52.六月二十一日 早朝 訓練慣れ
櫛田家での合同訓練が始まってからひと月と少し、六田楓は殺意に近い悪しき感情を抱いていた。しかしここは妖討伐一族の住む里、口が裂けてもそんなことは言えない。妖とは人の悪意に漬け込み現世へ現れるものだからだ。
しかし大分慣れてきたから楽になってきたなどと切り出されたら褒められると思うに決まっている。訓練の指南役である当主筆頭の櫛田八早月が見せたほんの一瞬の笑顔は、これから始まる地獄の特訓開始の合図だった。
「はっ、はっ、はっ、最近怠けていたからさすがに息が上がってきますね。
ほらすぐ立ちなさい、素振りを始めますよ?」
「はぃ、ほひぃ……」
年の功なのか当主の意地なのか、ドロシーだけが返事を声に出すことが出来た。楓と直臣はうなずくだけで精一杯の様子である。山坂道を三十分ほど走ればもうすっかり体力を使い果たしてしまって当然だ。
ぜーぜー言いながら水を一杯飲んで、すぐに素振りと言われても簡単ではない。しかも前回までは竹刀を使っていたのに今日からは木刀である。それをノンストップでまた三十分繰り返すとひと息入れて次は打ち込みである。
楓と直臣は真宵相手の二対一、ドロシーの面倒は八早月が見ている。これもまた三十分ほど行ってようやく五分の休憩が言い渡された。すでに起き上がれない楓はここで件の感情を抱いたわけである。
だがそれでも意地があるようで、先に動き出した直臣に負けじと立ち上がり、井戸から水を汲んで頭から被った。さらに気を吐いてから木刀を左手に持ち背筋を伸ばして姿勢を正した。
「楓は気合十分で素晴らしいですね。
それでは最後に構え静止と行くところですが、その気合に応えて立ち合いとしましょうか」
「望むところ! お願いします!」
今日の楓は一味違う、そう思わせてやると木刀を構えると、正面には直臣ではなく八早月が立っている。そんなバカなことがあっていいのかと戸惑う楓の心を知ってか知らずか、全員に向かって指示を出した。
「直臣は木鉾を使ってドリーと、楓は私と立ち合いましょう。
それでは準備が出来たら始めてください。
楓はいつでも打ち込んできて構いませんよ。
念のためですが、真宵さんは見学ですからご安心を」
八早月がそう言うと、確かに真宵は少し離れたところで見学するようだ。つまり今の八早月は完全に自身の実力のみで立ち会うと言うことになる。これなら多少は何とかなるのでは? と考えた楓は、最初よりは随分とやる気が出てきた。
しかしそれは幻想にすぎず、そもそも普段の立ち合いや打ち込みの鍛錬で、八早月は真宵の力を借りてなぞいなかったのだ。頭一つ分は違う体格差も、その素早さと下から容赦なく襲い掛かる逆袈裟の威力に楓は圧倒されてしまった。
最終的には、楓が一番得意としている正眼からの下がり逆籠手と言う、誰でも避けにくい突きに近い技を半身に回転されながらいなされ、木刀を両手で握った腕の隙間を通して突きあげられた天突きで決着となった。
まるでボクシングのアッパーカットのように懐へ飛び込んでからの突き上げは、小柄な八早月ならではの大技ではあるが、そんなことをしなくてもその手前の足なり腰なり腹なりを斬り捨てれば終わりのはずなので、あえて言わなくても相当余裕のある勝負手であった。
もう一組、直臣の木鉾とドロシーの木剣ではリーチ差が倍ほどありいい勝負である。ドリーも決して弱くはないが、直臣の才もかなりのもの。ただ体力と精神力には大きな違いが有り持久戦ではドロシーに分がある。
激しい打ち合いの末、最後は直臣の横薙ぎを飛んでかわしながら斬りつけた。それは天狗飛び斬りの術とも言える飛び込み斬りで一撃必殺間違いなしの大技である。
「真宵さん!」
八早月が言うよりも早く思考を察知して間へ割って入った真宵は、直臣が繰り出した木鉾の横薙ぎを鞘で受け止め、ドロシーの木剣を小太刀で受け流すことで、双方が傷を負う前に中断させることに成功した。
「ふう、どちらも怪我に至らず安心しました。
真宵さん、ありがとうございました。
まだ木刀での立ち合いは危険でしたね、明日からは竹刀を使いましょう。
では本日はこれまで! ありがとうございました」
思っても見ないギリギリの勝負をしてしまった直臣とドロシーはその場にへたへたと腰を付き、肉体も精神も疲労が限界に来た楓は白目をむいて地面へ背中を預けた。




