231.十二月二十七日 早朝 唐突な出発
さすがに十二月も最終盤を迎えると年末、そして新年と言う気分が高まってくるもので、それは八早月も同じこと。今年も元旦には村民への挨拶もあるし、前年に産まれた子がいれば祝辞を送る役目もある。
『もうそんなことを考える時期になったと言うわけね
中学に上がってからもう一年経ったなんて、一年早かったわ』
『いいえ八早月様? 新年明けたとしてもまだ一年経過ではございませぬ。
学園へ上がったのは四月でございますよ?』
『ああ、そうだったわね、うっかりしていたわ。
早起きしすぎて寝ぼけているのかもしれないから気を付けなくてはダメね』
『それでこんなに早起きをしたのはなぜでしょう、まだ明け方どころか夜中です。
鍛錬をするには早すぎますが、どこかへ出かける予定がございましたか?』
真宵にそうたずねられた八早月はさも当然のように大きく頷く。だが行き先は告げずに黙々と支度を始め小奇麗な洋服に着替えた。その姿はどう見てもよそ行きであり、どう見てもこれから鍛錬するようには感じられない。
五歳ころから朝の鍛錬を始めてからずっと、そして八歳で筆頭を継いでからはお役目の日以外には欠かさず続けてきた鍛錬を休む日が来るとは。真宵はあまりの驚きにどうすべきか考え込んでしまった。
『では真宵さん、参りましょう、ささ、背に乗ってくださいな。
鍛錬を休むわけには行きませんから途中までは全力で走りますよ』
『全力で走って行くとは!? 一体どこまで行かれるつもりなのですか?
しかも私を背負っていくなどとおかしなことをおっしゃって戸惑うばかり。
せめて行き先を教えてくださいませんか?』
『そうね、これは秘密の特訓なの。まずは暗闇を走って行くことから始めましょう。
明るくなるころには大分進めているといいのだけれどね』
怪訝な表情を浮かべながらも真宵は言われるがまま、命じられるがまま八早月の背へと体を預けた。小さな少女の上に大人の女性が乗る姿はどう考えても不釣り合いで恥ずかしいものだが、主に命じられているのだから抗うことは出来ないのだ。
戸惑う真宵を背中に乗せた八早月は宣言通り全速力で走りだした。それでもまだ行き先を言わず黙々と走り続ける。しかもただ走るだけならまだしも、真宵を乗せることで現世の制限を解かれた八早月の足取りは人間のそれとはまったく異なる。
真冬の寒さや空気抵抗の影響を受けずにひたすら走り続けるとほどなくして県境をも超えていく。この方角へ向かっていると言うことはつまり―― 行き先を察した真宵はひと安心し黙って背中で大人しくしていることにした。
『真宵殿は察しが悪いのですなあ、昨晩例のすまほとやらで盛んに文のやり取りをしていたではございませぬか、ふふふ、愛いですなあ』
『藻殿は最初からわかっていたのですか? どうも私はそっちに疎くて……
と言うことはまさか巳女殿も!?』
『まさかとはどういうことじゃ? 妾はこの中で唯一既婚歴有する者ぞ?
逆に、おぼこで生娘の真宵殿にまさかと言われる方がまさかなのじゃ』
『もし? あまり頭の中で騒がないで下さい、集中力が途切れてしまいます。
こんな速度で現世へ飛び出したら転んでしまうではありませんか』
八早月からもっともな指摘を受けた三人はしゅんとして黙ってしまった。だがそれも当然のこと、普段八早月が送迎してもらっている車よりも早く走り続けているのだ。もし肉体が現世へ出てしまったなら転ぶどころでは済まないだろう。
しかし今は現世と重ねた常世を高速移動しているため、現実世界における一切の物理制限を受けていない。つまりは自身の周囲を常世同等の環境にすると言う術を行使しながら現世を移動していると言うことになる。
このような奇術、誰にでも出来ることでないのは間違いないが、現世常世へ呼士の一部を出し入れ自在な八早月ならばこそ可能なのだろう。それでも高い集中力が必要らしく、八早月の神経は張りつめていた。
もちろん体力の消耗も著しいようで、辺りがうっすらと白んで来た頃には速度を落とし、ひと気がなく広めの野原で歩みを止めた。どうやら全力疾走の時間を決めていたらしく、八早月の下げたカバンの中からはスマートフォンがアラーム音を鳴らしブーンブーンと振動している。
『ふう、もうだいぶ進んだのでしょうから少し休憩しましょうか。
車で四時間ほどと言うことは、恐らく半分以上は進んだと思いたいものです』
『主様? 行き先は海ではなく山なのでしょうか?
てっきり海岸へ向かっているのだと思っていましたがどうやら道が違うようで』
『藻殿、この方角は恐らくかの御仁たちが通われている寺子屋のある山かと。
もう二山ほど超えた辺りと記憶しております』
『お二人ともさすがです、でも別に隠すつもりがあったわけではないのですよ?
ただなんと言うか、あえて口にするほどのことではないと言うか……』
『気になさることは有りませぬ、さ、遠慮なくいつものようにご連絡を。
残りの行程は私が変わりますゆえご安心くださいませ』
『元よりそのつもりではあったのですが…… では真宵さん、お願いしますね。
ちょっと巳さん!? 顔が見えなくても感情が流れて来ていますよ?
こっそりと笑うのはやめてください! すぐ冷やかすのですから、もう!』
照れ隠しに怒ったふりをしながらも真宵の背に乗り換え、いそいそとヘッドセットを取り出し耳の穴へと挿しこんだ八早月。準備ができたことを確認した真宵はすぐに宙へと駈け出した。八早月を乗せたまま常世を通ることは出来ないため、人目に付かないよう遥か上空を進んでいくのだ。
真宵が駈け出してから間もなく、八早月の元へ待ち人からの連絡が入った。会話の様子からどうやらこれから学校へ向かうようである。楽しそうに笑いながら話をしている主を背に乗せた真宵は、いつになくもじもじと落ち着きのない八早月を微笑ましく感じていた。
「―――― はい、その通りです。飛雄さんは年内ずっと練習があるのですか?
随分と頑張るのですね―――― いえいえ、とても素晴らしいと思いますよ。
だってそうではありませんか、手を抜き休んだとしても罰則などないのです。
でもそうはせずに厳しい練習に時間を費やすのですから立派でしょう?
―――――― そうは言っても学園には陸上部と運動部の二つだけ――
―― 違いますよ、運動部と言うのは色々な運動をする部活動らしいです。
でも球技は体育館のみと聞いています―――― はい、高等部にもありません」
幼き当主として家と一族を護り束ねている八早月は、傍から見ると大人びていて無口で厳しい人物だと思われがちだ。しかしその実、存外おしゃべりであり、せっかちで落ち着きのない性格である。
方や飛雄はそれほど話がうまくも好きでも無いため基本的にはいつも受け身である。それでも野球の話になると饒舌になるようで、特に八早月のバッティングを撮った体育祭のビデオは飛雄の心に相当のインパクトを残していたらしく、次を楽しみにしていると言いはじめた。
『じゃあ来年の体育祭ってことになるんだな、しばらく見られないのは残念だ。
野球っていい鍛錬になるし楽しいけど場所と人と道具が必要だからなあ。
―――――― そうそう、そういうこと、でも一人二人でもできることも――
うん、素振りもそうだし壁当てだって一人でできるからさ』
「では二人でも出来ると言う鍛錬が一緒にできるといいですね。
楽しみにしてみようと思います―――― はい、ええ――――――――――
私としては知らないことをやってみること自体が楽しいのですよ?
それに飛雄さんがきちんと教えて下さるのでしょう? それなら安心です。
私は代わりに武術をお教えできますが興味ありますか? ――――――――
うふふ、無理はしないでいいのですよ? 怪我をしてしまっても大変ですからね」
人家のあまりない里山上空を駆ける真宵の背で、異性の友人と楽しげに会話をする八早月。真宵はこんなことが起きるとは今まで想像したことがなく、現在の状況を素直に喜んでいた。




