3-6 雨傘はまだそこに転がっていた
「だいたい何でボクなんです」
林立する竹の間でも笹葉の間から降り込んでくる雨量はけっこうなものだった。
先程よりも雨足が強くなっている気がした。
額を拭い髪からも雨粒を滴らせ、半ば諦め肩で息をしながら不平を漏らした。
「だから言っているではないか、触覚にビビビときたのだよ。それがしの直感は良く当たるのだ」
そんな適当な理由で人を誘拐しないで欲しい。
そして「紹介しよう」と、平手で指し示された方向から大きな影がのそりと這い出てきた。
「我が子、鈴木文左衛門Jrである」
それは文左衛門当人と然程変わらぬ背丈の、実に巨大なナメクジだった。
それが立ち上がって蛇のように鎌首をもたげてボクを見下ろし、異様な迫力をまとって睥睨しているのである。
なんで時代劇から抜け出して来たかのような名前に、Jrだなんて違和感バリバリな命名なのか、とか、なんでこんなでっかいナメクジが平然と町中に居るのか、とか、何処をどう突けばこのボクが「嫁に最適」なんて話になるのか、とか、疑問と困惑とがてんこ盛りだ。
しかし何と云っても特筆すべきは、このボクが悲鳴も上げず取り乱しもせず、平然とこのイカガワシイ生き物と相対しているというコトだ。
自分で言うのもなんだけれども大した度胸だと思う。
花子や二号ちゃんとのアレな生活で、多少は鍛えられたということなのか。
或いはボクの中の何か大事な何かが、壊れたか麻痺しているダケなのかも知れない。
「コレがお子さんなんですか」
見上げる様相は圧巻の一言だった。
呆然とした。
感想は確かに口にしたが、ぽかんと口を開けたままだった。
怪獣映画やモンスターを扱ったパニック映画で、襲われる人達が唖然と立ち尽くす理由が分った気がした。
他に術が思いつかないのである。
ハッキリ言って、どうリアクションすれば良いのかが判らないのだ。
「さよう。威風堂々たる体躯であろう。無病息災健康優良、かてて加えて好き嫌いはない。これほどの伴侶もそうそうなかろうと自負しておる」
所謂ソレは親の欲目ってヤツなんじゃ?しかも伴侶云々というのなら健康なダケでは話になるまい。
経済力だの相手に対する気遣いだのそして何より相性だのと、そっちの方が余程に重要な気がする。
触覚の先に付いた黒い目玉が無表情にこちらを見つめていた。
じつに虚ろな眼差しだった。
太い立ち木のような胴体が、雨に濡れてぬらぬらとヌメってゆらめいていた。
首筋から背中にかけてくまなく鳥肌が立っているのは、雨の冷たさばかりではあるまい。
コレの嫁だなんて冗談キツ過ぎだ。
考えたくもない場面が脳裏に浮かぶ。
氷よりも凍える寒気にぶるりと身震いをした。
歯の根が合わなくなった。
カチカチと音がする。
身体の芯から湧き上がってくるこの圧倒的な嫌悪感よ。
怖気が走るなんてもんじゃない。
「ナメクジのお相手はナメクジ同士で探して下さい」
震える声でそう言い捨てて踵を返した。
「まて。待たれよ、卯月とか申したな。そなたは何か勘違いをしておるぞ」
「何も勘違いなんかしてませんよ。ボクはナメクジのお嫁さんになる趣味はなく、そういう可能性も金輪際未来永劫やって来ませんから」
それはハッキリ断言して良い確定事項である。
議論の余地などはない。
待てと云われて待つ者は居らず、再び腕を掴まえられて引きずり戻され嫌だと暴れた。
必死の抵抗だったのだが掴んだ手はビクともしない。
「誰か助けて」と叫んだ。
唐突にデクの棒の如く突っ立っていたナメクジ、文左衛門Jrが動いた。
この父親に加勢して一緒にボクをどうにかしようとするのか。
父親だけでも手に余るのに、二匹一緒に絡みつかれたらもうどうしようもない。
焦った。
かつて無い焦燥だった。
俺にしろわたしにしろ生涯にわたって二度目になる最大の危機。
二号ちゃんに絡みつかれたときにも焦ったが、今回はその比じゃなかった。
血の気が音を立てて引いていった。
暴れた。
とにかく暴れた。
全身全霊をかけて藻掻いた。
蹴りを入れ空いた方の腕を振り上げて叩き、なんとか振りほどこうと懸命だった。
こんな場所でこんな連中にどうにかされたくない!
「助けてっ、助けてぇっ、だれかぁ!」
声の限り叫んだ。
しかし激しい雨音と乱立する笹藪に遮られ、空しく吸い込まれてゆくばかり。
響き通る気配すら無い。
そもそも、こんな大雨の日に外を出歩く者が居るとでも?
花子の家から此処に来るまで誰ともすれ違わなかったではないか。
だがそれでも一縷の望みにかけてボクは声の限りに叫んだ。
雨音の中に自分の悲鳴が空しく吸い込まれてゆく。
両腕を掴まえられ吊り上げられて、両足を宙にバタつかせることしか出来ない。
抵抗しているのに相手はまるで意に介さない。
圧倒的な腕力に押さえつけられてどうにもならなかった。
我を忘れて暴れ続けた。
ただひたすらに暴れた。
やめてともう一度叫び、懸命に文左衛門に蹴りを入れた。
何度も何度も蹴った。
だが、効いているのかいないのか、まるで手応え、いや足応えがない。
「落ち着きたまえ」と太い声があった。
ふざけるな、それはコッチの台詞だ。
その太い手を離せと暴れた。
駄々をこねたわがままな幼児が親に抱きかかえ上げられているような姿だった。
無様だった。
だがこんな有様でいったい他にどんな術がある?
ずるりと巨大ナメクジが目の前に迫ってきた。
更に絹を裂くような悲鳴が上がった。
切羽詰まり裏返った声がごく間近で聞えた。
それがボクの声だと気付くのに一瞬の困惑があった。
けれど、自分でソレと気付けない程に動転していたのだ。
「父上、その手を放して下さい。嫌がって居るではありませんか」
急に聞えたそれはとても落ち着いて理知的な声だった。
一瞬誰が話しているのか分らなかった。
だが、「手を放して下さいと言っているのです」と再び聞えた時に、目の前のナメクジが話しているのだとやっと気付くことが出来た。
「Jr何をいう。わしはそなたのコトを思ってだな」
「お心遣いは感謝しますが、無理矢理というのは道に外れた行ない。義に反しましょう」
「無理矢理ではない。この嫁候補に道理を説き、落ち着いてもらおうと手を尽くしている最中で」
「詭弁はけっこう。放して下さいと言っているのです」
再びそう言うと口元の触手がひょいと伸びて、文左衛門の腕をびしりと叩いた。
驚いたように手が離れ、その隙にボクはその腹を蹴っ飛ばしてもう片方の腕を無理矢理引き剥がし、どうにか地面に降り立つことが出来た。
そしてそのまま数歩後ずさって、ようやくこの巨大な御仁から離れることが出来たのである。
ぜいぜいと肩で息をしながらふたりを見やると、ボクと文左衛門との間にずるりと割って入る巨大ナメクジの姿があった。
「父上が焦る気持ちは判ります。ですがだからといって相手を拐かし、己の意図を押し付けねじ伏せるなど言語道断。不埒者の所業、不義不道徳の極みでありましょう」
「だがもう時間は無いのだぞ。今期の雨期の内にも我らは住処を追われ、別の地を目指さねばならぬ。その前にこの地に我らの子を残し、万が一の為の備えをしておかねばならぬ。
怠れば、血が絶えてしまうやも知れぬのだ。おまえとてよく分っていよう」
「いずれにせよ先行きは細いのです。絶えればそれもまた命運でしょう。娘さん、我が父がご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。見送りも出来ず不躾ですが、この場はこのままお帰り下さい」
背中を向けたまま触覚の先に付いた黒い目玉だけがこちらを向いた。
お辞儀をするように揺れたのはきっと頭を下げたのだろう。
少し惑ったけれどこの機を逃すわけにはいかない。
ボクは「失礼します」とぺこりと頭を下げるとそのまま足早に竹藪を抜けた。
「待って下され」と切羽詰まった声と、それを窘めるJrの声が聞えた。
だが足を進める度に掠れ、すぐに雨音と竹藪のざわめきの中に埋もれて聞えなくなった。
藪を抜けるとそこは閑散とした普通の路地だった。
少し強めの雨が濡れた路面を叩いているがただそれだけ。
人気の無い雨の町の静けさがあった。
振り返った藪の中からは何も聞えてはこなかった。
押し問答はまだ続いているのかも知れない。
だがもう関わり合いには成りたくなかったので、足早にソコを離れた。
元の路地に戻ると、放り出してしまった雨傘はまだソコに転がっていた。
拡がったままだったので傘の裏側に雨がずいぶん溜まっていた。
スーパーに寄ろうかと思っていたのにとんだ道草だ。
まさかずぶ濡れのまま店に入る訳にもいかない。
一度帰って着替えよう、そう決めると傘を差し直し最初に来た道を引き返した。
そしてその時になって初めて、傘の骨が一本折れていることに気が付いた。




