2.四月九日 夜 家族団欒
八畑村にある平屋造りの旧家前には、昨日の朝に街の大通りを走っていた黒いワゴン車が止まっていた。チリチリとごく小さな音がしているのでエンジンを止めて間もないのだろう。傍らには板倉がだらしなく腰を曲げて立っていた。
「お母さま! 私今日は恥をかいてしまいました。
いつも使っていらっしゃるあの板のようなものはすまほと言うものらしいですね?」
「あらあら、もうお友達が出来たのかしら?
良かったわねぇ、八早月ちゃん。
もしかして連絡先交換しようって言われたのにできなかったとか?」
「まさしくその通りです!
皆が持っているから私も、などとは言いません。
しかし知っていて断るのと知らずに伺うのでは事情が異なります。
まるで山から下りてきたお猿に対する扱いを受けたような気分でした……」
「あらぁ、それなら明日にでも届けさせるわね。
板倉君に会社まで取りに来てもらうから帰りには使えるわよ。
それより今日は授業があったのでしょ、どうだったかしら?
入学式だけ見てもなにもわからないから、ママ不安だったのよねぇ」
「何の問題もありませんでした。
必要なものは購買で購入できるので、明日からはお小遣いを下さいね。
それにしても街中と言うのは平和ではありませんでした。
妖の気配が随分と多かったのですよ?」
「そうなのかしらねぇ、そう言うのママにはわからないけど。
きっと人が多いから仕方のないことなんでしょう。
パパに聞いたら詳しく教えてくれるはずよ?」
「亡くなった人には教えてもらえませんから残念です。
生きているうちにもっと色々教えてくれれば良かったのですが。
そのうち宿おじさまに聞いてみます」
パパと言うのはもちろん八早月の父であるが、まるで意に介さない素振りで分家の一つ、初崎家当主である初崎宿の名を挙げた。
「あらあら、相変わらずパパには冷たいのねぇ。
ほうら、あそこでいじけてるわよ?」
「なるほど、幽霊もいじけることがあるのですね。
ひとつ勉強になりました。
では明日の用意をするので今夜はこれで失礼します。
お母さま、玉枝さん、お休みなさいませ」
そう言って八早月は食べ終わった食器を下げようと膳を持ち上げた。すると下女の北条玉枝がすぐに受け取ろうと立ち上がる。しかし八早月はそれを制してから再び口を開いた。
「お母さま、玉枝さん、これからはあまり甘やかさないで下さい。
学校では昼食が振舞われましたが、自分で盆を持ち並ぶのですよ?
私は座って待っていたので、ここでも恥をかいてしまったのですからね」
「お嬢様ったら、それは申し訳ございませんでした。
この婆が気付いていればお教えもできたのですが。
ちゃんと房枝姉にも言い聞かせておきますねぇ」
「玉枝さんたちは悪くないわ。
すべては私の勉強不足ですもの。
でもお母さまは少しくらい教えておいてくれても良かったではありませんか」
「あらあら、そうねえ。
でもママは八早月が何を知らないかわからないのよ?
初めて村から出たのだから大変なこともあるわ。
それも楽しみの一つだと思えばいいんじゃないかしら、うふふ」
「そうだよ、パパもそうおも――」
「どうも疲れからか幽霊の声が聞こえるようなので床に入ります。
今度こそ本当にお休みなさいませ」
八早月はそう言って自室へ向かった。静かになった居間には、八早月の母である手繰と下女姉妹のうち妹の北条玉枝、それに幽霊扱いである父親の道八が手繰に慰められていた。。