5-1 タクシーは一発でつかまった
「このところよく夢を見るんだよ」
ボクはいま、花子に散歩に行きませんかと誘われて、昼下がりの閑散とした歩道を歩いていた。
日差しが強いのでつばの広い麦わら帽子を被っている。
日焼けなんてしないこの身だけれど、暑いものは暑いのだ。
傷跡を見られたくないから麻布のワンピースは風通しの良い広口のロングスリーブ、それにレギンスを着込んでいた。
出来れば生足を出したかったが、まぁ走り回る訳じゃないのだ。
問題はなかろう。
そもそも暑くなったからといって汗だくになるのかどうか怪しいものなのだし。
いや、何度か冷や汗はかいたから普通にかくのかな。
平日の朝夕はこの道も高校生や中学生が行き交い、通勤途上のサラリーマンなどが屋根のあるバス停で少人数の列を成していたりもしている。
でも今の時刻だとクルマの数も少なく静かなものだった。
「夢ですか」
「特にヘンな夢が多いね。以前はまず見なかった類いのモノが圧倒的だ」
端的に言うのならホラー系統だ。
どうせ見るのならシアワセ系統のモノが望ましいのに、どういう訳だかリクエストが叶えられることは稀だった。
折角ようやく母さんの趣味から開放されたというのに、何という有様か。
日常がアレなのだから夢の中くらい平穏でも良いと思う。
「ああ、夢判断という手もありますね」
花子はそう言うと、ぽんと手を叩いた。
「いや、ソレはもういいから」
この前からどうにも占いづいているけれど、別にソッチ方面に傾倒したいわけじゃない。
在り来たりな、ただの世間話的話題のひとつだ。
まぁ夢見に関しては予感というか不穏なというか、そんな気持ちが無いわけでもないのだけれども。
「以前はこんな頻繁に見なかったような気がする。今まで目覚めた瞬間忘れていたものをただ単純に憶えている、ただソレだけなのかも知れないけれど」
「それに何か問題がありますか」
「うん、何もないね。ちょっと何故かなと思ったんだよ」
「卯月さんは二人で一つのお方です。夢見る頻度がただ倍になっているダケなのではありませんか」
「そうなのかな」
「あまり深刻になる必要ないと思いますよ。お身体の調子が悪いという訳でもないのでしょう?そういう日もある、といった程度に考えていれば宜しいかと」
「うーん、それに何か最近目覚める度に不安なんだよね。一昨日よりも昨日、昨日よりも今日って具合に、毎日がやって来る度に何かを取りこぼしているような気がしてさ」
ボクの中のわたしに何度か「どう思う?」と相談もしてみたのだけれども、最近は何故か反応が鈍かった。
心ここにあらずというか、「うーん」とか「そうねぇ」とか妙に生返事が多くって、どうにもハッキリとしなかった。
俺とわたしは一つの筈なのに、彼女の気分がよく見えなくてボンヤリとしているのが気になった。
俺に何か隠していることがあるのだろうか。
でもボクたちに隠し事は出来ない筈だけど。
一つになったと自覚した当初の頃は、お互いの自分しか知らない、しかも絶対に他人には知られたくない様々な小っ恥ずかしい私生活のアレやコレや性癖の全てが全部筒抜けになって、ボクはしばらくベッドの中で悶絶したものだった。
俺とわたしは一つになったから大丈夫だ、他人に知られた訳じゃない、ボクという一人のニンゲンになったのだと自分を納得させるのに随分と時間がかかった。
その事を思えば「わたし」のこの反応は何とも奇妙な感じだ。
それとも、彼女は俺より一足先にボクの中で「プライベートルーム」を作る術でも見つけたのだろうか。
そう考えたら辻褄は合った。
でも今さら何を隠すというのだろう。
バストアップマッサージから自分で自分を慰めたことやトイレでの後始末のやり方まで。
子細漏らさず全てを知り尽くした間柄だというのに。
そのお陰でこの頃のボクは、何とも言えない不安定な気分になるのである。
「そうですねぇ。今まで一所懸命に学校へ通っていたのに、急にのんびりゆったりとした毎日になりました。なので今の日常に物足りなさを感じているのではありませんか」
のんびりゆったり。
いやぁ、それは果たして正しい表現なのかな。
このところ鎧を着たタヌキに槍を突き付けられたり、ナメクジの嫁にされそうになったり、神父に火を噴かれたりしている。ボクとしては些か異議を申し述べたい。
それに先日などは「立て続けに妙なモノと出会っている。こんなコトは稀だ」とその口で言っていたじゃないか。
ノンビリとはほど遠いぞ、チグハグじゃないか。
それとも花子の主観では、ある日突然王様から勇者に指名されて見知らぬ仲間と共に魔王を倒しに行く、それ位の波瀾万丈を「普通」とでも評するのか。
「どうでしょう、日記などを付けてみては。一日ごとの節目を記すというのはよい目印になるのではないかと」
ボクの思惑はさておいて花子はそんな提案をした。
日記ねぇ。
まぁどうせ毎日するコトも無いのだ。
夜なんて正に暇を持て余しているのだし、時間は腐るほど余っている。
「悪くはないかも」
でも今までそんなモノは付けたコトが無かったなと、そう口の中で呟いてから、はたと気付いた。
イヤまて、あったぞ確か。アレは・・・・アレは何時のことだったろう。
小首を捻って思い返そうとした。
手探りで記憶の奥にある物置の中をひっくり返してみた。
だが、濃く白い靄がかかったかのようで、どうしても思い出すことが出来ないのだ。
文章を書いていたという印象はある。
シャープペンを握って日付を書き込み、その日にあった出来事や思ったこと書き記した。
でもどんな帳面にいつ頃まで書いていたのだろう。
ついこの間まで書いていたような気もするし、遙かな昔に書いて止めたような気もするし、まったくそんな日課など最初から無かったような気もするのだ。
指先には日々文字を刻んだ感触が残って居るのに、肝心な部分がすっぽ抜けていた。
まるで他人から聞かされる体験記のように、あやふやで曖昧で自信が持てなかった。
いったいどういうコトなんだろう。
仮に忘れているにしても実体験が残って居ればそのまま芋づる式に引っ張りだして、次々に思い出すものなんじゃないだろうか。
「でしたら、これから買いに行きませんか」
花子の声で我に返った。
「卯月さん?」
「あ、う、うん、そうだね」
取敢えずの返事はしたけれど何だかスッキリしない。
記憶違いや勘違いにしては随分と生々しかった。
まぁ、ど忘れしたコトはその内に思い出すのではないか。
大したことでもないのだし、気にする必要はない、はず・・・・たぶん。
「日記帳を買うのなら万年筆も必要ですよね。ちょっと足を伸ばして郊外の文具専門店に行きましょう。どのようなスタイルのものがお好みでしょうか」
「え、ソコまで本格的でなくてもいいよ。大学ノートとボールペンで充分じゃない?」
花子の言う文具専門店は自転車でもちょっとした距離がある。
徒歩では少し辛くはなかろうか。
近隣のスーパーか本屋の文具売り場で十分だろう。
「何をおっしゃるのですか。日記帳というのは本人の記録です。その方の物語です。然るべきものでキチンと書き記さねばなりません。
日記帳と万年筆はカレーライスのカレーとライス、お味噌汁のお味噌とお出汁となどというように分けて存在してはならないモノなのです。二つで一つの不可分なモノなのです。
そう、ちょうど今の卯月さんのように」
力強くそう力説すると懐からスマホを取り出して、大仰な効果音を奏でた。
オーケストラが演奏するクラッシックの一節のようだった。
擬音にすれば「ずじゃじゃーん」といった感じだろうか。
音量が結構大きくて、道の対面にある歩道を歩いていた主婦と思しき女性が吃驚したように振り返っていた。
「それ、久しぶりだね」
「え、そうですか。コレを卯月さんに聞いてもらったのは初めてだと思うのですか」
「その効果音が、じゃなくてスマホで奏でるのがだよ」
ちょっと遠いのでクルマで行きましょう、と花子は言い「ヘイ、タクシー」と手を上げた。
タクシーは一発でつかまった。




