9.四月二十三日 午前 不愉快な雨
どんよりとした厚く黒い雲としとしとと週末から降り続く雨、八早月は月曜の朝から憂鬱な気分だった。それはもちろん朝の見回りでびしょ濡れになったことも含まれているが、それ以外全ての理由は雨のせいで毛先が跳ねてしまうからである。
普段は母親似で真っ直ぐな黒髪なのだが、湿気の高い日にはほんのわずかだけ毛先がくるりと弧を描く。それはきっと父方の癖っ毛が顔を出すせいだ。癖が顔を出した髪を見るたびに父親のせいで髪型が乱れていると感じ、考えれば考えるほど腹立たしい気分になっていた。
「お嬢? 明日は晴れるみたいですからね。
今日一日は頑張って乗り切ってくださいませ。
ちなみに私も雨は大嫌いなんです。
引退するきっかけになったレースはえらい土砂降りで、派手にクラッシュしちまったんですよねぇ」
「なんでわざわざそんな危ない目に合おうとするのかしら。
車なんてゆっくり走った方が安全でしょ?」
「そりゃもっともなご意見で返す言葉もございません。
ま、命を張った道楽ってところでしょうか。
今となってはそんなことやりたいと思いませんがね」
「それがいいわ、板倉さんがいなくなったら寂しいもの。
運転は上手だし、お話も面白いし、なによりスラッとしてカッコいいわ」
「そりゃどうも、お世辞でも嬉しいです。
これで私の心は空より先に晴れちまいました。」
「まあお上手ね、でもなんだか私も晴れてきたみたい。
それに雨だからといって悪いことばかりとは限らないわ。
校庭での体育が無くなるんですもの」
「お嬢は体育が嫌いなんですか?
運動自体は得意なのに意外ですねぇ」
「ええ、苦手ではないけれど、まず人前で着替えるのが恥ずかしいのよ。
それに埃っぽくなってもすぐに湯あみできないもの」
「左様ですなぁ、風呂好きのお嬢には耐えがたいかもしれません。
そうだ、耐えがたいと言えば二度も助けてもらって礼も言わない坊はどうです?
礼も言わずに立ち去る野郎なんてお嬢は嫌いそうじゃないですか?
幸いにも今日は一人みたいですけどね」
「ああ、あの少年ね。
きっと逆らうだけの力も逃げるための足も、そして度胸もないのよ。
世の中にはそう言う人たちだっているのだから仕方ないわね。
恨みを募らせて妖を呼んでしまうのもああいった人たちなのよ?
彼の身に安寧が訪れたのならそれで十分、私は偽善者ですからね」
八早月はそう言いながらも少しは気になっているのか、板倉へ命じて車の速度を落とし窓を開けて声をかけた。
「そこの少年? 今日はお一人なのかしら?
あれから嫌なことはされていませんか?」
通りすがる車から突然声をかけられた男子生徒は、とても驚いた様子で八早月のほうへ向きなおした。そして何かを言おうとするがうまく言葉にできていない。
「板倉さん、止めてくださいますか?
ええっと他の学校の生徒さんですよね?
お名前がわからないままで失礼しますが、その後いかがお過ごしですか?
まだいじめられるようであればすぐに逃げることをお勧めします」
「―― ……さい……」
「いえいえ、礼には及びません。
なすべきことをしただけなのですから」
「―― っるさい!
うるさい! うるさい! 助けてくれなんて頼んでない!
ぼくのことなんてほっといてくれ!」
少年は苦しそうに叫んで走り去っていった。どうやら八早月は余計なことをしたらしい。それでも助けずにはいられなかっただろうが、自分のお節介で彼の尊厳を貶めてしまったのだとしたら悪いことをした、と感じる程度の常識は持ち合わせていた。




