5-2 何も間違ってはいません
「運賃の方が日記帳や万年筆よりも高いんじゃない?」
「まぁ、たまには良いではないですか」
随分と贅沢な買い物だな、と思いつつタクシーに乗り込み久方ぶりに見る車窓からの風景を眺めた。
ドアが閉まって発車する。
随分とスムースだった。
滑るような夢見る心地、なんて言ったら言い過ぎだろうか。
窓の外を流れる景色は思いの外に早くて、クルマってこんなに速い乗り物だったかなと思った。
そう言えばこのかた歩いてばっかりで自転車にすら乗っていなかった。
以前の日常からほんのちょっとしか経って居ない筈なのに、たかだかタクシーに乗る程度のコトで久しぶりだと感じる、そんな自分がちょっと可笑しかった。
見慣れた町の風景が流れてゆく。
だが少ししてボクは何だか妙だと思った。
町の大通りに入って南に下り、幾つかの信号機を抜ければもう直ぐに郊外に出て、隣の市と繋がる幹線道路に出る。
クルマならどんなにゆっくり走っても一〇分も掛かるまい。
なのにタクシーは、もう二〇分近く路地と路地とを擦り抜けて続けていた。
自転車ならとうに目的の文具店に到着している頃だ。
「あの、スイマセン。目的地を間違えていらっしゃいませんか」
ただ黙々とハンドルを切り続けている運転手に声を掛けた。
「いえ、何も間違っていませんよ。○○文具店でしょう?郊外にある専門店の」
「はい、そうです。でも少し時間が掛かり過ぎるような」
「郊外の幹線道路はいまアチコチ工事中です。なので迂回して向っています。時間が掛かるのはそのせいですよ」
迂回と言われてもこの小さな町だ。
クルマで二〇分ならば完全に通り抜けてしまう。
よもやまさか道を間違えているのではあるまいな。
或いは言われて初めてそれと気が付いて、コッソリと向う先を修正している最中、とか。
いまひとつ釈然としなかったものの、「そうですか」とだけ返事をして引き下がった。
ひょっとしてこのタクシー運転手、この辺りの地理に疎いのではないのか。
あるいはこの仕事に就いて間が無くて要領が悪く、もたついているのではないか。
そう言えばダッシュボードにはナビすら付いていなかった。
今どきなんて珍しいクルマだ。
簡単に拾えたのは良かったけれどハズレなのかも知れなかった。
失敗したなと思ったが、いま此処で降りるのもシャクだった。
ここでカリカリしても始まらないし、そのうち着くだろう。
やれやれと諦めて座席に背を預けた。
だが次の瞬間、見慣れたバスの停留所の前を通り過ぎた。
えっ、と目を見張り、後ろに流れた風景を振り向いて追った。
此処はさっき花子がこのタクシーを拾った場所ではないか。
「運転手さん、ちょっと待って下さい。一巡りして元の場所に戻っているじゃありませんか」
「そんなコトはありませんよ。この辺りの風景はよく似ていますからね。見間違いでしょう。気にすることは在りません、良くあることです」
「なに誤魔化しているんです。ほら、あそこの赤い看板の薬局、ここはまだ三日月町でしょう。この交差点も路地の混じり合った五叉路で、こんな特徴的な道路見間違えようがありませんよ。ふざけないで下さい」
「良くあること、良くあることですよ」
「何を言ってるんですか。今まで走った分の料金は差し戻して下さい。いまこの瞬間からの料金からしか払いませんからね」
「何をおっしゃっているんですか。タクシーに乗ったらその距離と時間に応じて対価を支払う。それがタクシーのルールでしょう」
「運転手が間違えた分も支払う義理はありません。花子も何か言ってやってよ」
そう言って隣の同乗者に声を掛けた。
だが彼女はただ静かに薄い微笑みを浮かべたまま、ちょこんと行儀良く座って居るだけだ。
身動きすらしない。
「こんなの、どう考えたってオカシイでしょ。そうは思わないの?」
重ねて問うた。
だが何の反応も無かった。
こちんと固まったまま指先すら動かなかった。
「そちらのお嬢さんはよく判っていらっしゃる。あなたもお静かになさって下さい。大人気ないですよ」
「なにしたり顔で誤魔化そうとしているんです。お客に自分の失敗分もお金を払わせようだなんて図々しい」
「元気の良いお嬢さんです。まぁ、お金を払うのはあなたではないのですから、とやかく云うのもどうかと思いますよ。ゆっくり座って居て下さい。直に到着しますからね」
「言わない方がどうかしてる。花子、何で黙っているんだよ」
肩を掴んでゆさゆさと揺さぶった。
しかしやはりうっすらと笑んだまま何の返事もなくて、じっと前を見たまま身じろぎすらしないのだ。
まるで、花子そっくりの人形が座席に座っているかのようで。
だいたいこの運転手、何でボクがタクシー代払うわけじゃ無いって知っているんだ。
窓から通り過ぎてゆくバスの停留所が見えた。
屋根付きの、やはりさっき見たあの停留所だ。
そしてフロントガラス越しに見えるのは、先程と同じく特徴的な五叉路の交差点だった。
元の道だ。やっぱりただ、グルグルと同じ所を回っているだけじゃないか。
「降ります。ここでイイです。クルマを止めて下さい」
こんなイカれた運転手に付き合ってなんて居られない。
ボクはイラだちも隠さないままシートから半ば身を乗り出して、運転手の真横に顔を突き出した。
運転席と客席とを隔てる防犯用のアクリル板すらない。
料金メーターだって液晶どころか電光板ですらなくて、機械式のカウントメーターがくるくると回っている。
こんなの初めて見た。随分と時代遅れなタクシーだった。
だが今はそんなコトはどうでも良かった。
運転手の横顔が見えた。
眼鏡を掛けた太った中年男性だ。
のんびりした風貌の少しだけ微笑んだ丸顔が、正面を向いたまま運転を続けていた。
コチラを一瞥すらしようとしなかった。
「大丈夫、大丈夫。直ぐに着きますからね」
「着きますじゃありません。降りると言っているんです」
「焦らない、焦らない。クルマは順調に進んでいますから」
「進んでいるじゃありません。止めて下さいと言っているんです」
「止めたら前には進めませんよ。進まなかったら目的地にはたどり着けません。そんな事もお分かりにならないのですか」
問答している内にも風景は流れ、窓の外にはまたあの屋根付きの停留所が見えてきた。
「また元の場所じゃないですか。止めて、降ります!」
語気荒くして運転手の肩を掴むと揺さぶった。
「運転中のドライバーをみだりに触れたり揺すったりしないで下さい。安全運転の妨げになります」
不意に女性の声によるアナウンスが車内に響いた。
見れば、運転手の左手がダッシュボードにあるボタンに触れている。
何だコレ、と思っているとまた指先が動いてボタンを押した。
「運転中のドライバーをみだりに触れたり揺すったりしないで下さい。安全運転の妨げになります。繰り返します、運転中のドライバーをみだりに触れたり揺すったりしないで下さい。安全運転の妨げに・・・・」
都合三回繰り返された後に、やっと指先はボタンから離れた。
「運転中のドライバーをみだりに触れたり揺すったりしないで下さい。安全運転の妨げになりますからね」
女性のアナウンスとそっくり同じ言葉を繰り返して、運転手は運転を続けた。
そして顔は真っ直ぐ前を見たまま表情すら動かそうとはしないのだ。
「降りたいから止めて下さいと何度も言っています。お客の注文が聞えないのですか。無視してクルマを運転し続けているから揺さぶったんですよ」
「ですから止まったら目的地に着かないではないですか。タクシーはお客様をお望みの場所へ送り届けるのが仕事です。大丈夫、大丈夫。ゆっくり座って居て下さい。直ぐに着きますからね」
話にならなかった。言葉は通じているけれどまるで会話が成立しない。
今まで頑固な人間には幾人か出会った。
だがそれでも、多少なりともこちらの言い分に耳を傾ける分別はあった。
しかしこの運転手は違う。
聞こえて居るのに理解するつもりが微塵も無いのである。




