に、此処とそっくりの世界があると言った。
それも無数にだ。
じゃあ仮に、今のボクが昨日までのボクと入れ替わったとして誰がそれに気付けるだろう。
本人が気付かないのなら誰も気付きやしない。ひょっとして今のボクも自分の世界じゃないよく似て非なる別の場所に迷い込んでいて、それと気付かぬまま生活しているのではないか。
そんな疑問を口にしたら「それで何か問題がありますか」と訊き返されてしまった。
「どこで何をしようと卯月さんは卯月さんでしょう。周囲がそれと気付かない、本人でもわからない。でしたらこだわる必要は無いのでは?実質不都合が無いのでしたら、それはそれでよろしいのではありませんか」
「か、軽いなぁ」
「この世は日常生活に支障がなければ大概の事はオッケーです」
「無責任じゃない?」
「そうでしょうか。結局本人が納得出来るか出来ないか、要はそこに尽きるのだとわたしは思っています」
そんな返答をされた。
「確かに、自分の信じる道を貫くというのも一つの生き方です。平坦な道のりではありませんが格好よくはあります。卯月さんはどのような生き方をご所望でしょう。何か思うところがおありでしたらお手伝いしますよ」
「う、まぁその。しばらくは今のままでいいかな」
達観しているというか今の生活に慣れているというか、花子はいつも飄々としている。
伊達にボクの何倍も生きてはいない。
それにこの子が言う通りボクらは平和な毎日が送れればそれで良かった。
隣の世界ねぇ。どんな所だろう。
やっぱり此処と大して変わらないのかな。
すぐ隣は「間違い探しレベル」での差でしかないと花子も言っていた。
「ひょっとして、隣の世界の当人同士なら何か感じることが出来るのかな。例えば夢でつながる、とか」
だとすれば毎朝の違和感だって説明がつく。
「そうですねぇ。わたしはそんな経験はありませんが、卯月さんはあり得るかも知れませんよ。二人で一人のお方ですから感じ方も倍、みたいな感じで。お隣の自分ではない自分に興味がおありですか?」
「う、うーん。無いと言えば嘘に為るね」
「その気持ちは分からなくもありません。でもくれぐれもマンホールや川に入ったりしないで下さいね。この世界から卯月さんが居なくなったら何かが狂ってしまうかも知れません。それに何よりわたしが寂しいです」
お願いしますよ、と微笑みで念を押されてしまった。
いや別にボクは好んで別世界、折り重なった別の町にお出かけしたいわけじゃない。
そういう事もあるのかなと、ちょっと思ったダケの話で。
それにわざわざ無謀なチャレンジなんかしなくったって、重なり合っているという意味じゃごく身近にソレは居る。
このボクだ。
こちらからわざわざ出向く必要なんて何処にも無いのである。
「・・・・」
そこまで考えて不意に不穏な思惑が浮かんできた。
よもや。
よもやまさか・・・・
類は友を呼ぶじゃないけれど、似たもの同士引き合っているのではあるまいな。
ジワリと脂汗が滲んだ。
重なり合っているボクが、重なり合っている世界の窓口になっている、とか。
だとしたら、これからもずっとこんな毎日が続くのだろうか。
ボクがアレな方々とよく出会う理由もそれで説明がつくけれど、ハッキリ言って認めたくない。
正直カンベンして欲しい。
おどろおどろしい未来予想図が脳裏を掠めて、やめて!と口の中で叫んで頭を抱えた。
「ど、どうされましたか」
我に返って傍らを見れば、花子が心配そうな顔で見上げていた。
「いや、その、ちょっと昔のイヤなことを思い出しただけ」
「あ~、わたしもたまにありますよ。あの時になんであんなコトやっちゃったんだろう、なんでアレなコト口走っちゃったんだろう。時間を戻してやり直したいって頭を抱えたくなりますね。
でも済んでしまったことはどうしようもないです。
世の中にはどうにかなることと、どうにもならないこととがあります。どうしようもないことで悩んでも仕方がありません。人生に反省は必要ですが後悔は不要です。前向きに行きましょう」
「花子のそのポジティブさはスゴイと思うよ」
それに人生っていうけれど、ボクはもう死んじゃっているけどね。
二人で一人の死体、っていうか屍体だけれどもね。
言葉で完全に割り切れる訳じゃないけれど、確かに花子の言う通り。
そして叶うのなら、種々予定外のイベントも常識の範疇で収まって欲しいものである。
やれやれと胸の内で小さく呟きながら、麦わら帽子のつばをヒョイと持ち上げると水色の空が見えた。
遠くに入道雲が浮かんでいる。
気温はまだまだ上がりそうだ。
距離があるから一汗かくことになるのかも知れないけれど、途中で休憩しながら行けば然したるものじゃないだろう。
「のんびり行くとするか」
「はい」と花子が嬉しそうに返事をした。
そしてボクたちは目的の文具店を目指して歩き始めた。




